杉内直己
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春の紅が懐かしい稲佐山のシルエットを照らし出す。駅前の高架広場はあの日見たまま、ほろ苦い思い出を連れてくる。それを缶コーヒーの苦さにすり替え、煙草をもみ消した。
日曜日の昨日は四月に入ったばかりのアーケードで寝ていると、警官に叩き起こされた。危険だというのだ。こちとら平気で盗まれるような小荷物はなく、丈夫な紐で腰に縛りつけていた。それでも危ないというので渋々サウナへ泊まった。渋々ながらも見覚えのある光景に安らいだ。サウナはいつも健康さと不健康さに満ちている。今夜は懐かしいホテルニューさわいに宿を取った。
地元に戻っていちばんの収穫は、思案橋前で、あのミヤビさんに会えたことだ。去年のスタジオDで焼肉を囲んで以来だ。
――「じゃあ、事務所やめたと?」
ギターケースを下ろして訊ねる彼に、
――「どうにも足踏み状態で。今は自分でCD作って売り歩いてます」
――「ホントに? あとで買うよ」
そんな訳で今夜限りの共同戦線を張り、久しぶりの思案橋路上を堪能した。長崎の街はまるで時を止めていたように何も変わらず、嬉しかったのはリーゼントの長場さんに再会できたことだ。
――「大将! 久しぶりやっか!」
その笑みと白いスーツは健在で、と同時に麗美の面影を連れてくる。
――「CDできたとか! くれんね!」
長場さんは財布を出すと、二枚分の四千円を超えて五千円札を握らせた。
CDの売り上げはまずまずで、僕らは投げ銭を増やしていく。
午後十一時の流れも途絶えた街角で、
――「ミヤビさん。『206号線』聴きたいです」
言うと彼は照れながら、
――「プロに聞かせる歌じゃなかとけど」
それでもギターをストロークし始めた。
――高架広場でギターをまとめ 足を延ばせば宝町
――午前三時の206号 テールランプがひとつ流れた
――ああ 明日の僕はどこへ行こう まるで見えない道の先
――浦上までにため息捨てて 松山までに笑顔を探し
――今の僕には歩くことしかない
――ふざけて歩く電車軌道 僕は始発か最終なのか
――闇に流れる浦上川を 大橋辺りで覗きこめば
――答えはいつも道の上 答えはいつも道の先
――闇に続くは206号 闇に続くは206号
唄い終わると、ふう、と息を吐き、
――「杉内君、ビール飲むね」
そう言われたのでギターケースを覗いて答えた。
――「路上もいいですけど、箱飲みできそうなくらい入ってますよ」
一年半ぶりのバー・サザンクラウンに入るとすぐに、
――「俺、居酒屋しかいかんけん。こういう店、敷居高かとやもんね」
ミヤビさんがおずおずと入ると、変わらぬ顔でマスターが「いらっしゃい」と声をかけてきた。僕は荷物を下ろすより先に、
――「杉内です。ご無沙汰してます」
一礼した。
――「ああ、ああ。ナオミ君ね。どげんしとった、福岡じゃなかったとね」
とりあえず生ビールをふたつ頼み、ミヤビさんとグラスを交わして話し始める。ミヤビさんへは路上である程度話していたので説明はマスター主体になった。途中、「へえ」とか「はあ」とか驚いたような相槌を打ち、佐賀でヤンキーにつかまったり大村でヤクザに怒鳴られたりというつまらない話を親身になって聞いてくれた。
――「じゃああの、おかっぱの女の子は福岡におる訳たい」
――「でもメジャーデビュー決まりそうなんで、すぐに東京だと思います」
那由多の話はミヤビさんにしていなかったので、「マジで!」と驚いていた。
――「とにかくそういうことに振り回されてる自分が嫌になったんです。音楽ってもっと自由なものだと思ってるんで」
僕が呟きのようにこぼすと、しばし沈黙が流れた。
しかしそれを、ミヤビさんが明るく破る。
――「よかっちゃなかとかなあ。他人任せでCD売るより、自分で手売りっていうとも」
そこへマスターが驚きのひと言を放った。
――「そういえば前に東京のミュージシャンがCD並べて唄っとったねえ。上手かったよ」
僕はすぐさま食いつき、
――「三木祐介さんて方じゃなかったですか」
――「名前までは見てないけどね。そんな名前やったと思うよ」
間違いない。三木さんがこの街へ来ていたのだ。彼と同じ旅路を辿っている自分が嬉しく、誇らしかった。
――「それはそうと、CD聴かせてくれんね。一枚いくら?」
僕はもうその言葉に卑屈にならない。自分の歌をCDに乗せた時点で胸を張るしかないのだ。
マスターがジャズのCDを入れ替え、僕の自主制作アルバム『壊れているけど世界は回る』をかけ始める。一曲目の『Oneday Morning』が流れるとミヤビさんもマスターもなぜか煙草を吹かし始めた。永遠に続くかのような緊張の一瞬だ。
――「よか音しとるたい。手作りとは思えんね」
マスターが頬を緩める。それもこれもマスタリングまでを引き受けてくれた石動さんのお蔭だ。あのフォークジャンボリーがなければ出会わなかった縁だった。
ミヤビさんもまた、
――「よかなあCD。俺も作ってみたかなあ」
天井へ上りゆく煙を見つめていた。
曲は『Baby Baby』へと変わり、Dのハーモニカが響き渡る。それは店内を少しだけ明るいムードにする。
その後、曲が『消えゆく虹』になったのは偶然か、マスターが麗美のことを訊ねてきた。
――「そうね。結婚したね。香坂の家っていうとは、やっぱり大きかったとやろねえ」
感慨深げに腕を組んだ。その結婚相手である岡崎さんの話はしなかった。もう子供が生まれた頃だろう。
CDは折り返し地点の『等圧線』へと差しかかる。
――「杉内君、長崎にはいつまでおると?」
――「ミヤビさんさえ一緒に場所を使わせて頂ければ五日ほど考えてます」
――「やった。明日もプロの指南ば受けながら唄えるっちゅう訳たい」
その言葉には苦笑いを返す。路上ではそんなもの関係ないのだ。
ミヤビさんに博多路上の話を色々と話し聞かせていると、CDはラストナンバーの『西高東低』になった。
――「じゃあミヤビさん、あと一杯ずつで行きましょうか」
――「おう。しめは川瀬のきしめんでよかね。奢るけん」
誰かの言葉のひとつひとつが、この街の記憶を呼び起こす。街を飛び出すことは簡単だったけれど、その記憶から逃げ出すことは、ついにできなかった。歌を唄うということはもしかすると、それを受け入れることなのだろう。言ってしまえば、生きるとはそういうことなのだ。
マスターが泡の立つビールを二杯カウンターへ置き、
――「これは長崎の頼もしかミュージシャンふたりに私からやけん」
僕とミヤビさんは顔を見合わせ、どちらからともなく笑う。
――「じゃあまたね。身体に気をつけるごと」
――「はい、ありがとうございました」
――「あざあした!」
サザンクラウンを出ると、またすぐに街の記憶が胸をしめつける。麗美と歩いた街、ふたりで帰ったマンション。それらが色を伴ってよみがえる。
軽く酔った様子のミヤビさんが篭町を歩いてゆく。僕はそれについて、のんびりと歩く。
――「オイはきしめんセットやけん。杉内君も? じゃあきしめんセットふたつと大瓶!」
酔っ払いの中で、しめ、と言いつつビールを頼むのはよくあることだ。
届いたビールを僕から注ぎ、ふたりで最後の乾杯をする。こういう乾杯は小川さん以来だと、残してきたTIMESメンバーに申し訳なくなる。
(ダメだ。その後悔に負けちゃダメだ)
ひと息にビールを空けると一気に酔いが回った。
きしめんも食べ終わり、ビールの残りで煙草を一服していると、やけに恰幅のいい紳士がテーブルに近づいて来た。そしておもむろに僕らの伝票を取った。目線はミヤビさんを睨む。が、
「アンタ、ずっと頑張っとるたいね。そげん人が好きさ」
言い残して勘定へ向かった。込み上げる既視感に笑いしか生まれず、僕はビールを飲み干した。
――「じゃあまた明日!」
――「ミヤビさん、帰りは?」
――「歌の通りさ。206号線ばさるくけん。ま、途中でタクシー引っかけるばってん」
――「じゃあまた明日」
ふたりで手を振り、僕はくろがね橋で立ち尽くす。いつか那由多の歌を聴いた、その場所に。
行先は決まっている。そのまま信号を渡り、築町市場を通り過ぎ、あのアパートを左に見ながら歩を進め、いつも買っていた煙草屋の前を過ぎて奥へ入る。それだけだ。そしてそれだけのことが無性に切なかった。それは僕の最後の長崎を彩った街並みだった。
僕はくろがね橋を動けない。
目の前にはタクシーが並ぶ。
実家にはいつ顔を出そう。
思いのひとつひとつが浄化されるのを待つように心の縁へと並んでいる。いつかそれさえも歌にできるだろうか。言葉をメロディーに乗せ、吐き出すことができるだろうか。それは僕にも分からない。分かることはひとつ、僕がすでに旅へ出ていることだけだ。それだけの真実に、今日は安らげばいい。
心の中に羽根を生やし、僕は一歩踏み出す。一歩ごとの後悔を歌に変えるべく足を踏み出す。来月僕は、二十二歳になる。




