スピンオフ第7話:狙われたヴァルター前編
ヴァルター閣下というお方。
おそらく帝都において、最も誤解されやすい属性を備えた人物であろう。
世間の印象は単純だ。
「閣下は殿下に“見つけられ”、音速で名誉元帥へと昇り詰めた」
──男性でありながら、その稀有な美貌をもって、男性によって地位を引き上げられた“魅惑のシンデレラ”である、と。
だが、そこには致命的な“見当違い”がある。
本来のヴァルター閣下は、軍事において無類の実力を誇る人物であり、殿下の庇護を受けずとも、お飾りではない“本物”の元帥となっていた可能性が高いのだ。
むしろ、仮に別の道筋を辿っていたとしても──いずれ殿下の目は、その姿を必ず捉えていただろう。
卵が先か、鶏が先か。
結末は同じ、ただ出会いの形が異なるだけの話だ。
ふたりはどのみち、歴史のどこかで交差していたに違いない。
しかしながらーーー近ごろ、帝都では正しく囁かれ始めていた。
「ヴァルター名誉元帥は、どうやら殿下の寵愛を受けた男娼などではないらしい」
その噂は、彼と実際に関わった者の口から、波紋のように少しずつ広がってゆく。
……とはいえ、外から真実に辿り着くのは難しい。
特に舞踏会や軍事に縁遠い“商会”の世界では。
*
数日前、私は商人筋から妙な噂を耳にしていた。
「カリム・ザヒードの“特別会合”に出るには、商会特別客の証──灰色の外套が必要だ」
外套は天然グレイシルク製。輸入禁止の超高級品で、通常は入手不可能。
つまり、招待も極めて限られるというわけだ。
噂の最後に付け加えられた一言が、特に興味を引いた。
「その会合は、違法品の市場だ」
私は殿下に報告しようと考えていたが、その機会は意外な形で訪れた。
*
執務室の午後。
ヴァルターの礼装を誂えるため、
ユリウスは皇族や高位貴族御用達の仕立て屋を執務室に呼び寄せていた。
いつもの職人だけが現れるはずが──その傍らには、見慣れぬ色黒の美丈夫が立っている。
その衣装は物珍しい他国の明るい色が散りばめられた衣だった。
ユリウスの蒼い瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。
職人が慌てて口を開く。
「本日は、繊維商会代表のカリム・ザヒード様もご一緒させていただきました。たまたま他国より滞在中でして……」
レオンは一歩進み、低く告げる。
「ここは誰でも入れる場所ではございません。初めてお連れする方があるなら、事前にお知らせを。同じ傘下ならまだしも──次はお忘れなきよう」
職人は頭を下げ、カリムは涼しい笑みを浮かべたまま会釈する。
その目は、すでに“値踏み”の光を宿していた。
殿下は短く「……あとは任せる」と告げ、奥へと下がる。
馴染みの職人は今日はカリムに任せるようで、やがて部屋には、ヴァルターとカリム、レオンだけが残った。
間近でヴァルターを見た瞬間、カリムは一瞬、息を呑んだ。
均整の取れた立ち姿、黄金の瞳、肌は曇りひとつなく、まるで光を宿すような滑らかさ。
(……殿下の寵愛を受けた男娼とやら……噂以上か)
しかし、ふーっと息を吐き、あっさりと表情を整えた。
職人の残した黒革の帳簿が、ふとカリムの視界に入る。
金箔を押した頁の余白に、細筆でこう記されていた。
「対価算定不能」「素材等級上限撤廃」
──ユリウスの御名を冠する依頼にのみ許される、無制限の指示である。
皇族や高位貴族ですら、通常は上限や制約が設けられる。
だが、この名義には一切ない。
ただ最上を尽くせ──それが恒例の命であった。
(……これほどの贅を許される注文など、何年ぶりだ)
商人としての血が騒ぎ、手のひらにかすかな震えが走る。
だが、当のヴァルターはその豪奢の意味を知る素振りもなく、生地に触れては光に透かし、ただ静かに考え込むばかり。
実際には幾十もの礼装を誂えてきた中で重複しない意匠を思案していただけだが──
カリムには、何も知らぬ沈黙としか映らない。
(なるほど……これほどの寵愛を受けながら、価値すらわからぬか)
口元に、嘲るような弧が浮かんだ。
さらに、由来や価値を誇らしげに語っても、反応は薄かった。
「南方の熟練工が一年かけて織る絹だ。軽く、強く、これ一反あれば伯爵家の馬が買える」
「……そうか」
ただ短く答え、生地を撫で、光を透かすヴァルター。
戦場での視認性や耐久性までを無意識に計算している軍人の眼だが、カリムの目には無知の証にしか見えない。
(ほらな、価値も背景も理解しない……美貌だけの男だ)
そして極めつけは、私服の提案だった。
「……そういえば、礼装とは別に──
私服も一着お作りになってはいかがです?」
見本帳の奥から引き出されたのは、薄手の絹と金糸で仕立てられた、露出の多い意匠図。
胸元は大きく開き、腰のくびれを強調し、裾は片足を大胆に見せる裁ち方。
「……もしかして、もうお持ちですか?」
探るような問いかけと同時に、針箱がカタンと音を立てて崩れた。
ヴァルターはそちらを一瞥する。
そのわずかな顎の動きが、カリムには肯定の頷きにしか見えなかった。
(ああ……やはり殿下のためだけの夜の衣があるのだ)
心の奥で確信が芽生え、嗤いが喉の奥で小さく鳴った。
採寸の手が進む中、カリムは声を潜めた。耳元で静かに囁く。
「……今度、ぜひ我が商会の会合にお越しくださいませんか」
「あなたほどの見目なら、他国の商人たちも皆、挨拶に参ります」
天然グレイシルク製の灰色外套を差し出す。輸入禁止の超高級素材、特注のフード付き。
「これはお近づきの印です。目立ってはいけないので着用してお越しください。
今回だけは秘匿に。しかしそのあと貴方様が怪しいと思えば殿下に報告してもかまいませんよ。」
その声には、誘いと挑発が巧みに入り混じっていた。
(のこのこやってこい……殿下の男娼め。
女か、金か、酒か──あるいは、この俺が……遊びを教えてやる)
(見目だけは一級品だ。それも殿下から奪えるなら──最高の獲物だ)