笑顔
これは紛れもない実話。客観的に見れば、ただのクズな大人の、どこにでもある幼稚な不倫劇でしかない。 誰かに免罪してほしいわけでも、美化したいわけでもない。ただ、誰にも言えないからここに書き捨てておきたい。
浮気とか不倫とか、そういう手垢のついた言葉ではもう括れなくなってしまった、俺と彼女の歪な日常。その、あまりにも静かだった始まりの記録。
その店は、俺が普段からよく飲んでいる、知り合いがやってるレストラン「アンカー」だった。
店内は意図的に照明が落とされていて、少し暗い。奥のテーブル席では、どこかのグループがテキーラのショットを何杯も空けてバカ騒ぎをしていたが、俺がいるカウンター席まではその騒がしさもどこか他人事のようにしか届かない。カウンターの向こうには、マスターをはじめ、顔馴染みの常連が何人か並んでグラスを傾けている。特にやることもない夜は、だいたいそこにいる。自分で意識しているわけじゃないが、週に何度も顔を出していれば自然とそこが自分のホームグラウンドみたいになり、周りからも「いつもいる男」として扱われていた。
家には、仕事一筋で役職付き、夜は飲みにも出ず「子供が全て」という妻がいる。お互いに関心なんてとっくにないから、俺がどこで夜を過ごしていようが、何か言われることもない。
「あ、恭介。やっぱりいた」
背後から声をかけてきたのは、昔からの女友達のユカだった。
「おう」
振り返ると、ユカのすぐ後ろに、見慣れない女が一人立っていた。店内の薄暗い照明の中でも、その存在だけが妙に浮き上がって見えた。
「友達のカナ。連れてきちゃった。美人でしょ?」
「初めまして、カナと言います」
カナは、ぺこっと頭を下げて愛想よく笑った。 第一印象は「あ、綺麗な子だな」という程度。それ以上でも以下でもない。ユカの友達だし、変にガツガツいく理由もなければ、その時の俺には特にこれといった感情も湧かなかった。ただ、暗い店内でその笑顔だけがやけに引き立っていて、「愛嬌のある子だな」ということだけがなんとなく印象に残った。
「恭介の隣空いてるじゃん。カナ、そこに座りなよ」
ユカに言われて、カナが俺の隣の席に滑り込んでくる。
周りからは、俺が女好きだということは周知の事実になっている。だからユカも、俺の隣に綺麗な女を座らせることに大して深い意味は持たせていない。カウンターの向こうの知り合いたちが、ニヤニヤしながらこちらを盗み見ているのが視界の端に入ったが、俺はいつものトーンを崩さず、変に口説きモードに入るような面倒な真似はしなかった。
「ユカの連れってことは、カナちゃんも相当めんどくさい人?」
俺がいつも通りのトーンで言うと、ユカが「ちょっと、何それ!」と笑いながら突っ込んできた。
隣のカナも「ふふっ」と声を立てて笑っている。
「私、いつも人に流されてばっかりなんです。ユカにも今日、無理やり連れてこられたし」
「へえ。じゃあ、ユカのわがままに付き合える貴重な人材ってことね」
「そうなんです、いつも振り回されてます」
カナはそう言いながら、楽しそうにこちらを見ていた。誰とでもすぐ友達になるというユカの話通り、人見知りもしないし、とにかく愛嬌がある。健康志向だとかいう話も、ユカやカウンター越しのマスターを交えて適当に聞き流した。
俺は、特にカナを特別扱いするわけでもなく、いつも通りマスターと冗談を言ったり、後から入ってきた常連と軽く言葉を交わしたりしていた。仕事の泥臭い努力とか、実はやる時はやる、みたいな部分を人に見せるのは好きじゃないから、この店でも「いつも適当に飲んでるチャラい奴」というスタンスのままだ。
カナは、俺が言うくだらない話に、いちいち楽しそうにリアクションを返してくれた。ノリが良くて、こちらの話を素直に面白がってくれるから、隣にいて男として不快な感じはしない。
「恭介さんって、なんか話しやすいですね。もっと適当な人かと思ってました」
奥のテーブル席の騒ぎ声が一段と大きくなる中、カナが少しお酒の入った顔で、そんなことを言ってきた。
「いや、実際ただの適当な男だよ」
俺は残っていた酒を口に運んで、そう返した。
その夜は、それで終わり。俺から連絡先を聞くこともしなかったし、その時はそれっきりだと思っていた。
それから数日後の夜。俺がいつものように、薄暗いあの店のカウンターで飲んでいると、ドアが開いて一人の女性が入ってきた。
「あ、恭介さん。やっぱりいた」
ユカの姿はなく、カナが一人で店に入ってきた。抜群の愛嬌を含んだ笑顔が、真っ直ぐこちらを向いていた。
これが、その先も続くことになる俺とカナの、本当の始まりだった。




