待ち時間
男が声を上げて笑っている。何か面白いことでもあるらしい。常軌を逸したというのがふさわしい笑いだ。腹を抱えたり、目のやり場に困ったりしながらたまにこっちを見ては、また同じ動作に戻っていく。男は帽子をかぶっていて目深にかぶっていて、帽子のつばしか見えていないはずだ。何も面白くない。
突然、真顔に戻ったかと思うと、にやっと笑った。目もちらと見えた。見覚えがある。
「さて、お家まで帰ろう」
袖の端を下に引っ張られた。体全体で前に倒れていきそうだ。彼が先に、次いで彼に引っ張られながら改札を飛び越えた。社交ダンスでも始めたみたいだった。改札脇の階段を下っていく。ホームに出るなり、彼は言う。
「君、何てことやってるんだ」
「お前にこそ訊きたいよ。大体僕は家に帰りたくなんかないんだよ」
「彼女を待っていたいから」
黙り込むと、彼は追い打ちをかけてくる。
「何でそんな初恋みたいなことやってるんだよ。大体、あの子は初恋の人でもなんでもないだろ。今日会ったばかりじゃないか」
「その通り。今日会ったばっかりだよ。でも彼女はそうは言ってなかった」
彼は袖の手を握ったまま線路に飛び降りる。危うく転びそうになった。
「君は彼女の言うことを信じるのか。口から出まかせに言っているだけだ」
「ところで、実は君の名前が思い出せないんだが。教えてくれないか」
「君には彼女よりもっと大事なことがあるはずだ。君はもっと革命のために働かなければならないはずだ」
気づけば彼は汗をかいていた。帽子を脱ぐと汗でつぶれた髪が現れ、息も乱れていた。この革命家にとってはどうもこの程度の会話が大観衆を前にしての演説同様疲れるらしい。
「君たちはまだ僕に武装闘争をやらせようというのか。八年前も失敗した。今日だって失敗したばかりじゃないか」
「いや、成功したんだ。それに武装闘争ばかりが能じゃない。理論構築だって君にはできるじゃないか。君は優れた理論家じゃないか」
「何で、彼女か闘争かのどちらかしか選べないんだ。どっちもやったっていいはずだ」
「いいや。君は自分のことがわかってない。君はいつだって人に恋したら他のことなんか手につかなくなるじゃないか。君は自分がどっちもできる器用な人間じゃないと知るべきだ」
「君こそ、闘争に熱中し過ぎて、他の重要なことが見えなくなってるんじゃないか」
二人の声しか聞こえないトンネルに風が流れた。彼は深呼吸をしながら、手をポケットに突っこんだまま線路を見下ろしていて、顔を水滴が流れていった。先に向かって歩きながら振り向くと、彼は動けずに、その場に雨を降らせていた。
「一緒に来てほしい。君が必要なんだ」
彼の叫び声に背を向けた。
蛍光灯が延々と続くトンネルを一人で歩いた。足が重い。どこまで行っても景色が変わらないのだ。果たして前に進んでいるのか怪しくなってきて、足の動きに視線を集中させることにした。どれだけ進んだのか確かめようとすると、眼前に彼の顔が飛び込んできた。
「頼む。一緒に来てくれ」
「彼女を探すのが先だ」
「手伝うよ」
「いいよ、そんなことしなくたって。僕は逃げないから」
「そうか、君は来てくれるのか。うれしい限りだよ。」
彼が顔を上げた。もう少しで帽子の下の表情がうかがえそうだった。
「他人を熱心に勧誘するのも結構だが、そんな暇があるなら、自分で革命を進めればいいじゃないか」
「君なしでできるならとっくにやってるさ。とにかく、君が必要なんだ」
彼の手から紙が落ちた。風を受けて、回転をかけながら飛んでいく。蛍光灯に照らされて、紙は白く光った。写真紙だ。彼が写真紙を追って歩き出す。ゆっくりついていくと、急に紙がこちらに戻ってきた。手で受けて、明かりにかざしながら覗き見た。
旧知の人ばかり写っている。もっとも、八年前以来誰とも会っていない。写真に写る人々と、写真に薄く反射する顔とを見比べる。旧知の人々が年の割に老け込んでいるからだろうか、薄く反射する顔が若々しいからだろうか。両者の間に年齢の違いを感じない。
八年前との再会は唐突に終わった。彼が写真をひったくったのだ。
気付けば月明かりが差している。トンネルの終点についたらしい。
「とにかくあの交差点で待っているから」
「君は本当に革命がしたいのか」
「もちろんだ」
「僕がいなきゃできない革命を」
「そうだ」
彼は息を整え、くすくす笑いながらトンネルを出ていった。