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筆頭書記官は推しに推しができて胃が痛い  作者: tii


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2/10

スピンオフ第2話:貴方が来ると仕事が増えるのです

──皇族執務棟・午後の静寂


私はレオン。

帝都大学・政務学部を首席で卒業し、最年少の二十五で筆頭書記官に登用された。

“殿下より殿下の文章”と謳われることもあるが、それは単に、誰よりも早く、正確に、殿下の意志を文に落とせるからだ。

そんな私が、一日に七度は胃を痛める相手がいる。


──その金髪の元帥が、またやってきた。


ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ。

帝国軍の若き元帥。“野薔薇の貴公子”、あるいは“災厄の天使”。

軍装に身を包み、絹のような金髪と陶磁のような顔立ち。

その容貌は、殿下の真正面に座ることを許される、ただ一人の男である。


「殿下。欲しいものがあるのだが」


「……なんだ?

ああ、ドン・ペリニヨンがある。飲むか?」


殿下は瓶に手を伸ばすことなく、棚を指先で示した。

ヴァルターは自然に立ち、ボトルとグラスを二つ取り出す。

ひとつを殿下の前に置き、もうひとつを自分の席へ。

そして、当然のように、殿下のグラスに先に注いでから、自分の分を満たした。


殿下は小さく頷く。

その表情はなんだか満足そうだった。


(私は日報を60枚仕上げても“当然だ”としか言われたことがない)


そしてそのまま、奴は外交官席ではなく、殿下の机の正面。

国家中枢において最も危うい席に、何のためらいもなく椅子を引いた。


(またそこ……。その席、ふつうに出禁レベルなんだけど……)


「……それで?」


「訓練所に、湯殿が欲しい」


「湯殿? 水浴び場はあったはずだが?」


「古い。寒い。鼠が出る」


──それきり、彼は何も言わなかった。

殿下に余白を渡すように、

あえて視線を外し、沈黙を作る。

ただ静かに、美しすぎる手つきで、グラスを口に運んだ。


その喉が、ごくんと小さく動いた。


(……なんだろう。喉が動いただけなのに──

妙に、官能的に見えるのは……気のせいか?)


静けさの中で、それは妙に際立っていた。

押しつけがましい色気でも、媚びでもない。

ただ静かに“何かを許容させてしまう”動き。


(……あっ、今の間……あれ、“考えさせる”沈黙……!?)


私は思わず身を固くした。


──これは、高度な提案術だ。

相手に思考を委ね、“自分で判断した”と思わせるための、

沈黙の圧力。


ほんの昨日、戦略交渉術の論文で読んだばかりのやつだ。


(いや待て、閣下、まさか……

いやいやいやいや、天然でやってるわけない。あれは訓練された──

……天然でやってるんだろうな……この人は……)


殿下は一呼吸おき、グラスに目を落とすと、

感情を混ぜぬ声で頷いた。


「……ふむ。たしかに老朽化の報告は受けていた。

レオン、申請書を起案しろ」


……はい?????


「殿下ッ!? 今からですと、予算科目の再調整が必要ですし、

工務課・施設維持局・財務局への連絡、設計仕様の提示と、最低でも書面が四式必要になります!」


その時、私の方を見たヴァルターがふわりと微笑んだ。


「レオン書記官、……頼みます」


(その一言で、すべてがチャラになると思っているのか!?)


正直なところ──おそらく、ヴァルター閣下でなければ、

「命令系統を遵守しろ」「書面は通っているのか」などと門前払いされて然るべき案件である。

なのに、なぜこの人だけが、ドンペリと微笑みで軍備を動かすのか。


このあと私は、

・浴場設備を“寒冷地対応衛生施設”に言い換え

・予算執行区分を“訓練関連設備費”から“士気向上施策”に変更し

・財務局に「衛生上の理由による緊急性」を主張して回ることになる。


そう、昼食の時間など、とうに消し飛んだ。


──ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ閣下。

あなたの“欲しいもの”ひとつで、帝国の事務系統が三日は後退するのです。


筆頭書記官レオン。

私は今、ドンペリと喉ぼとけに、行政が敗北する瞬間をまたしても目撃している。


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