第2話 悪役令嬢は、涙の落ちる場所を先に整えますわ
リリアーナ脳内秘伝書
悪役令嬢たる者、涙を責めるな。
泣く者に強さを求める前に、泣いてもよい場所を整えよ。
婚約破棄の場は、結局“何も決まらないまま”終わった。
断罪はされなかった。
婚約も解消されなかった。
だが、何も解決していない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あの場で、ひとりの少女が立ち続けるには、
あまりにも過酷だったということだ。
翌日。
クラウディア家の応接室に、エミリアはいた。
椅子の端に浅く腰かけ、背筋を固くし、
両手を膝の上で揃えている。
まるで「ここに座る資格があるのか」と
自分に問い続けているような姿勢だった。
(やはり)
リリアーナは一目で判断する。
この方は、まだ“立てる場所”を持っていない。
「どうぞ、楽になさって」
「は、はい……!」
返事はするが、体は少しも緩まない。
「昨日はお疲れでしたでしょう」
「……申し訳ありません」
「なぜ謝りますの?」
「私のせいで……リリアーナ様まで……」
その言葉で、リリアーナは確信する。
――居場所がない者は、まず自分を小さくする。
秘伝書の一節が、静かに浮かび上がる。
泣く者に強さを求めるのは、いつも外にいる者だ。
泣いている最中の者に、立てと言っても意味はない。
だから私は先に、
泣いてもよい場所を作ることにした。
場所がなければ、誰も立てない。
「エミリア様」
少しだけ声を柔らかくする。
「昨日の件は、あなたの責任ではありません」
「でも……」
「責任の置き方が誤っていただけですわ」
エミリアは理解できない、という顔をした。
当然だろう。
「守る」という言葉は知っていても、
「責任の構造」など考えたことはないはずだ。
「王宮で、どのような扱いを受けておられましたの?」
「……」
「話したくなければ結構」
「……いえ」
エミリアは、少しずつ言葉を絞り出した。
「平民のくせに、とか……」
「ええ」
「殿下に近づきすぎだとか……」
「そうでしょうね」
「……いるだけで、空気が悪くなるんです」
「……」
「だから、できるだけ目立たないようにしてたんですけど……」
そこで言葉が止まる。
「……でも、それでもだめで」
小さく息を吸う。
「私、いない方がいいのかなって」
その一言で、すべてが揃った。
リリアーナは静かに言う。
「それは違いますわ」
エミリアが顔を上げる。
「居場所がないことと、価値がないことは別です」
「……え?」
「あなたは昨日、“立たされていた”だけです」
「……」
「“立ってよい場所”が与えられていなかっただけですわ」
エミリアの目が、大きく揺れた。
理解しきれていない。
だが、否定はされていないと分かった顔だった。
(ならば)
説明では足りない。
形で示す。
「マルティナ」
「はい」
「離れの東側、二部屋」
「整えますか」
「ええ。読書室に」
「……誰のための」
「“立つ場所のない者”のための」
エミリアが、はっとする。
「え……?」
「本を読むための部屋ではありません」
リリアーナは続ける。
「“いてもよい部屋”です」
「……」
「読み書きを学びたい者も、
ただ静かに座りたい者も、
誰にも咎められずに居られる場所が必要です」
エミリアの呼吸が、少しずつ整っていく。
「あなたもいらっしゃい」
「わ、私が……?」
「最初のひとりとして」
「……」
「扉を開ける役目ですわ」
エミリアの目に涙が溜まる。
「で、でも……そんな……私なんか……」
その言葉を、リリアーナは遮った。
「その言い方はおやめなさい」
静かに、しかしはっきりと。
「“私なんか”という言葉は、場所を失った者が自分にかける呪いです」
「……」
「ここでは、それを許しません」
エミリアは、言葉を失った。
しばらくして、かすれた声で言う。
「……いても、いいんですか」
「そのために作ります」
「……」
「ですから、遠慮は不要ですわ」
その日のうちに、準備は始まった。
棚が運ばれ、机が置かれ、本が並べられる。
大きな窓から光が入り、風が通る。
“特別な部屋”ではない。
だが――
追い出されない部屋だった。
夕方。
完成したばかりの部屋の前で、エミリアは立ち止まっていた。
「……入ってもいいんですか」
「鍵はかかっておりませんわ」
「……」
「入るのに許可はいりません」
エミリアは、そっと中へ入る。
椅子に触れ、机に触れ、窓を見る。
それから、小さく言った。
「……ここなら、息ができます」
その言葉を聞いて、リリアーナは静かに頷いた。
「それでよろしいのです。」
私は、人を守ろうとは思わなかった。
守られた者は、やがて立てなくなる。
だから先に、息のできる場所を整える。
そこに立てるようになって、はじめて人は自分を守る。
それで十分だ。
その夜。
秘伝書を開く。
弱い者を抱えれば、その者は歩けなくなる。
私は抱えない。
代わりに、立てる場所を残す。
手を離しても倒れない場所を、先に整える。
「……ええ」
リリアーナは本を閉じた。
正しく実行できている。
それで十分だ。
王都では、その日また新しい噂が流れた。
あの悪役令嬢が、平民の少女を屋敷に招いたらしい。
怖い令嬢のはずだったんだが。……近づきにくいのは、変わらないけど
あの令嬢を、どう捉えればいいのか、
誰も、はっきりとは言葉にできなかった。
リリアーナ脳内秘伝書
悪役令嬢とは、人を守る者ではない。
まず人が息のできる場所を整える者でなければならない。
弱き者を抱えるな。立てる場所を与えよ。




