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羅列伝  作者: 矢口 陽次
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屈折

 日の光が、周囲の建物の壁面にも反射しなくなると、彼女の歩みは急に早くなった。彼女は何かに引き寄せられていた。抗いようのない何かに。もっとも彼女自身抗うつもりもなかったのだろう。

 何かが何なのかどうにかして訊こうとしたものの、ついていくのが精いっぱいで中々彼女の横に並べなかった。どうにかして横に並んでも、何人たりとも立ち入れない、拒絶の表情を見ることしかできなかった。そのくせ、立ち止まると、彼女はただちにそれを感じ取り、十歩ほど前で振り返りもせず、立ち止まるのだ。もちろん、立ち止まりはするものの、呼び掛けには応じない。

 通りを離れ、細道に入ると、上り坂に差し掛かった。街灯は少なくなったものの、ちょうど坂の上に月がかかっていて、かえって先ほどより明るくなった。急に彼女は引き返してきて、背後に回り込んだ。背中に彼女の頭が勢いよく当たる。駅のホームで電車を待っているときに、後ろからつつかれる、といった類の驚きだった。転落するのではないか。

 彼女の盾になって坂を上った。シャツを引っ張って頭を埋めているらしく、ぴったりと頭をくっつけていた。吐息が乱れているのか、泣いているのかよくわからないが、とにかく背中で音がする。足の動きはひどく怠慢になった。

「さっき、皮膚を覆うものが何かいるか、って訊いたら、今日はもう必要ない、って言ってたよね」

 非難の意図は込めなかった。素朴な疑問として投げかけてみた。

「うそじゃなかった。あの時は」

「じゃあ今は」

「今だってうそじゃない」

「じゃあ何で、あの時は、なんて言ったの」

「特に意味はない」

 息を吸い込む音がした。

「だって怖くない。よく考えてみてよ。光が刺さりそうなんだよ」

 月の光は一層強くなった。なるほど月の光が刺さりそうというのも理解できなくはなかった。

「何で僕の後ろに隠れたの。僕にだって刺さるかもしれないのに」

「何言ってるの。刺さるわけないでしょ」

 足の動きが止まってしまった。彼女の笑い声が聞こえる。

「だからさっきも日向に座ってたんでしょ」

 目が開いたっきり、瞬きができなくなった。

「ね、私の言った通りでしょ。手も足も出ないな」

 彼女は走り出した。坂を上り切ったのだ。左手に曲がると、建物が影になり、月光も遮られた。とても彼女と同じペースでは走れなかった。

 彼女がかわいくなかったら、その場に座り込んでしまっただろう。

 彼女がかわいくなかったら、走れなくなることもなかっただろうが。

 下り坂の中ほどで彼女が横に折れ、人家に入っていくのが見えた。重い足を引きずって同じ角を曲がるころには、彼女は二階に上がっていて、窓から笑顔で見下ろしていた。挑発するような笑顔ではなかった。さも今会ったみたいに再会を喜ぶ笑顔だ。

 玄関で靴を脱いだ。靴をそろえると、彼女のサンダルと並んだ。玄関わきの階段を上ると、依然窓の外を眺める彼女の姿があった。人が近づくのには気付いていると見え、落ち着きがなかった。彼女が突然振り向くので、思わず足が止まった。彼女の視線が足元へと降りていくので、自然と腰も落ちていった。

 床に写真がばらまかれた。みんな女性が泣いている写真だった。

「これは誰」

 写真のうちの一枚を手に取って、指さしている。知り合いの女性が写っていた。

「誰って、ただの友人だよ。」

 よく見れば、床の写真はどれも知り合いの女性のものだった。

「悪趣味だね」

「ほかの人にもそう言われたよ。わかってるんだ」

「きっかけは」

「君が持ってる写真の子いるだろ。その子、映画を見に行ったら大泣きする、っていうから、実際に二人で行ってみることにしたんだよ。嘘じゃなかった。あまりに泣き止まないんで、写真を撮ったんだ。一度きりのつもりだったんだけど、意外に面白くてやめられない」

「何で私の写真がないの」

「君は昼間知り合ったばかりじゃないか。大体何でこんな写真を持ってるんだよ」

「本当に知り合ったばかり」

 彼女は語尾を上げつつも、妙に納得した様子で、口を丸く開けたまま、数回うなずいた。


 ホームまで送りたかったのに、せめて改札までは送りたかったのに、儀礼ともいうべき一連の手順を踏みたかったのに。目を離したすきに、彼女は地下道へ吸い込まれてしまった。だからこうして、改札で彼女が通るのを待っている。

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