スピンオフ第1話:人生かけた最大の推しに推しができました。
──帝都の中心、皇族執務棟。
この階に立ち入ることを許された者は、ほんの一握り。
そしてその奥に座すのが──我が永遠の推し。
■ユリウス・フォン・エーレンベルク
若き皇族にして、次代を担う帝王。
美貌・威厳・戦略眼すべてを備えた、“歩く国家権力”。
政治・軍事・文化の全分野を修めた上で──顔がいい。声がいい。姿勢がいい。
その呼吸すら、神聖である。
この御方の周りを漂う空気を吸うために、私は今日も生きている。
帝都大学首席の筆頭書記官。三十路喪女(生物学的には男)。殿下を崇拝する文系オタク。
お側でお役に立てるだけで幸せなはずだった。
なのに、
すべてが変わったのは、あの“彗星”が現れてからだ。
■ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ
名誉元帥。軍事の天才にして、突如帝都に舞い降りた彗星のごとき青年。
その容姿は傾国。
所作は隙なく、空気の密度を変える異質な気配をまとう。
殿下により重用され、いまや皇族級の特権を有する存在。
──そして、殿下が唯一、心を許しているとされる男。
「……正直、やってられない」
レオンは机に突っ伏し、深いため息をついた。
脳裏を過ぎるのは、数日前の“事件”。
帝都政庁、午前十一時。
執務室に響くのは、紙の擦れる音と筆の走る音。
だがその空間に、明らかに異質な存在が一人──
兼任によりほぼ空席の、外交官席に勝手に座る男。
ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ。
陽光に透ける金の髪は、まるで神殿の天蓋から垂れた絹糸。
無表情の横顔は、精密彫刻のように整っている。
いつも通り、資料の確認に追われるわたしの傍らで至極自由に過ごしている。
彼に睨みをきかせていると、
なんの前触れもなく、扉が静かに開いた。
「殿下、只今届いたばかりの品をお持ちいたしました。
東方からの献上酒、“今澪”でございます」
現れたのは儀典局の高官。
手には漆塗りの徳利と、盃の入った小箱。
(出た……断れないやつ……!)
「ほんのひとくち、お味見程度に」
「……あぁ」
ユリウス殿下は筆を止めず、冷静に応じた。
だが、盃を受け取る指に、一瞬の逡巡があった。
(乗り気じゃない……それもそうだ、朝11時から東方酒なんて……)
酒は澄んだ金色。
芳香は強く、明らかに高アルコール。
ユリウスが唇へ盃を寄せる、その直前──
一瞬だけ、瞼が伏せられた。
すると、空気が変わった。
外交官席から、す……と影が立ち上がる。
(あッ!?)
金糸の髪が揺れる。
黒の軍衣が翻る。
足音は、ない。
舞台装置が勝手に動いたかのような自然さで、
ヴァルターが、ユリウスの背後へと回り込んだ。
それは、まるで“本来の定位置”に戻ってきたような自然さ。
そして──
ユリウスの肘掛けの左側に、優雅に座した。
(……ち、近……)
高官の喉が「ごくり」と鳴った音が、レオンにも届いた。
その距離感は、政務の場において明らかに“異常”。
だが、当の主君はまったく動じない。
盃を持った手が、わずかに浮いた──
そこへ、ヴァルターが無言で手を伸ばし、盃を取る。
「……」
ユリウスは目を落とし、盃が消えたことを認識し──
ほんの僅か、目を細めた。
そして、
ヴァルターは盃を傾け、一口で静かに飲み干す。
何の演出も、誇張もない。
ただ、完璧に処理した。
「……まだ、ございますが?」
高官が、おずおずと問う。
「いや、充分だ。味はわかった」
ユリウスの声は、終始静かだった。
だが、レオンだけは内心で崩れ落ちていた。
(味……!?殿下飲んでないよ!?
それ、ヴァルター閣下が飲んだやつだよ!?)
(ていうか、殿下……さっき口つけたよね……?
ほんのひとくち、形式的に……)
(それを……まるごと……って……)
(…………間接キス、では…………?)
ぐらり、と世界が歪む。
(いやいやいやいや!!!
わたしだったら即、社会的死刑なんだけど!?)
(なのにこの人、堂々と飲んで、堂々と隣にいて、
堂々と誰にも怒られないとか、何……??)
レオンは、そっと顔を伏せた。
──今日もまた、“美”と“権威”と“理解の外側”が、
静かに、優雅に交差している。
「……生きる次元が違いすぎて、つら……」
──了。