スピンオフ3話:殿下がハニトラに?!欺瞞だらけの社交界にヴァルターを
帝都・東翼大広間。
年に一度の“仮面なき舞踏会”が開幕し、楽師の音が一拍目を刻んだ瞬間――空気が凍った。
「……いらしたわ!」
扉の向こうから、ただ一人。
金と白の礼装を纏い、従者すら連れぬその人影――ユリウス・フォン・エーレンベルク殿下。
その歩みは静かで、だが威厳に満ち、一切の隙を見せぬ気配が場を支配する。
会場隅、壁際の帳簿棚の影に腰かけていた筆頭書記官・レオンは、
湯気のようなため息をひとつ吐いてから、グラス片手に小さくうめいた。
(うおお……もう、入場演出だけでSSRですって。
こっちは帳簿提出のための準礼装ですよ……わかってます?この格差)
パールすら省かれた簡素なタイピンが、手元の報告書に微かに反射する。
それでも殿下の登場には、感嘆が勝るのだった。
場が圧される中、濃く甘い香りが漂った。
声が、甘く響く。
「殿下。おひさしゅうございます」
アトラージュ家令嬢・オレリア。
近年台頭した“新興貴族”、宗教的寄進とグレーな投資で成り上がったと噂の女。
(きた……今宵の爆弾。ドレスの布面積少なすぎない?
香りもなんかヤバい。なにその“悟りの薫香”って……成仏させる気?)
「これはまた……興味深い香ですね」
殿下が返す声は静かだが、わずかに眉が動いたように見えた。
「魂を鎮め、迷いを祓う香ですわ。……殿下には、必要ではありませんか?」
「私が迷っていると?」
「お気を悪くなさらないで下さいね?
殿下ほどの方でも、迷いを抱えているもの……。
けれど、今宵、それを解き放つお手伝いができるなら――」
そう言って、彼女はわざとらしくグラスの水滴を胸元に滴らせた。
それが豊満な谷間に吸い込まれてゆく。
(うっわあああ出た!ハニトラ演出その①!この露骨さはもう罠!!)
「では、あちらで聞かせて頂こうか」
……返された殿下のその一言に、会場がざわめいた。
(え? 殿下?今の返事、まさか……行くって言った!?)
さらに彼女の手が殿下の腕へと伸びかけた瞬間――
(殿下に触るな殿下に触るな殿下に触るな!!!)
ざわつく空気を切り裂いたのは、氷のような声。
「……あいにく、殿下には“護衛”がついておりますので」
姿を現したのは、黒に深紅を差した軍装の青年。
背筋は氷柱のごとく真っ直ぐ、刃のような所作に一切の隙がない。
夜に溶け込む漆黒の礼装に、鮮血を思わせる赤がひと筋
――その対比が、彼の白磁の肌と異様なほどの美貌を際立たせていた。
冷たく静かな瞳には、ただ一点の感情も浮かばず、それゆえに“人ならざるもの”の気配すら漂う。
その場にいた者の呼吸が凍りつく中、オレリアもまた、ほんの刹那、言葉を失った。
――美しい。
自らの美貌に並ぶ者などいないと信じて疑わなかった彼女でさえ、思わず見惚れるほどに、研ぎ澄まされた存在感だった。
名誉元帥・ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ。
その名が、ただの肩書きではないことを、誰もが悟らされる登場だった。
(殿下SSR、続いてヴァルターSSR……舞踏会ガチャ、確率バグってません!?)
空気が張り詰める中、オレリアは笑みを崩さぬまま、ヴァルターに視線を向けた。
「ご挨拶が遅れました。名誉元帥閣下――もちろん、存じておりますわ」
ヴァルターは一礼をするが、その間も惜しい、といったように女は話した。
「殿下に忠義を尽くされるお姿、見事です。
けれど――殿下ご自身が、詳しく聞きたいと仰ったのですよ?」
その瞬間――殿下がヴァルターの顎を、すっと取る。
(ふぁっ!?!?)
美しき主従の一瞬に、周囲から声なき嘆息が漏れた。
「まさか、私が興に乗ることすら、君は制限したいと?」
その問いかけに、ヴァルターは柔らかに、だが明確にその手を払った。
「殿下。ではそれは、“お互いに口出しはしない”ということで、よろしいですか?」
(うわああああああ!!今の完全に喧嘩の構図!!
“お互いに”って!!お互いって!!お互い言うなぁぁぁ!!)
オレリアはそのやり取りを冷静に観察しているようで、心中では舌を巻いていた。
だが次の瞬間、ヴァルターが口を開いた。
「オレリア嬢。……吾と少し、外の風に当たりませんか」
「ええ、ぜひ」
彼女は迷いなく、むしろ勝ち誇るように微笑んでヴァルターの手を取った。
(え……ええ……。)
ヴァルターに手を取られ、微笑みながらついていくオレリアの背に、
レオンは書類を抱え直しながら、そっと呟いた。
(……さっきまで“殿下が詳しく聞きたいって”とか言ってたのに……
たくましいなあ……社交界、つよ……)
⸻
月明かりのテラス。
数言の探りの後、オレリアはほとんど抑えきれぬ熱で語り始める。
「……帝国の中枢は固まりすぎているの。変化が恐れられてる。
民は疲弊してるのに、上は飾るだけ。……でも、あなたのような方なら――変えられる!」
「ほう……」
「わたくしの元には三千の信徒がいます。癒しと導きに飢えた者たち。
……名誉元帥閣下が共に立ってくだされば、帝国は別の形に――」
勢いのまま、彼女はヴァルターの肩にもたれた。
「あなたのような方なら……神にもなれる……」
――だが次の瞬間。
「三千人、ですか」
ヴァルターの瞳がわずかに細められる。
「その方々の名簿は、お手元に?」
「……今は持ち合わせておりませんが、執事に命じれば、すぐに」
「では――頼みましょうか」
ヴァルターの視線が、オレリアの背後に控えていた中年の執事に向けられる。
老練な所作のその男は、主の意を察し、恭しく一礼。
静かに足音を消して立ち去っていく執事を見送りながら、
オレリアは満足げに微笑んだ。
「……ご関心を持っていただけて光栄ですわ。
名誉元帥閣下のようなお方に、わたくしの真意をお伝えできること……」
「――あなたの真意がどこまで“帝国のため”かは、名簿を拝見してから判断しましょう」
「まあ……お疑いなのですね? ならば、どうぞ確かめてくださいな」
オレリアはわざと、身体の向きをヴァルターへと寄せた。
手すりに片肘をつき、彼の視界の中へと甘やかに滑り込むように。
「……私、欲しいのです。“肩を並べられる存在”が」
その声音はまるで吐息のように近く、
触れる寸前の距離まで顔を寄せる。
「“支える”でも、“従う”でもない。対等に、時には――」
「……神にもなれる?」
先ほどの言葉を繰り返すように、ヴァルターが口元だけで笑った。
「ずいぶんとおこがましい願望ですね、オレリア嬢」
「ふふ、願うのは自由でしょう?」
彼女はひるまない。むしろ、挑むように唇をゆがめ――
そのとき、扉の方で音がした。
「失礼を」
先ほどの執事が、立派な革綴じの書類束を胸に抱えて戻ってきた。
「名簿、お届けいたしました」
「……ご苦労」
ヴァルターがそれを受け取った瞬間、
その背後で、別の足音が重なった。
「――参考にさせて頂こう」
微笑を浮かべながら現れたのは、
ユリウス・フォン・エーレンベルク殿下。
(あっ……詰んだ)
(殿下それは“爆撃の予告”です!!“閲覧”じゃない、“参考”って言ったらもうアウト!!)
オレリアの表情が凍りつく。
「ずいぶんと……丁寧な台帳ですね。信徒の分布、資産移動、寄進の比率まで」
殿下はヴァルターから受け取った名簿を繰りながら、一枚一枚を静かにめくる。
まるで書簡でも読むかのように、穏やかに――だが、否応なく。
「……“癒しと導き”の名のもとに、多くの方が集っている。
大変、参考になります。ありがとう。」
その“ありがとう”は、礼ではない。宣告だ。
その言葉は、穏やかでありながら、明らかに“告知”だった。
“処理に入る”という、優雅な宣告。
オレリアの唇から、熱が抜けていった。
呼吸が浅くなり、指がかすかに震える。
さきほどまで上気していた頬は、見る間に青ざめていく。
紅の香が、妙に甘く鼻を刺した。
それから十日も経たぬうちに、
アトラージュ家の“癒しと導きの会”は、宗教法人としての認可を取り消され、
同時に複数の関連口座が凍結された。
帝都の掲示板には、名もない事務官の名でこう記された。
「公序を乱す恐れある集会形態を確認したため、
本件に関する監査を帝都内務局へ一任。
該当宗教活動は、当面の間、全面禁止とする。」
粛々と、静かに。
だが決して揺るがぬ意志のもとに。
帝国は、必要なものと不要なものを――
よく見て、選び取る。
その夜、東翼の月だけがすべてを見ていた。
⸻
そしてもうひとつ、見ていた者がいた。
舞踏会の会場隅、帳簿とグラスの陰から、じっと目を凝らしていた男。
レオン。
筆頭書記官。殿下の熱烈な私設ウォッチャー。喪女の化身。
記録ではなく、証人として彼はこの顛末を心に刻んでいた。
(はぁ~~~やっぱ殿下なんだよな……
殿下やヴァルター閣下に色仕掛け仕掛ける豪胆も、
すごいっちゃすごいけど……)
レオンは帳簿を静かに閉じ、
一礼しながら、そっとその場を辞した。
彼の背中にもまた、月の光がそっと降りていた。
れおん:
「……あの、殿下。名誉元帥閣下ッ! 二人が……喧嘩したのかと、ほんと、心臓止まるかと!
でも、終わってみれば、全部計算ずくのやり取りだったんですよね!?
ね!? だったら――僕にも事前に教えといてくださいよぉぉぉ〜〜涙」
ゆり&ヴぁる:
「「いや?」」
れおん:
「……は???」