第20話「ぬるさ」
昼休みの踊り場には、誰もいなかった。
下の階から、自販機に硬貨を入れる音が小さく響いてくる。
ここまで上がってくる生徒はあまりいない。
ひとつ下に行けば飲み物は買えるし、上に行っても特に何もない。
踊り場というのは、だいたいそういう場所だ。
ユウトは欄干に手をかけて、少し止まった。
最初に気づいたのは、指先だった。鉄は昼でも少し冷たいはずだった。
でも、そういう感じじゃない。
冷たくも、温かくもない。
なのに、何かが返ってきた気がした。
うまく言えない感触
べたつくわけでも、引っかかるわけでもない。
ただ、ぬるい。
前にも、一度だけあった。
あのときは一瞬で終わった。
手を離す。
感触は消えた。
何かがあった、というほどではない。
見えるものもない。
誰かがいた、という感じでもない。
ユウトは自分の手のひらを見た。
何も変わっていない。
それでも、何かが残っている、という感じだけた。
誰か、ではない。
そこはたぶん違う。
じゃあ何かと言われると、まだ言えなかった。
◇◇◇
午後の訓練棟は混んでいた。
提出物を抱えた生徒が行き来して、廊下の奥で誰かが走る音もする。
課題提出の時期が近いせいか、いつもより人の出入りが多い。
ユウトはその廊下を歩いて、空き教室の前で少し止まった。
理由はない。
扉は閉まっている。
廊下の端で、そこだけ少し人通りが薄い。たまたまそうなっているだけだと思う。
でも、足が少し遅くなる。
扉の横の壁に、肩が触れそうな距離で立つ。
確かめるつもりはなかった。
でも、感じた。
踊り場とは少し違う。
もっと薄い。かすかに返ってきて、すぐ消えた。
術式の残りなら、もう少し分かる。
輪郭みたいなものがある。
これは、ない。
廊下を歩いている生徒たちは、誰もここで止まらない。
そりゃそうだ、と思う。
理由を言えと言われたら、ユウトだって答えられなかった。
中庭のベンチにミハイルがいた。
遅い昼飯を食べていた。
紙袋を膝に置いて、パンを片手で持っている。
ユウトが近づいたのは、そこが近かったからで、特に用があったわけじゃない。
「よう」
ミハイルが顔を上げた。
パンを半分かじったまま、軽く手を上げる。
「昼食べた?」
「食べた」
「そっか」
それだけ言って、またパンに目を落とした。
ユウトはその隣に立って、少し迷った。
踊り場のことを言おうとした。
でも、何から話せばいいのか分からなかった。
手すりに触ったら、ぬるかった。
廊下を通ったら、また似た感じがした。
それで。
そこから先が、自分でもまだ言いあらわせない。
何かが起きたわけじゃない。
ただ、感じた、それだけ。
言おうとして、やめた。
正しい説明ができないものを、そのまま話すのは少し違う気がする。
ミハイルは聞かなかった。
聞かないまま、パンを食べていた。
こういうところは助かる。
「……いや、なんでもない」
出てきたのは、その言葉だった。
「そっか」
ミハイルはそれだけ言った。
気を遣わなかったわけじゃないと思う。
ただ、こういう押し付け方をしない人間だ。
ユウトはそれが少し、助かった。
◇◇◇
シオンと会ったのは、帰り際
出口に近い廊下で、荷物を持ったシオンがいた。
目が合って、少し立ち止まった。
「帰りですか?」
「うん」
歩き出したシオンの横に、自然と並ぶ。
近い、と思った。
出口に差しかかったあたりで、足が少し遅くなった。
壁際を通ったとき、また何かがあった気がした。
気のせいかもしれない。でも、足が少し重くなったのは本当だった。
「気になる場所があるのですか?」
足が止まった。
「……気になる、とは違うかもしれない」
「そうですか」
シオンはそれ以上聞かなかった。
ユウトも続けなかった。
外に出ると、空が少し暗くなっていた。
曇りだ。雨ではない。
シオンは、ユウトの足が止まった瞬間を見ていた。
場所の話はしていない。
それでも、そっちを拾われた気がした。
見ていたのか。
それとも、ただそういう人なのか。
どちらにしても、まだうまく収まらなかった。
寮に帰って、荷物を置いた。
今日のことを、順番に並べようとした。
踊り場の手すり。
訓練棟の廊下。
出口の壁際。
人に対して引っかかるとき、ユウトには少し分かることがある。
術式のどこかが噛み合っていない。そういう感じだ。
でも今日のは、人がいなかった。
場所だった。
人を見るときの感じと、まったく同じではない。
でも、離れすぎてもいなかった。
そこまで考えて、止まる。
分からない。
そこから先は、まだ言葉にならない。
ぬるさが、もう一度手のひらに返ってきた気がした。
気がした、だけかもしれない。
でも、それが気のせいで終わる気も、あまりしなかった。
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それでは、また次話でお会いしましょう。




