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スピンオフ第5話:ルーカスの復讐、黒薔薇の貴公子ってそれ、ヴァルター閣下の偽物だろ?!

舞踏会で殿下の御前に突撃し、「出入りを禁じろ」と言われたあの若造――ルーカス将軍。

普通なら、あれで距離を置き、二度と同じ失敗は繰り返さないものだ。

……だが、彼は違った。


殿下付きであるヴァルター閣下に近づけなくなった途端、その憧れは逆に膨れ上がったらしい。

“もっと知りたい”が“会えない”に変わると、人間は妙な行動を取り始める。

ルーカスの場合、それは観察だった。


軍務の合間、廊下の端や閲兵式の遠くの列から、じっと閣下の立ち姿を見つめる。

会話の一言一句、歩く速度、杯を持つ角度――目に映るすべてを記憶に刻む。

やがて彼は、真似をし始めた。

礼装の色合いを合わせ、背筋の角度を変え、歩幅まで揃えようとする。

言葉遣いも変わった。「御意」とか「……構いませんよ」など、慣れぬ低音で繰り返す様は、端から見れば小芝居のようだった。


……頻繁につけてこられていることは、ヴァルター閣下も殿下もとうに把握していた。

殿下は令嬢方から似たようなことを幾度もされており、特に気にしていない。

閣下も、害がなければ別に何とも思わない。

――少なくとも、その時までは。


ある日、舞踏会に出た近衛の耳に、妙な話が届いた。


「最近、ヴァルター閣下そっくりの男が“舞踏会あらし”をしている」

「各地の社交場で、あの独特の物腰と低音で口説きまくっているそうだ」


それは、ルーカス将軍が舞踏会を渡り歩き、ヴァルター風の装いと口調で令嬢や婦人方に声をかけている、という信じがたい噂だった。

ルーカスは、それなりに見目がよく、家柄もそこそこ。

加えて軍服姿の所作を心得ているから、遠目には上等な若手将軍に見える。

そんな彼が舞踏会を渡り歩き、ヴァルター閣下そっくりの装いと口調で令嬢方に声をかけていた。


一晩限りで甘言を囁き、翌朝には冷たく見捨てる――その繰り返し。

当然、被害を受けた令嬢の家からは悪い噂が立つ。

ヴァルターと名乗ることはない。だが、彼が使った呼び名は耳を疑うものだった。


「黒薔薇の貴公子」


……かつて、閣下が社交界に姿を現していた頃、人々は彼を“野薔薇の貴公子”と呼んだ。

無造作で野趣を帯びながらも、誰も触れられない棘を持つ美貌と孤高さを称えての呼び名だった。


それをもじり、濁らせた名で売り歩く――閣下の耳にその話が届いた時、わたしは珍しく、黄金の瞳の奥にごく微かな殺気を見た気がした。


黒薔薇の貴公子――ルーカス将軍は、自分なりに一線を引いていた。

ヴァルター閣下と殿下が出席する舞踏会には、絶対に出没しない。

そこは本物の領域であり、自分の真似事など吹き飛ぶことを、彼なりに理解していたからだ。


だが、その日だけは違った。


ある小さな伯爵家の舞踏会。

規模も華やかさも中程度、通常なら黒薔薇の獲物には十分な場だ。

彼はゆるく礼装の袖を整え、今夜も令嬢たちを虜にして帰るつもりだった。


……知らなかったのだ。

この家と殿下ユリウスとの間に古いゆかりがあり、

殿下が「挨拶だけ」と約束して、ヴァルター閣下を伴って顔を出すことになっていたことを。

しかも、大事にならぬよう、その名は当日まで伏せられていた。


会場の奥、ふと広間がざわめく。

視線が一斉に向かう先――


ヴァルターの美貌は、その靴音から始まっていた。

広間の奥から響く、硬すぎず柔らかすぎず、完璧に均された革靴の音。

一歩ごとに空気を押し分け、視線を引き寄せる。


なにもかもが圧倒的――“本物”の威厳は、光そのもののように場を支配した。

長身、金の髪、黄金の瞳。

華奢に見えて、軍人としての生きた筋力がしなやかな線に宿る。

この世の美を集めて形にしたかのような姿に、仕立ての格が一目で分かる礼装。

そこらの店で整えたものとは一味も二味も違う。


田舎から出てきた令嬢たちは、一瞬で心を奪われた。

うっとりと見惚れ、息を飲む音があちこちで重なる。


そして――ルーカスの腕を取っていた令嬢もまた、そのヴァルターの姿に視線を奪われていた。

今しがたまで笑顔で見上げていたはずの相手を忘れ、ただ“本物”を追う。


それは、ルーカスも例外ではなかった。

憧れを募らせ、真似を重ね、どこかで「近づけた」と思い込んでいたはずの自分が、

こうして目の前で突きつけられた現実――その差は、埋めようもない深淵だった。


そして――殿下。


その存在感もまた、圧倒的だった。

帝都の舞踏会では、美しく格式高いのは当たり前。

煌びやかであることが当然の世界だ。

だが、ここは違う。


中級の田舎の舞踏会。

装飾も礼儀も、帝都の上流に比べれば一段落ちる。

だからこそ、その中に立つ殿下の輝きは、あまりに場違いだった。

威厳が、品格が、周囲の空気と噛み合わず、むしろその差異が彼の存在を神域のように引き立てていた。


恐れ多く、ひれ伏したくなるような――圧倒的な威厳。

その隣に、平然と立っていられるヴァルターもまた、同じ世界の人間ではなかった。


ルーカスは、あの二人を見た瞬間に悟った。

自分がどれだけ衣装を似せ、口調を真似し、立ち振る舞いを磨こうと――決してあの並びには並べない、と。


ヴァルターは、ふと足を止めた。

殿下と伯爵夫妻の挨拶を少し離れた位置から見守りながら、視線を横へ滑らせる。

そこに、田舎の若い令嬢が一人、緊張と興奮の入り混じった顔で立っていた。


ゆるやかに歩み寄り、低く澄んだ声で問いかける。

「……お聞きしたいことがある。――“黒薔薇”と名乗る方が、この場にいると伺ったのだが」


その瞬間、令嬢の瞳が大きく揺れた。

まるで秘密を不意に暴かれた子どものように。

そして、視線が――無意識に、ルーカスのいる方角へと流れた。


ヴァルターは微笑すら浮かべない。

ただ黄金の瞳で、その視線の先を確かめる。

……一歩も動かず、令嬢の腕を取ったままのルーカスと、目が合った。


会場の空気が、音もなく張り詰めていく。

ルーカスの喉が、ごくりと鳴ったのが、数歩離れたわたしにも聞こえた。


殿下がゆるやかに口を開いた。

「……確か――お前は“野薔薇の貴公子”と呼ばれていたな」


広間の空気がわずかにざわめく。

それは、かつてヴァルターが社交界に現れた時の異名。


ヴァルターは殿下に軽く一礼し、静かに応じる。

「はい、殿下」


殿下の蒼の双眸が、今度は会場を一巡し、

「では――“黒薔薇の貴公子”とは何者だ?」と続けた。


場が再びざわめく。

つい先ほどまで笑い話として囁かれていた名が、殿下の口から放たれたことで、

それは一瞬にして“裁きの言葉”へと変わった。


ヴァルターは視線を横に滑らせる。

田舎令嬢の肩越し、その先に立ち尽くす男――ルーカス。

令嬢もまた、咄嗟に視線を逸らしきれず、答えを暗黙のうちに示してしまっていた。


ざわめきが、波のように引いていく。

視線が一斉に同じ方向へ流れ――そこだけが、不自然なほど空間を空けていく。


まるでスポットライトが当たったかのように、人の輪が割れ、

ルーカスがその真ん中にあらわになった。


握っていた令嬢の手は、いつの間にか離れている。

残された彼の姿は、会場全員の視線にさらされ、

「黒薔薇の貴公子」という名の答えが、言葉にせずとも浮かび上がっていた。


ヴァルターの黄金の瞳が、静かにその中心を射抜く。

そして殿下の蒼の双眸が、まっすぐに重ねられた。


黄金の瞳が、真ん中に晒されたルーカスを正確に捉える。

ヴァルターはゆるやかな足取りで、その方へ歩み寄った。


靴音が一歩ごとに広間の静寂を刻む。

やがて彼はルーカスのすぐ隣に立った――その瞬間、場の誰もが息を呑んだ。


ルーカスはヴァルター閣下ほどの長身でもなければ、体躯でも美貌でもない。

衣装を似せたところで、口調を似せたところで、本人のようになれるはずもない。

それなりに見目は良いはずのルーカスだったが、「ヴァルター閣下を真似している」と意識された瞬間、その姿はたちどころに凡庸に見えてしまう。


まるで照明が二人を浮かび上がらせ、そこに「公開処刑」という見出しを掲げたかのようだった。


ルーカスの頬に、じわじわと血が上り、耳まで赤くなる。

対するヴァルターは、表情ひとつ変えない。

ただ、淡く視線を落とし――それすら容赦のない比較だった。


黄金の瞳が、静かにルーカスを見据える。

ヴァルターは声を落とし、しかし広間の誰の耳にも届くような調子で言った。


「……君。“グラーツ要塞戦術論”を持っていたな」


ルーカスの肩がぴくりと動く。

それは、かつて彼が勇み足で殿下と閣下の間へ割って入った時に抱えていた戦術書の名だった。


「今、聞こう。……どこの項についてだ?」


広間に一瞬、静寂が降りた――が、次の瞬間、ルーカスの口が動く。


「第二篇、要塞内防衛線の可変構造について、です。

外周の重装部隊を三段階に分けて再配置する手法……現場での即応性と士気維持を両立させる、と記されていますが、実戦投入の際にはどの規模で――」


ヴァルターはわずかに顎を引き、静かに答え始めた。

「……三百。初動は二百で十分だ。外周を解く間に補充百を流し込む。

士気の維持は兵站の余裕よりも“指揮官の立ち位置”で決まる。

守備戦なら、将は防衛線と共に動け。兵が背後に感じるべきは、指揮官の視線だ」


その声音は低く、淡々としていたが、内容は現場の泥と血の中から得た重みを持っていた。

周囲の軍人たちが息を潜め、耳を傾ける。


ルーカスの目がわずかに見開かれる。

それは書物の中では得られない、生きた答えだった。

「……ありがとうございます」

彼の声は素直で、そこに嘘も虚勢もなかった。


ヴァルターは頷き、視線を殿下へと戻す。

その動きだけで、この場の会話が終了したことが全員に伝わった。


殿下が呆れたように告げる、


「……ふん。お前は優しすぎるな」


黄金の瞳が、ほんのわずかに細められる。

応えはない。だが、その沈黙こそが返答だった。


殿下はすぐに視線を前へ戻し、何事もなかったように歩き出す。

ヴァルターは一歩遅れてその隣に並び、広間の視線を背に受けながら静かに続いた。


場にはまだ、先ほどの会話の余韻と、本物の軍人同士のやり取りを目撃した者たちのざわめきが、静かに残っていた。


……それ以来、“黒薔薇”はぱったり姿を消した。

舞踏会荒らしの噂も立たず、令嬢方の嘆きも聞かれなくなった。


代わりに、ルーカス将軍は軍務に励み、半年後には一階級昇進を果たしたという。

――ま、あれだけの公開授業を殿下と閣下の前で受けたのだ、当然といえば当然だろう。


この一部始終を、こっそり私的記録に残したのはこの私。

殿下執務室付き、筆頭書記官レオン。


しかしまあ……帝都の舞踏会で、あのヴァルター閣下の礼服の端を掴むなんて。

命知らずなのか、肝が太いのか――いや、きっと両方だな。


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