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月下美人

 大きな満月で、夜半過ぎだというのに昼間のように明るかった。

 街道を歩く青年は、提灯も持たずに馬宿への道行きを急いでいた。馬宿には入れないだろうが、それでも全くの野宿よりは、宿の軒下のほうがましだろう。


「ひぃ、ようやっとついた」


 旅慣れていない若者だ。山向こうの甘味処でのんべんだらりと過ごした挙句、急ぎの旅だったことを思い出して走ってきたものであるから、月明かりばかりを頼りに急ぐ破目になっていた。

 すっかりしんとした馬宿の軒下に座って、青年は身を縮めた。暦の上ではもうすぐ秋だ。夜風に身を震わせて、青年は目を閉じた。



 鈴の音が、遠くで鳴っている。


「もし……?」


 青年の目を覚ましたのは、そんな鈴の音に似た声だった。もう朝か。はっとして青年は顔を上げる。だが、見上げた空はまだ暗く、星が燦然と瞬いていた。


「こんな場所では風邪をひきますよ。月もないこんな夜に」


 赤い光が漏れる提灯を差し出して、二つの目玉が青年を見下ろしていた。透き通るように白い衣に、同じくらい白い髪の女だった。両の目は青みがかった月の色で、袖をちょんと押さえる指先は作り物のように細く、艶やかだ。


「旅人さん。今夜はうちでお休みなさい。ろくな布団もありはしませんが」


 女はすぅっと背筋を伸ばす。青年はそれに引っ張られるように立ち上がった。女の着物の袖がふわりと夜風に広がる。足音を立てずに歩く女の後を追い、青年は夜空を見上げた。星ばかりが瞬く空に、青年は「おや」と声を漏らす。


「今宵は満月でしたね」

「いいえ、今宵は朔の日ですよ」

「しかし、私は月明かりでここに来ました」

「いいえ、それは星影ですよ」


 ふぅむ、と青年は腕を組む。そうする間にも女はするする進んでいって、はたと気が付いたときには馬宿から随分と離れていた。


「さあさ、こちらへ」


 指差した先には、世辞にも立派とは言えないあばら家があった。青年は組んだ腕をほどいて、女に近付く。そして、ぷう、とその提灯の火を吹き消した。ギャっと暗闇の中から声がして、女は家の上に飛び上がる。逆立った髪の束の先に、青白い焔がともった。


「隠してしまうなんて、勿体のないことをする。御覧なさい。今夜はいい月夜だ」


 吊るした布を剥ぐように、景色がゆらいで、闇が晴れる。煌々と照る満月で、女の影が地面に落ちた。

 ぴんと立った三角の耳に、二股に分かれた尾。丸まった背の逆立った毛まで、くっきりと映し出されていた。



 肩を揺らされて、青年は目を覚ます。気付けば馬宿の軒下で眠っていた。宿の主が、困った顔で腕を組む。


「このあたりは、夢を見せる猫又が出るんだよ。お兄さん、よく連れていかれなかったね」


 主に苦笑いを返して、青年はがりがりと頭を掻いた。


「夢か……?」


 はたして、と馬宿の縁の下に目をやると、白猫がにゃあと一つ鳴いた。

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