第1話 悪役令嬢は、もっとも弱き者の前でこそ矢面に立ちますわ
「悪役令嬢」という言葉の再定義
『婚約破棄の場で泣くために、
悪役令嬢がいるのではない。
泣く者は、すでにそこにいる。
私は、その隣に立つために在る』
「悪役令嬢となるための秘伝書」より
王宮の大広間には、すでに人が集まっていた。
貴族たち。
女官たち。
王太子の側近。
そして中央に立つ王太子アレクシス。
その隣には、少女がいた。
栗色の髪。質素な装い。
明らかに、この場に不釣り合いなほどの不安。
その姿を見た瞬間、リリアーナ・フォン・クラウディアは理解する。
なるほど、今日、もっとも弱い立場に置かれているのは、あの方ですのね。
「リリアーナ・フォン・クラウディア!」
王太子の声が響く。
「君をここに呼んだ理由は、他でもない!」
「存じておりますわ、殿下」
その瞬間、王太子はハッとしたようにリリアーナを凝視した
小さなざわめきが、波のように広がった
動じない。
そのこと自体が、悪役令嬢らしいと映っているのだろう。
「私は、エミリアをこれ以上傷つけるわけにはいかない!」
その言葉とともに、視線が少女へ集まる。
彼女は小さく肩を震わせていた。
「君は彼女に対して、嫉妬し、圧をかけ、
王宮でも居場所を失わせようとしていた!」
確かにリリアーナは、彼女に厳しく接していた。
「ここは守られる場所ではありません」
「立つなら、自分の足で立ちなさい」
「誰かの庇護だけでは、いずれ潰れます」
そう言い続けていたのだから。
優しく手を引くことも、庇うこともできだろう。
だが、それではやがて潰れる。
だから距離を取った。
甘やかさず、立たせようとした。
誤解されることはわかっていた。
それでもかまわなかった。
けれど
いま、この場で同じ構えを続けるのは違う。
少女はすでに、ひとりで立てる状況ではない。
ならば。
「殿下」
リリアーナは一歩前に出た。
「話の途中だ」
「ええ。ですから、整えますわ」
王子が眉をひそめた。
周囲も意味をはかりかねている。
だがリリアーナは迷わず歩み出て、
王子ではなく、エミリアの前に立った。
そして、彼女と目線が合うように、
ゆっくり膝を折る。
「ご安心なさいませ」
「えっ?」
少女の瞳が、大きく揺れた。
「あなたは、もう、ひとりで矢面に立たなくて結構ですわ」
「な、なにを……」
「ここから先は、悪役令嬢の役目ですもの」
アレクシスが、わずかに声を荒げる。
「リリアーナ、何をしている!」
「矢面に立っております」
「そういうことを聞いているんじゃない!」
「では、こちらからうかがいますわ」
リリアーナは立ち上がり、王子を真っ直ぐ見た。
「殿下は、この方を守りたかったのですか」
「そうだ」
「ならば、なぜこのような大勢の前に立たせたのです」
「それは……」
「守ることと、さらすことは違いますわ」
エミリアは呆然としている。
側近たちは固まり、貴族たちは視線を交わす。
リリアーナは構わず続けた。
「断罪とは、本来、責任を明らかにするための最後の手段です。
見世物にするためのものではありません」
「君は……」
「そして本日、もっとも弱い立場に置かれているのは、
わたくしではなくこの方です」
その瞬間、誰も、次に何を言えばいいのか分からなくなった。
誰もが予想していたのは、
怒り、嫉妬、懺悔の涙、あるいは高慢な反論。
けれどリリアーナは、そのどれでもなかった。
エミリアの前に立ち、罵倒も侮蔑も、
全部受け止めましょうと言わんばかりの堂々とした態度。
それを、まるで当たり前のようにやっている。
「殿下」
リリアーナは、静かに頭を下げた。
「婚約の件をお話しになりたいのであれば、
場を改めてくださいませ。
このような話を、傷つける形で始めるべきではありませんわ」
アレクシスは、言葉を失った。
広間の面々も、用意していた筋書きを口にできなかった。
リリアーナは、優雅に礼をして、その場を去った
その朝――王宮へ向かう前、リリアーナはいつもの引き出しを開けた
今日の呼び出しは
理由は明かされていなかったが、内容は分かりきっていた。
婚約破棄。
あるいは断罪。
もしくはその両方。
屋敷の者たちは、朝から落ち着かなかった。
侍女のマルティナでさえ、三度も同じ問いを繰り返している。
「本当に、よろしいのですか」と。
けれどリリアーナには、ためらいはなかった。
リリアーナは鏡台の引き出しの奥から、そっと一冊の本を取り出した。濃紺の表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。それでも彼女にとっては、宝石箱よりも価値のある一冊だった。
『悪役令嬢となるための秘伝書』
この本を書いたのは、クラウディア家の先祖にあたる令嬢。
生前、聖女の再来とまで呼ばれた女性。
『私は、弱い者の前に立つことにした。
誰も、そこに立とうとしなかったからだ。
聖女と呼ばれれば、皆が任せてしまう。
だから私は、任せさせないために、悪役を選んだ。
非難も誤解も、すべて引き受ける。
その代わり、最後に場は収める』
「ええ、もちろんですわ」
本を閉じ、元の場所へ戻す。
「お嬢様」
背後から、マルティナの控えめな声。
「お時間でございます」
「ええ」
「……本日の件、穏便には済まないかと」
「でしょうね」
「それでも?」
「だからこそですわ」
リリアーナは静かに立ち上がる。
「悪役令嬢は、その時にこそ立つものですもの」
そう、矢面には、きちんと立てた。悪役令嬢として、最低限の務めは果たせたのだ。
そして王都には、その日のうちに噂が流れ始める。
ー婚約破棄されるはずだった悪役令嬢が、なぜか守る側に立ったらしい。ー
悪役令嬢は、断罪劇のための「役」ではありませんわ




