菅原輝也
*
無事、落合専務にも認められて、今日は長崎へ杉内君を迎えに行く車中だ。十二月の寂しい高速を走り、十一時の約束にはしっかりと間に合うようだった。
私は意味もなくため息を吐く。
思えば仲井間君の売り出しに失敗して以来、うちの事務所は東京で火のついたSalty Cannonに頼りっぱなしだ。落合専務と貞方社長――事務所に顔は出さない名義上の社長との話し合いで小さな不祥事を理由に仲井間君を退社させる話も出た。が、社長はひと言、
――「若かうちは色々ある、それぐらいで辞めさせたら可哀そうか」
そう言い、そこには落合専務も頷くしかなかった。下っ端の私となればなおのことだ。出資額は彼がいちばん大きいのだから。
――「社長は昔、音楽ばやっとったけんね」
専務はそう言うが、それは専務も私も同じ穴だ。自分の青春の幻影を若いミュージシャンに重ね、叱咤激励しているのが毎日だ。いつかSaltyを超えるミュージシャン発掘のため奔走している。
超える、といえばどうしても日向那由多さんのことが頭から離れない。ライブも聴いたが、九州の片田舎に燻っていてもいいレベルのミュージシャンではない。まずは彼女を先決に、と思った私に専務は言った。
――「大きい魚を釣るには大きいエサも必要やろ」
なるほど、恋仲である日向さんを呼ぶにはまず杉内さんからだということだろう。あのふたりの関係は隠すつもりがバレバレだった。特に日向さんが彼に向けるオーラは並大抵ではない。
そんな長崎行きの車を走らせていると、嫌な予感がした。しだいに渋滞が始まっているのだ。
ラジオをつけてしばらくすると、長崎道の佐賀手前で事故渋滞だという。これは一時サービスへ入って須藤さんに連絡だ。時間に遅れるというのは私の中にあってはならないことだ。それがたとえ事故でも。
一時間後、高速へ戻ってハンドルを握る。動き始めた行列に、ふと事務所立ち上げの頃を思い出していた。
実に十年だ。今では四十になろうとしている私とほぼ同世代のSalty Cannonを中心に据え、事務所は回転し始めた。時にそれは空回りだったかも知れないが、落合さんがねじ込んだ東京のライブで彼らは見事な成果を出した。初の遠征ライブで、とあるレーベルから声をかけられたのだ。まだ所属アーティスト二組だった事務所はまるで紅白歌手でも出したように狂喜乱舞した。あの時の気持ちは今も忘れない、
その気持ちをまた味わえるだろうかと、小さな期待を寄せる。ただし、それが杉内君ではなく日向さんへの思いだということは誰にも黙っていよう。あの独特の唄い回しは、そこらのメジャーアーティストの中にあっても埋もれるものではない。落合専務ではないが、杉内君をエサにしたいのはすでに事務所の方針だった。
ようやく車が動き出したのは十一時で、一時間押しは免れない。さっきのサービスでコーヒーでも買えばよかったと後悔する。
――「遅くなりまして、申し訳ありません!」
スタジオDへ到着すると、須藤さんと杉内君が迎えてくれた。
――「まあ、どうにか面倒見てやってください」
須藤さんの言葉に、
――「よろしくお願いします」
彼は控え目に頭を下げた。荷物はリュックとギターだけだった。
――「ええ。一時間押してます。とにかく急ぎましょう。
スタジオDを出ると、あとはノンストップだ。
――「何かいるなら今のうちに言ってください」
すると彼は驚いたことにギターを出していいかと言う。
――「車内で唄うんですか?」
――「ええ。ダメですかね」
私はコンビニへ車をつけ、コーヒーを買った。杉内君は嬉しそうにトランクからギターを出していた。
――「向こうに着く前に仕舞ってくださいよ」
私が言うと彼は頷きつつ、もうギターを弾き始めていた。線の細い内気な青年だとばかり思っていた私は、よくも悪くも、なんとなく彼が事務所の雰囲気を変えてくれるかも知れないと思っていた。変えなければならない状況だったのだ。
一月になり、彼も多少は事務所に慣れたようだった。彼が唄うというストリートでノルマ四十枚はきついかと思いつつも、ひとまずは地元ミュージシャンとして果たして欲しいチケットノルマを課していた。三月のファーストライブだ。ただし何のプロモートもまだ行っていない身としては、十枚売れれば万々歳という目論見だった。だったのが――。
――「全部売れたんですか! 四十枚!」
ある日曜の事務所で、杉内君が言い出しにくそうに伝えてきた。その声と事実に、顔を出していたTIMESの関さんと小川さんが驚いて腰を浮かした。
彼が言うには知り合いの女の子からの紹介で四十代ほどの男性が即金で買って行ったという。実に十四万円だ。もしかしたらナスティはとんでもない新人を招いたのだろうか。が、話はそれだけで終わらなかった。
三週間ほどしたある日、事務所に覚えのない大きな荷物が届いた。しかも宛名には杉内直己様とある。個人の荷物は自宅へ届けて欲しいのだが、受け取ったからには本人に来てもらうしかない。詐欺の類だったら本人に何とかしてもらうしかない。
しかし、箱を開けてみると様相は違った。
――「おい。ギターやっか!」
関さんの言う通り、黒光りするギターケースが見えた。確認のために送り先へ電話を入れると確かに主人が贈ったと、若い女性の声が答えた。これは一大事だった。送り主の名前の通りならば中州一帯の高級クラブをまとめている岡崎興業からのものだ。私はすぐに東京の落合専務へ電話を入れた。
彼の存在がナスティの命運を分ける。そんな予感は当たったと言わざるを得なかった。ある日、彼が営業の仕事を持ってきた。岡崎興業系列のクラブで弾き語りのステージを任されたという。ストリートというのはとんでもない仕事が任されるもので、しかしそうなるとウチとしてもそれを利用するしかなかった。毎回二万はギャラをもらうという現状を手放しに放っておく訳にもいかない。
岡崎興業の芸能部へ電話を入れ、まずは意図を訊ねた。まだまだ二十歳の青年を抜擢した理由だ。すると三十分後に折り返された電話の主は岡崎興業の社長補佐――要は副社長だった。私は手に脂汗をかきながら質問する。と、副社長の口にした理由は単純明快だった。杉内君を気に入ったというのだ。
そこから先は水面下の駆け引きで、ウチにはまだ優秀なアーティストがいるということを遠回しに告げた。するとまた彼は明快に、
――『いずれウチの系列でナスティさんのアーティストを使いましょう』
そう答えた。電話を切っても受話器から手が離れなかった。杉内直己というアーティストの力を、私も専務も見誤っていたのかも知れない。そう震えた。
三月三日。ナスティの総力を挙げたライブが行われた。やはり見抜いた通り日向さんのパフォーマンスはその日のナンバーワンだった。楽屋の方で問題が起きていたらしいが、表舞台には影響しなかったことが何よりだった。話では杉内君のギターの弦を仲井間君が切ったらしい。
(やはり問題は仲井間君か)
ファーストアルバム発売から五年。路上演奏を続ける彼には次の手を打てずにいた。最近ではその不満が行動の端々に見える。
そう思って一か月後――。
仲井間君をNOAのステージに押したのは入ったばかりの日向さんだった。恋人のギターの弦を切ったという人物を自分の仕事へ引き込む、という敵に塩を――決して敵ではないのだけれど、そういう行為へ出られる彼女もまた不思議な存在だった。
五月は駅前イベントに日向さんのワンマンと、忙しく始まった。それと同時にそれぞれのアーティストに岡崎系列のステージがあてがわれ始めた。まるで創業期のような忙しさに、私もやる気が満ちていた。
次に社内で決まったのは、日向さんのCD制作だ。杉内君と順序が入れ替わってしまうのは申し訳なかったが、落合専務は何より彼女のCDを作りたがっている。これは決定事項だった。
やがて日向那由多ファーストCDは完成した。そこで彼は、またしても大きな仕事を持って来る。結果がついてこなければただのスタンドプレイなのだが、彼の場合は予想を超えた結果を残すのだ。事務所としては扱いづらい存在にもなっていた。
その仕事というのは、日向さんのCD百枚を岡崎興業に納入。その後、系列店でレコ発ライブをやるというものだった。どう考えても損益の出ないそのイベントに、落合専務もゴーサインを出した。
それから事務所は暇にしている者もなく、日向那由多レコ発ライブが秋口まで続き、私も忙しさにかまけていた。インストアライブ、『夕凪』のCMソング化と、十二月に入っても息は吐けなかった。こんなにも所属アーティストの仕事が詰まっているということは今までになく、高揚感だけで仕事をこなしていた。ほんの春先までならアーティストのそれぞれに目を配れたはずなのだ。それができなかったのは、杉内直己という人間の難しさが理由だったのかも知れない。彼はとにかく、動き出すまで無言なのだ。
ただし、年が明けると彼も無言ではいられなかった。TIMESの九州全県ツアーにメンバーとして入れられたのだ。彼もきっと先輩バンドの一員として、ミュージシャンである自分をしっかりと意識していたろうし、燃やす闘志もあったろう。なのに、というのが今の素直な気持ちだ。
――「事務所を辞めさせてもらいます。違約金があるならそれも払います」
ある日、月曜の定例が終わったあと、彼は専務室をノックした。私は思い詰めた彼の顔を見て、これは翻らない、と思った。私が覚えている限り杉内直己という人間は、そういう顔をした時に言葉を変えない。
まずいことになったと、片方では日向那由多のメジャーデビューの企画書に手をかけ、
――「今いきなりそういうことは……理由はなぜです?」
彼は消え入りそうに答えた。
――「CD……出せないんでしたら、いる意味がないんです」
――「いえ、決して出さないとは言ってないんです。専務も今年必ずと言ってますし」
しかし、次の言葉は力強かった。
――「いいんです。CDはあきらめます。ただ、決めたんです。博多も出ます」
――「ですが急に決められましても……」
――「ですから専務の方に話を通しておいてください」
分からなかった。今では事務所での位置も不動のものにし、あとは待つだけの身で何を投げ捨てるというのか。
結果、彼は日向さんのレーベル移籍前にナスティを離れた。そのささやかなサヨナラライブには三十人が集まったという。日向さんという手駒をこちらで握っている限り退社はないと読んでいた落合専務の負けだった。私には、一度でも彼のストリートを聴きに行けばよかったという小さな後悔が残った。思えば私もまた、彼の演奏を通り過ぎるだけの人間だったのだ。
――「お世話になりました」
離職の日、彼は大きな荷物とギターを抱えていた。その姿は一年と三か月前、長崎から博多へ出て来た時の彼を彷彿とさせた。車の後部座席で唄っていた『西高東低』。その歌詞のまま彼は西へ東へ向けてこれから飛び出すのだろう。ナスティは今日、大切な何かを失ったのかも知れない。そこに祝福の言葉はなかったが、私はただ、杉内直己という人間を応援してみたかった。事務所の枠に収まりきれなかったその夢と共に。