第33話:安全圏の崩壊と、赤い霧
「……お前ら」
賢人の口から漏れたのは、地を這うような、ひどく乾いた声だった。
「俺たちが、ただの『会社』だと思ってたのか?」
その言葉の真意を測りかね、郷田が自身の内に芽生えた正体不明の恐怖を誤魔化すように、ナイフを持つ手にぐっと力を込めた。
彼の中にあるのは、異能を持つ特別な存在である自分たちが、無能な一般人の下で事務作業をさせられているという歪んだルサンチマンだった。
「ハッ、強がってんじゃねえぞ! 動けばこの女の首が飛ぶんだぜ! 経営者なら、会社の体面と社員の命を一番に考え――」
「ザラ。セリーナ」
郷田の言葉の途中で、賢人がひどく面倒くさそうに、ただその二つの名前を呼んだ。
次の瞬間、郷田の視界がぐるりと反転した。
何が起きたのか、彼自身には全く理解できなかった。痛覚すらも追いついていない。ただ、自分の視線が天井から床へとぐるぐると回転しながら落下していくのを感じた。
彼自身の首が、胴体から完全に切り離されて宙を舞っていたのだ。
ちえの背後の空間が陽炎のように歪んだかと思うと、そこにはいつの間にか、身の丈ほどの漆黒の大剣を振り抜いた状態のザラが、冷え切った瞳で立っていた。郷田が自らの権能である『密度操作』で極限まで鋼鉄化させていたはずの肉体は、異世界の超常の刃の前に、豆腐以下の抵抗すら見せずに両断されていたのである。
「あ……?」
郷田の生首が分厚い絨毯に転がり、一拍遅れて、立ったままの胴体の首の断面から、噴水のように鮮血が天井に向けて吹き上がった。
悲鳴を上げる間すらなかった。残りの反逆者たちがリーダーの瞬殺劇にパニックに陥り、慌てて武器を構えようとした刹那。
彼らの足元から、青白い業火が蛇のように這い上がり、一瞬にしてその全身を包み込んだ。
「熱っ……助け――」
「ぎゃあああああああああっ!!」
セリーナの放った慈悲なき炎は、周囲のデスクや可燃性の絨毯には一切引火せず、標的となった反逆者たちの骨も、臓器も、魂すらもピンポイントで焼き尽くす。十名の神子たちは、たった数秒で文字通り『白い灰』となって執務室の空調に吸い込まれていった。
「ひ、ひぃぃ……っ! ば、化け物……!」
ただ一人残された外資系ファンドの役員、須藤は、完全に腰を抜かし、高級なオーダースーツの股間を黄色く濡らしながら無様に後ずさりした。
ビジネスの論理。巧みな交渉術。コンプライアンスの遵守。彼が武器としてきた人間の作った矮小なルールなど、彼らの前では一切の価値を持たない。自分が手を出したのは、会社の社長という人間の皮を被った『理不尽な神』そのものだったのだ。
賢人は、恐怖に顔を引きつらせて震える須藤を一瞥することすらなく、ちえと三木の元へゆっくりと歩み寄った。
「……悪かったな、遅くなって。痛かったろ」
賢人がそっと手をかざすと、スーが現れ、淡い治癒の魔力が二人を優しく包み込み、三木の額の傷も、ちえの首の切り傷も、一瞬にして跡形もなく消え去った。
「いえ。絨毯が汚れたこと以外は、特に問題ありません。……お気遣い、ありがとうございます」
ちえは冷静に立ち上がり、乱れた衣服を直した。三木も「ご、ごめんなさい、私ドジで……」と涙目で頭を下げる。二人が完全に無事であることを確認し、賢人はふぅ、と短く息を吐いた。
そして。ゆっくりと振り返り、死に物狂いでドアへ這いずろうとしている須藤の頭を、革靴で背後から無造作に踏みつけた。
「ゴベッ!?」
鼻梁が砕け、須藤の口から鮮血が吐き出される。
「クレスト・キャピタルの本社はどこだ」
賢人の声には、一切の感情が含まれていなかった。
「ま、待て! 待ってくれ! 俺を殺せば、ただじゃ済まないぞ!」
須藤は床に這いつくばったまま、必死に命乞いのカードを切った。
「我々クレスト・キャピタルはただのフロント企業だ! バックにはアメリカ合衆国政府の巨大な資本と、情報機関が絡んでいるんだぞ! お前らごとき極東の組織が手を出せば、間違いなく国家間の大問題になる! アメリカが黙っていない! 金ならいくらでも出す、だから命だけは――!」
「六本木のミッドタワー、四十五階ですね」
背後でパソコンを叩いていたちえが、須藤の戯言を完全に無視して冷徹に情報を読み上げた。
「そうか」
賢人は短く応えると、須藤の頭を踏みつけていた足に、僅かに体重を乗せた。
「ぎゃっ、やめ――」
ぐしゃり、という水気の多い破裂音と共に、須藤の頭部は完熟したトマトのように潰れ、脳漿と鮮血が周囲に飛び散った。
超大国の影。国家間の問題。そんなものは、身内を傷つけられた魔王にとって、一顧の価値もない瑣末な事象に過ぎない。
「ザラ、セリーナ。六本木のミッドタワーだ。残った肉片が、爪の先より大きくならないように、上の階から順に全部ミンチにしてこい」
「御意」
「ええ。ゴミ掃除はお任せを」
賢人の命令に、二人の狂女神は恍惚とした笑みを浮かべた。彼女たちは執務室の分厚い防弾ガラスを容赦なく蹴り破り、夜の東京の空へと直接飛び出していく。ビルの外壁や隣接する建物の屋上を蹴り渡りながら、物理的に六本木へと急行した。
その数十分後。日本を牛耳る巨大ファンドの本社機能は、そこにいた役員・社員の区別なく、数百名の人間が文字通り『赤い霧』と『灰』に変わるという、前代未聞の地獄絵図と化して完全に消滅することになる。




