第32話 悪役令嬢は、守れなかったものから目を逸らしませんわ
夕闇の迫る辺境の宿場町へ、
アレクシスからの緊急伝書便が舞い降りた。
リリアーナは積み上げられた報告書の山の中から
手紙を受け取り封を切った。
中にあったのはたった三行の短い文字だった。
『王都はこちらで支える。
君は、君のいる場所だけを見てくれ。
すべてを一人で背負う必要はない。』
リリアーナは静かにその文字を見つめ
やがて淡々と手紙を折り畳んだ。
手元を不安そうに覗き込んでいたマルティナが尋ねる。
「……殿下から、ですか?」
「ええ」
「何とおっしゃっておられますの?」
「相変わらず、不合理で無理なことばかりをおっしゃいますわ」
リリアーナはそっけなく答え、手紙を机の脇へ置いた。
だが――彼女はその手紙を、報告書のゴミの山に混ぜるのではなく、
いつでも指先が触れられる机の位置に静かに残した。
それ以上は何も言わず、別のカルテを引き寄せる。
「……結界を縮小したのちの、被害報告を」
行政官が、重い表情で視線を落とした。
「……被害が出ました」
リリアーナのペンが止まる。
「申してください」
「昨夜、結界の外側となった家畜小屋へ、
小型魔獣が侵入いたしました」
「人的被害は?」
「見張りは全員退避していたため、怪我人はおりません」
「家畜は?」
行政官は苦痛に顔を歪めた。
「……山羊が八頭、鶏が二十七羽。
さらに、冬越え用の飼料の一部が荒らされました」
部屋の空気が、重鉛のように沈み込む。
リリアーナは報告書を受け取り、
そこに書かれた被害者の名前、
失われた財産、残された備蓄の数値を静かになぞった。
「被害を受けた世帯には、
共同倉庫から優先して食料を補給するように依頼をしなさい。
……それから、残った家畜を町の内側へ収容できる代替スペースは?」
「中央広場の一角を囲えば、数日間なら……」
「直ちに手配を」
リリアーナが立ち上がろうとしたその時、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、疲れ果てた顔の町長だった。
「町長。被害については今――」
「分かっています」
町長は言葉を遮った。
「怪我人が出なかったことも、
結界を縮小しなければ町全体が壊滅していたことも
……すべて頭では理解しております」
町長は固く拳を握り締め、その声に悲痛な震えを滲ませた。
「……だが! あの山羊は、
ある貧しい家族がこの厳しい冬を越すために、
血の滲む思いで育てていたものだ!
鶏の卵を売って、病気の子供に薬を買っていた母親もいる!
畑も家畜も……ただの数字ではないんだ!
そこに生きる人間にとっては、生活のすべてなんだよ!」
町長は、抑えきれない憤りをぶつけるようにリリアーナを見つめた。
「あなたの判断が必要だったことは分かっている……!
だが……正しかったからといって、
失われた命や暮らしが元通りになるわけではないんだ!」
誰も口を挟むことができなかった。
その言葉の重みが、部屋中の人間を押し潰す。
リリアーナは、町長の非難の視線を真っ向から受け止めた。
逸らすことも、反論することもなく。
「……ええ」
静かな、けれど通る声で答える。
「わたくしが、結界を縮小させました」
町長が息を呑む。
「わたくしの判断によって、彼らの大切な家畜と暮らしが奪われました。
……責任は、すべてわたくしにあります」
「……では、公爵家の財で補償金を支払って終わりにすると?」
「いいえ」
リリアーナは毅然と言い放った。
「金銭だけを渡して、それで終わりにはいたしませんわ」
彼女は被害報告書を机に置いた。
「失われた食料は、我が領地の備蓄から完全に補填いたします。
家畜を失った世帯には、春までの確実な雇用と十分な手当てを約束いたします。
……彼らが無事に冬を越せるまで、わたくしが責任を持って支え切ります」
一度、言葉を切り、町長をまっすぐに見据える。
「……ですが。どれほどの補償を重ねようと、
失われた山羊や鶏が生き返るわけではありませんわ」
そう告げると――リリアーナは、深く、深く頭を下げた。
最高位の公爵令嬢が、辺境の泥にまみれた町長に向かって、
完璧なお辞儀で謝罪したのだ。
誰もが目を見張り、息を呑んだ。
「……申し訳ございませんでした」
町長は口を大きく開けたまま、固まった。
「クラウディア様……」
「それでも」
リリアーナは頭を上げた。その美しく気高い瞳には、
一切の迷いも、自己憐憫もなかった。
「……万が一、再び同じ選択を迫られたなら、
わたくしは躊躇なく、再び町全体を守るために結界を縮小いたしますわ」
町長は、返す言葉を失った。
それは、謝罪を撤回する言葉ではない。己の判断を『正義』と飾るための自己弁護でもない。
奪ってしまった痛みを正視し、その罪を一生背負う覚悟を持った上で、それでもなお次の責任を果たし続けるという、為政者としての凄絶な宣言だった。
長い沈黙の末、町長はゆっくりと深く腰を折った。
「……被害を受けた者たちには、私から説明いたします」
「感謝いたしますわ」
「ただし……私と一緒に、彼らの元へ来ていただきます」
「当然ですわ。どこへでも同行いたします」
リリアーナは一瞬の躊躇もなく即答した。
◇
結界の外側、荒れ果てた家畜小屋には、
引き裂かれた柵と散乱した飼料が冷たい風に舞っていた。
地面に残された魔獣の爪痕。散らばる羽。空っぽになった囲い。
山羊をすべて失った貧しいおんなが、崩れた柵の前に冷たく座り込んでいた。
リリアーナが近づくと、女は驚いたように立ち上がろうとする。
「そのままで結構ですわ」
リリアーナは膝を折り、泥の上に座り込む女と同じ目線まで視線を下げた。
女は力なく首を垂れる。
「……町を守るためだったと、聞きました」
「ええ」
「仕方のないことだったとも……」
「ええ。わたくしの判断です」
女は空の囲いを見つめ、ポロポロと涙を溢れさせた。
「でも……この子たちがいなくなったら、私たちはこの冬を越せません……」
「越せるようにいたしますわ」
リリアーナの声は、どこまでも澄んでいた。
「公爵領の倉庫から、あなた方の家族が春を迎えるまでの食料を保障します。
さらに、町の内側に作る新しい家畜収容所で、
あなたに管理のリーダーとなっていただきます。
これまでの経験を、そのまま活かしてください」
女が弾かれたように顔を上げた。
「私が……ですか?」
「ええ」
リリアーナは、空っぽの囲いを静かに見つめた。
「……ですが。それで、あなたが愛した山羊たちが戻ってくるわけではありませんわ。
あなたの悲しみを消し去ることもできません。
……本当に、申し訳ございませんでした」
公爵令嬢が、泥まみれの女の前で、再び静かに頭を下げた。
女は、固まったまま涙を流し続けていた。
やがて、震える袖で乱暴に顔を拭うと、詰まりそうな声で呟いた。
「……お仕事を、ください。子どもたちを……食わせなきゃなりませんから」
「しかと承りましたわ」
リリアーナは、それ以上、
薄っぺらな慰めの言葉を掛けなかった。
どんな綺麗な言葉も、空の囲いを埋めることはできない。
ならば、彼女が立ち上がるための次の床を泥の中に打ち込むことだけが、
自分にできる唯一の贖罪だと知っていたからだ。
本陣へ戻る夜道。
半歩後ろを歩いていたマルティナが、意を決して声をかけた。
「……お嬢様。少しだけで結構です、
お休みになってくださいませ。顔色が……」
リリアーナは前を見据えたまま、淡々と答える。
「まだ、何も終わっておりませんもの」
それ以上、マルティナは何も言えなかった。
夕闇が町を完全に包み込んでいく。
魔導制限の始まった宿場町では、主要な街道を除き、
魔導灯の光が一つ、また一つと静かに消えていった。
守りきれず、切り捨てたもの。
それでも遺したもの。
それらの重みを細い肩に背負うように、
リリアーナは灯りの消えゆく町の中を、
前だけを見据えて歩き続けていった。
『悪役令嬢たる者、己の下した決断の痛みから目を逸らすな。
正しかったという言葉で、失った者の涙は消えない。
それでも次の決断を下すのなら、
その痛みまで己の責任として背負え。』
「悪役令嬢となるための秘伝書」より




