スピンオフ第2話:貴方が来ると仕事が増えるのです
──皇族執務棟・午後の静寂
私はレオン。
帝都大学・政務学部を首席で卒業し、最年少の二十五で筆頭書記官に登用された。
“殿下より殿下の文章”と謳われることもあるが、それは単に、誰よりも早く、正確に、殿下の意志を文に落とせるからだ。
そんな私が、一日に七度は胃を痛める相手がいる。
──その金髪の元帥が、またやってきた。
ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ。
帝国軍の若き元帥。“野薔薇の貴公子”、あるいは“災厄の天使”。
軍装に身を包み、絹のような金髪と陶磁のような顔立ち。
その容貌は、殿下の真正面に座ることを許される、ただ一人の男である。
「殿下。欲しいものがあるのだが」
「……なんだ?
ああ、ドン・ペリニヨンがある。飲むか?」
殿下は瓶に手を伸ばすことなく、棚を指先で示した。
ヴァルターは自然に立ち、ボトルとグラスを二つ取り出す。
ひとつを殿下の前に置き、もうひとつを自分の席へ。
そして、当然のように、殿下のグラスに先に注いでから、自分の分を満たした。
殿下は小さく頷く。
その表情はなんだか満足そうだった。
(私は日報を60枚仕上げても“当然だ”としか言われたことがない)
そしてそのまま、奴は外交官席ではなく、殿下の机の正面。
国家中枢において最も危うい席に、何のためらいもなく椅子を引いた。
(またそこ……。その席、ふつうに出禁レベルなんだけど……)
「……それで?」
「訓練所に、湯殿が欲しい」
「湯殿? 水浴び場はあったはずだが?」
「古い。寒い。鼠が出る」
──それきり、彼は何も言わなかった。
殿下に余白を渡すように、
あえて視線を外し、沈黙を作る。
ただ静かに、美しすぎる手つきで、グラスを口に運んだ。
その喉が、ごくんと小さく動いた。
(……なんだろう。喉が動いただけなのに──
妙に、官能的に見えるのは……気のせいか?)
静けさの中で、それは妙に際立っていた。
押しつけがましい色気でも、媚びでもない。
ただ静かに“何かを許容させてしまう”動き。
(……あっ、今の間……あれ、“考えさせる”沈黙……!?)
私は思わず身を固くした。
──これは、高度な提案術だ。
相手に思考を委ね、“自分で判断した”と思わせるための、
沈黙の圧力。
ほんの昨日、戦略交渉術の論文で読んだばかりのやつだ。
(いや待て、閣下、まさか……
いやいやいやいや、天然でやってるわけない。あれは訓練された──
……天然でやってるんだろうな……この人は……)
殿下は一呼吸おき、グラスに目を落とすと、
感情を混ぜぬ声で頷いた。
「……ふむ。たしかに老朽化の報告は受けていた。
レオン、申請書を起案しろ」
……はい?????
「殿下ッ!? 今からですと、予算科目の再調整が必要ですし、
工務課・施設維持局・財務局への連絡、設計仕様の提示と、最低でも書面が四式必要になります!」
その時、私の方を見たヴァルターがふわりと微笑んだ。
「レオン書記官、……頼みます」
(その一言で、すべてがチャラになると思っているのか!?)
正直なところ──おそらく、ヴァルター閣下でなければ、
「命令系統を遵守しろ」「書面は通っているのか」などと門前払いされて然るべき案件である。
なのに、なぜこの人だけが、ドンペリと微笑みで軍備を動かすのか。
このあと私は、
・浴場設備を“寒冷地対応衛生施設”に言い換え
・予算執行区分を“訓練関連設備費”から“士気向上施策”に変更し
・財務局に「衛生上の理由による緊急性」を主張して回ることになる。
そう、昼食の時間など、とうに消し飛んだ。
──ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ閣下。
あなたの“欲しいもの”ひとつで、帝国の事務系統が三日は後退するのです。
筆頭書記官レオン。
私は今、ドンペリと喉ぼとけに、行政が敗北する瞬間をまたしても目撃している。




