名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
緋髪の図書寮 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
平安の宮中。中宮・彰子に仕える赤染衛門は、「赤い髪の者だけを優遇する謎の集団“緋髪の会”」を巡る奇妙な相談を受ける。一見すると滑稽な事件。しかし彰子は、わずかな違和感から巨大な陰謀の気配を見抜いていく。
後に思えば、あれほど雅から遠い事件もありませんでした。宮中の話でありながら、あの事件だけは終始、土の匂いがしていたのです。
中宮・彰子様の御前に仕えるようになってから、私は実にさまざまな相談を見聞きしてきました。女房同士の歌合に見せかけた派閥争い、几帳のかげから流された風聞がいつのまにか政治の刃になること。
けれど、その種の事件に慣れた私でさえ、あまりの奇妙さに筆を持つ手が止まりかけた一件があります。いま思い返しても、あれほど馬鹿げていて、しかもその実おそろしく理にかなっていた企ては、他にそう多くはありません。私は、それを「緋髪の図書寮」の事件と記しました。
その日のことは、よく覚えています。秋も深まり、空気の輪郭がやや鋭くなってきた朝でした。私は御前へ参る途中、廊のあたりで大輔の命婦に呼び止められました。
「衛門さま、姫様が、すぐにと」
「何かございましたか」
「ええ……少し変わったお客人でございます」
“少し変わった”などという言い回しは、宮中ではたいてい信用なりません。大抵は、かなり変わっています。
御前へ入ると、彰子さまはすでに人と対しておられた。その客というのが、なるほど、ひと目で忘れがたい殿方でした。
年は四十を少し越えたあたりでしょうか。ふっくらと肉のついた顔に、商人らしい愛想と、庶民らしい遠慮のなさとが半ばずつ乗っています。衣は決して貧しくはありませんが、都で一流というには少し擦れています。そして何より、髪でした。
赤いのです。ただ赤いのではありません。夕焼けを濃く煮つめたような、燃え立つような赤茶でした。
私は一瞬、紅で染めたのかと思いました。でも、そんなふうにわざとらしく染めた色ではありません。もとより髪質そのものがそういう色なのでしょう。都にもさまざまな人がいますが、ここまで目を引く髪はなかなか見ません。
私が立ち止まると、彰子さまは静かにこちらを見ました。
「衛門、よいところへ」
「お邪魔ではございませんか」
「いいえ。むしろ、いてもらう方がよい」
こう言われたら下がるわけにいきません。私は脇へ控えました。
「こちらは赤染衛門。わたくしのそばで、よく見、よく聞き、よく書く者です」
お褒めのようでいて、最後の“よく書く”が少し怖いです。つまり、後で記録せよという意味でもあります。
その殿方は私に会釈しながら、何やら気まり悪そうに膝を直しました。
「わたくし、橘の惟成と申します」
「どのようなお方です」
と、彰子様が穏やかに問われる。
「二条の北、猪熊のあたりで、小さな質物預かりと、古物の売り買いをして暮らしております。亡き父は船大工でございましたが、私は都へ上ってから、そのような商いに身を移しまして」
私はそこで、そっと男の手を見ました。なるほど、右手が左より少し大きく、節の張り方も強い。昔、木や縄を力いっぱい扱っていた人の手です。
彰子様も、その手に目を留められました。
「……右手が少し大きいですね。重いものを扱う仕事を長くなさっていましたか」
惟成は驚いたように目を見開く。
「よくお分かりで。父は船大工で、若い頃は私も手伝っておりました」
「なるほど。それで、その手なのですね」
彰子様は静かにうなずかれた。
「ですが今は、筆を使うことも少なくないご様子。袖口の擦れ方が、職人というより商いをなさる方のものです」
「ええ。都へ出てからは、質物預かりと古物の売り買いで暮らしております」
私は横で、ああ始まった、と思いました。彰子様は、こういうふうに相手の話を引き出すのがお上手なのです。最初からすべてを言い当てるのではなく、一つ確かめるたびに相手が安心し、気づけば自分から多くを語ってしまう。
「さて」
と、彰子様は扇を軽く閉じられました。
「あなたは、自分が笑いものにされたのか、それとも何かもっと悪いことに巻き込まれたのか、それを確かめに来たのでしょう」
惟成は、その一言でほとんど泣きそうな顔になりました。
「まこと、その通りにございます……」
話を聞けば聞くほど、私はこの都には暇人が多いのか、それとも悪知恵の働く者が多いのか分からなくなりました。
惟成の話は、こうです。
彼の店は小さく、近ごろは景気もさほど良くありません。昔は奉公人を二人置けたが、今は一人だけ。その一人が、実に気の利く男だといいます。
「名を、直秀と申します」
「若い者ですか」
「さあ……若いようにも見えますが、老けても見えます。髭が薄く、顔立ちはすっきりして、妙に物馴れしております。働きはよく、給金も相場より安くてかまわぬと、自分から申したのです」
私はこの時点で、少し嫌な感じがしました。相場より安くてよいと言うほど出来る人は、たいていどこかがおかしいと思うのです。
「どのような者です」
と、彰子様。
「小柄で、動きが素早うございます。額に白い古傷が一つ。耳には昔の耳飾りの穴が残っております。ええと、絵姿の真似事のようなことが好きで、鏡や水盆を使って光を映しては遊ぶようなところもありますが……」
「遊び人、ではないのですね」
「いえ、仕事は実によくします。特に朝の店番は、あれに任せておけば安心で」
そこで惟成は、一枚の古びた紙を懐から取り出した。何度も開き閉じしたのか、折り目が白くなっている。
「ことの始まりは、これにございます」
私は受け取って読見ました。
『緋髪の会、欠員一名を募る。 故・安房守藤原成雅朝臣の遺志により、生まれつき髪赤く、心身すこやかなる者に、三条油小路の辻に設けられた図書寮の仮写場にて書写の労なく、月ごとに多くの褒美を与う。年二十以上。明くる辰の刻、三条小路・油小路の辻、東の図書寮の仮写場にて、桂木阿闍梨まで』
私は二度読み返しました。どう見ても意味が分かりません。
「……何でございますか、これは」
「わたくしにも分かりませぬ」
惟成は大まじめに答えた。
「ただ、店の直秀がこれを見つけまして。『旦那ほど見事な赤い御髪なら、必ず入れます』と申すのです」
私は惟成の髪を改めて見ました。確かに、これはそうそう比類がない緋髪です。
「それで」
「初めは冗談と思いました。ところが直秀が言うには、亡くなった成雅朝臣というお方が、御自身も髪の赤み強き人で、同じ髪の色を持つ者に恩を施すべしと遺言されたとか。都じゅうを探しても、真に緋のごとき髪の者は少なく、これは天から降ったような運だ、と」
「あなたは信じたのですか」
「半分は疑い、半分は……その、暮らし向きのこともございまして」
それはそうだろう。“たいした労なく、褒美を与う”という文句ほど、人の警戒心を鈍らせるものはありません。
「その募集には」
「ええ、参りました。直秀が是非にと申して、店を半日閉めて」
その日の三条小路は、まるで奇祭のようであったという。赤茶けた髪、薄い茶、黄に近いもの、褪せた色。都じゅうの“やや赤い者”が、我こそはと図書寮の仮写場へ押しかけていたらしい。
私はその光景を想像して、少し笑いそうになりました。宮中の歌合より、よほど滑稽です。
「図書寮の仮写場には、これまた私にも劣らぬほど赤い髪の男がおりました」
「その者が桂木阿闍梨ですか」
「そう名乗りました。背の低い男で、いかにも愛想がよく、しかし妙に目つきだけが油断ならぬ。ひとりひとり見ては、これは赤みが足りぬ、あれは年が若すぎる、などと言って追い返しておりました」
惟成の番になると、その男は態度を変えた。
『これは見事なお髪だ。まこと、探し求めていた色に違いない』
そう言って、しげしげと髪を眺めた挙げ句、いきなり実物かどうか確かめるために、ぐいと引っぱったという。
「抜けるかと思いました」
「気の毒に」
と私は言ったが、彰子さまは平然としておられる。
「そのような確かめ方を?」
「はい。どうやら染めたり付け毛で偽る者が多かったとか何とか……」
私はその時点で、もう“真っ当な組織ではない”と確信していました。
「それで、あなたは採られた」
「はい。まことにあっけなく。『明日より毎日、辰の刻から申の刻まで、その図書寮を出ずに写経ならぬ書写をせよ』と」
「何を書き写すのです」
「『類聚国史』の巻頭から、ひたすら写せ、と」
私は目をしばたいた。
「それだけで」
「それだけでございます。硯、筆、紙は自前。原本は官物につき持ち出し厳禁。一歩たりとも図書寮の外へ出てはならぬ。たとえ急病でも、急用でも、離れたらその場で資格を失う、と」
まるで監禁です。
「褒美は」
「一月にかなりの額でございました。私の店の半月ぶんほどにもなりましょうか」
それは怪しい、と私は思いました。店の半月ぶんの金を、ただ古い書を写させるためだけに払う者が、いったい都のどこにいるのでしょう。
「そして、あなたは通ったのですね」
「ええ。毎日。八十日ばかりも」
八十日。
それだけあれば、何事かを成し遂げるには十分である。
惟成は肩を落とした。
「ところが今朝、いつものように参りますと、図書寮の戸が閉ざされ、張り紙が一つ」
彼は二枚目の紙を差し出した。
『緋髪の会、本日をもって散ず』
「これだけにございます」
私は思わず吹き出しそうになったが、惟成の顔があまりに真剣で、慌てて飲み込んだ。
「その後は」
と、彰子様。
「周りへ尋ね回りました。けれど誰も“緋髪の会”など知らぬと申します。桂木阿闍梨の行方も分からぬ。ようやく分かったのは、あの図書寮が仮に借りられていたものだということばかり。私は店へ戻って直秀に話しましたが、あれは『そのうち文でも来ましょう』と平気なものです。しかし私はどうにも胸騒ぎがして……」
そこで惟成は、ぐっと身を乗り出した。
「中宮さま、私は別に、失った褒美が惜しいばかりではございません。あれが何のためだったのか。なぜ私でなければならなかったのか。どうして、毎日決まった時刻に店を離れさせられたのか。そのわけが知りたいのです」
私は内心、よくぞそこまで考えた、と思いました。たいていの人なら、金が切れたところでただ腹を立てて終わります。
彰子様は、しばらく黙って惟成を見ておられた。それから、静かに言われた。
「おもしろい、ではなく――いえ、面白いのは確かですが、同時に危険です」
「危険、でございますか」
「ええ。あなたの留守が必要だった。その一点だけで十分です」
惟成の顔色が変わった。私も、背筋が少し伸びた。
「衛門」
「はい」
「書き留めましたね」
「はい」
「では、これからその店を見に参りましょう」
「御自ら」
「こういう時は、文より足です」
また始まった、と思った。こういう時の彰子さまは、誰が止めても止まらない。その日の午後、私たちは供を最小限にして二条北の惟成の店へ向かいました。
宮中の中にばかりいると忘れがちですが、都には都の表と裏とがあります。
朱雀大路に近い大店、車の行き交う道、貴人の邸。その一方で、細い辻の奥には、古道具を扱う家、小さな質屋、筆墨屋、薬売り、桶屋、紺掻きの小屋などが肩を寄せています。
人の暮らしの匂いが濃く、そしてお金の流れもまた、案外こういうところにしぶとくあります。惟成の店は、まさにそうした辻の角にありました。
表には質物を示す札。中はそう広くないが、棚には衣、釵子、帯、鏡、香炉、小刀、経巻などが雑多に並んでいました。そして、店の奥から現れたのが、件の奉公人・直秀でした。
第一印象は、妙に“よく出来すぎている男”です。背は高くない。顔は若く見えるが、目だけは老人のように冷めています。額に白い痕があり、髭は薄い。
主人の客に対して、出すぎず、引きすぎず、ちょうどよい塩梅で頭を下げる。これがかえって、私には不自然に思えました。
「旦那さま、お帰りで」
声も穏やかだ。
「こちらは……」
「中宮様の御前より見舞いにおいでくださった方々だ」
惟成がそう紹介すると、直秀は一瞬だけ目を上げました。その目が、私の中の警鐘をひどく鳴らしました。ほんの一瞬なのに、人を値踏みする刃のような光があったのです。でも次の瞬間には、もう何でもない顔です。
「それはまた、主人も心強うございましょう」
彰子さまは、その男を一瞥しただけで、さして興味もなさそうに店の内を見回された。
「よく片づいていますね」
「ありがたいお言葉にございます」
「朝のうち、主人がお留守の間は、あなたが一人で」
「はい」
「困ることはありませんでしたか」
「とくには。もともと辰から申のあいだは客も少のうございますゆえ」
答えが速い。しかし速すぎる。用意していたようでもあります。
彰子様はそれ以上、何も追いませんでした。むしろ棚の品や帳面の置き方、裏口の位置、庭の狭さ、井戸のありかなどを何気なく見て回っている。
「衛門」
「はい」
「このあたり、裏は何に続いています」
惟成が答えた。
「裏手には土御門小路をはさんで、民部省の調庸を収める蔵の一つがございます。年貢の絹や銭、調の布などがしばらく仮置きされる蔵で……」
私はそこで顔を上げた。彰子さまは何も言わない。だが扇の先が、ほんのわずかに止まった。
裏が蔵。店の主人を朝から数刻、必ず外へ出す。安くて有能な奉公人。
だんだん嫌な線が見えてきました。
店を出る時、彰子さまは道に立ち、何気ない顔で杖の先を石畳に二、三度打ちつけられた。
こん、こん。
私はその意味が分からず、横目で見た。すると、あのお方は低く囁かれる。
「音が軽い」
「……は?」
「後で分かります」
分からないまま歩かされる側の身にもなってほしいと少し思いました。そして惟成の店を出ると、彰子さまはそのまま裏手へ回るようにお命じになりました。
裏側の通りは、表とはまるで違っていました。民部省の調物蔵が並び、板塀は高く、見張りの者もいます。人目は少ないのですが、それだけに警戒は厳重です。蔵の並びを見れば、惟成の店とは、まさに背中合わせでした。
「衛門」
「はい」
「数えて」
「何をでございます」
「店から蔵まで。間にある庭、塀、溝、おおよその距離を」
私は目測で見渡しました。店の裏庭。短い土塀。細い溝。そして向こうの蔵の敷地。
「思ったより近うございます」
「そうですね」
彰子様は、それだけ言って蔵をじっと見つめておられます。私は胸の内が落ち着かなくなりました。
「……何か、お分かりになったのですか」
「一つだけ」
「何でございましょう」
「惟成殿を毎日、決まった時刻に店から遠ざける理由です」
「それは何です?」
彰子様は静かに首を振られました。
「まだ断言はできません。」
「ですが――」
「確かめることが先です。思いつきを真実と思い込むのは、推理でいちばん危ういことですから」
私は口を閉じました。彰子さまがそこまで慎重になる以上、何か重大なことを疑っておられるのでしょう。
けれど、その時の私は、店の裏にある蔵と、惟成が毎日留守にさせられたことが、どう結びつくのかまでは、まったく思い至りませんでした。彰子さまは、供の一人に短く言いつけをなさりました。
「調物蔵の責任者を調べて。今夜、会います」
命じられた者はすぐに走っていく。私は、こういう時の宮中の情報網の速さには、毎度ながら感心いたします。歌の評判は遅いのに、不穏な金の匂いにはやたら早い。
そのあと、私たちは少し離れた茶屋に腰を下ろしました。彰子様はほとんど何も召し上がらず、指先で杯の縁をなぞりながら考えておられる。
「衛門」
「はい」
「あなた、さきほどの直秀をどう見ました」
「嫌な男でございます」
「感想ではなく」
「……小柄で機敏。主人への口のききようは丁寧ですが、心から従ってはおりませぬ。目が働き者の目ではなく、見張る者の目でございました。あと」
「あと?」
「膝でございます」
彰子様が、わずかに目を細めた。
「気づきましたか」
「ええ。袴の膝のあたりが、妙に擦れておりました。泥も少し。朝の店番だけの者とは思えませぬ」
「よろしい」
褒められると少しうれしい。いや、うれしい場合ではないのです。
「では、決まりですね」
私は言った。
「穴を掘って、蔵へ入る」
「かなりの確度で」
「今夜にも」
「おそらく」
私は「うへぇ」という顔になったと思います。
「どうして今夜なのです」
「“緋髪の会”を散じたからです。つまり、主人を毎日外へ出す必要がなくなった。必要がなくなったということは――」
「準備が済んだ」
「ええ。完成したのでしょう」
そして彰子さまは、まるで明日の天気でも述べるように続けられた。
「今夜、待ち伏せします」
日が落ちる前に、私たちは調物蔵の責任を預かる少監代と会いました。名を源経任という、痩せた真面目な男で、帳簿の乱れをこの世でもっとも嫌う顔をしていました。
彰子様が事情を手短に話されると、経任は最初こそ半信半疑でしたが、“惟成の店の裏手”“奉公人の膝の泥”“数ヶ月にわたる主人の不在”まで聞くに及んで、青ざめました。
「まさか……しかし、あの蔵には今年、伊勢・近江・播磨から納められた調絹と銭が、まだかなり……」
「外へ移せますか」
「今夜のうちには、とても」
「では、移せぬものを守るしかありません」
彰子様は言われた。
さらに、検非違使庁からも信頼できるつわ者が数人、ひそかに呼ばれました。そのうち一人は以前にも顔を合わせたことのある下級の尉で、武芸より執念で仕事をするタイプです。いかにも犬のように、噛みついたら離さぬ目をしています。
「姫様のお言葉ならば」
と言って、彼は嬉しそうに太刀の紐を締め直していました。私はその顔を見て、悪人も怖いが役目に燃える検非違使も別種に怖い、と思いました。
夜が更けるまでの準備は、恐ろしく手際よく進みました。蔵の見張りは表向きいつも通り。でも地下の一番奥、米俵や絹の櫃の陰に、人を伏せる場所を作ります。
もし本当に床下から賊が現れれば、逃げ道は一つ。掘ってきた穴へ戻るしかありません。そこで前後を挟みます。私はその手はずを聞きながら、だんだん胃のあたりが重くなってきました。
「衛門」
「はい」
「顔色が悪い」
「お気づきでしたか」
「ええ」
「土の下から賊が出てくるのを待つ、という趣向に慣れておりませぬので」
「私も慣れてはいません」
「姫様でも?」
「ええ。ですが理は通っています」
それはそうなのですが、理が通ることと気味の悪さは別です。
夜というものは、何かが起こると分かって待つ時ほど長く感じます。
私たちは亥の刻すぎ、蔵の地下へ入りました。石と土で固められたひんやりした床。櫃と俵の匂い。木の乾いた香り。灯は一つだけ、すぐに覆いをかけられ、あたりはほとんど闇になりました。
配置はこうです。彰子さまと私は、床の継ぎ目がもっとも怪しい場所に近い櫃の陰。経任は少し離れたところで、青い顔のまま財貨の入った櫃を気にしています。
検非違使たちは出入口と、奥の通路の陰。さらに地上では、別の者が惟成の店側を見張っています。あまりにも静かで、心臓の音が大きすぎるほどでした。
私は暗がりの中で、そっと囁きました。
「姫様」
「何です」
「本当に、来ると思われますか」
「ええ」
「なぜそこまで」
「人は、手間をかけた仕掛けを、完成させたらすぐ使いたがるものです。使わずに放っておけば、偶然に崩れる。誰かに見つかる。共犯が裏切る。悪事は、準備が整った時がいちばん危ない」
私は黙りました。たしかに、その通りかもしれません。
「今夜は、蔵役人の出入りが少なく、明日朝まで静かです。決行には向いています」
「なるほど……」
なんだか、こちらまで賊の都合を考えているようで嫌になります。
それから、どれほど経ったのでしょう。感覚では二刻も三刻も過ぎたように思えました。だが実際は一刻ほどだったのかもしれません。
不意に、ほんの細い音がした。
からり。
私は身をこわばらせました。床のどこかから、砂の粒がこぼれるような音。彰子さまの手が、私の袖を軽く押さえる。動くな、の合図です。
次の瞬間、石板の継ぎ目のあたりに、細い筋のような光が走りました。土の下からの光です。
私は息を呑みました。本当に来たのだ。
光はじわじわと広がり、やがて石板が内側から持ち上がる。最初に現れたのは、白い指です。
次に細い腕。それから、ぬるりと頭が出ます。
若い男の顔。額に、白い傷。直秀でした。
その顔には、店で見せた穏やかさは微塵もありません。獣のように鋭い目で、闇の蔵を見回しています。
「静かだ」
下へ向かって囁く声が聞こえた。
「言ったろう、うまくいくと」
続いて、下からもう一人が上がってきた。乱れた赤茶の髪。背の低い男。きっと、桂木阿闍梨と名乗った男です。
私は、その瞬間、あまりの筋書き通りぶりに、逆に笑いそうになりました。まるで、彼ら自身が自分たちの芝居の幕切れを用意して現れたようです。
「袋を寄こせ」
「焦るな、まず絹の櫃を――」
そこまで言った時です。彰子さまが、すっと立ち上がられた。
「その必要はありません」
覆いが払われ、灯が一気に明るくなります。土まみれの二人の顔が、火に照らし出された。赤髪の小男が、ぎょっと目をむいた。直秀は一瞬で身を翻し、穴へ飛び戻ろうとする。
だが検非違使の尉が、まさにそのために生まれてきたかのような勢いで飛びかかりました。直秀の袴の裾をつかみ、半ば穴へ落ちかけながらも引きとめます。
「逃がすかっ」
もう一人の検非違使も駆けつけ、赤髪の男の肩を押さえました。男は短刀を抜こうとしたが、彰子さまがそれより早く、近くの木札を打ちつけるようにしてその手を払われる。短刀が床へ落ち、からんと音を立てた。
「無駄です」
その声は静かで、ひどく冷たかった。直秀は観念したらしく、ふっと笑った。
「なるほど。主人の方は愚鈍でも、都にはまだ利口な人がいるらしい」
「主人を愚鈍と申すのはやめなさい」
と、彰子様。
「あなたが付けこんだのは、愚かさではありません。暮らしに余裕のない者の、ほんの少しの希望です」
その一言に、直秀の笑みが少しだけ消えました。
赤髪の男はなお暴れようとしたが、検非違使に腕をねじ上げられた。
「いた、いたたっ、待て、待て、私は出家の身――」
「阿闍梨を名乗るな」
尉が吐き捨てる。
「地の下から役所の蔵へ入る僧があるか」
まことにその通りです。
賊が捕らえられたあと、穴の中も確かめる必要がありました。
私は正直、見たくなかったのですが、見なければ記せません。結局、灯を持って彰子さまたちの後に続きました。
穴は、惟成の店の床下から、土を掘り抜いてまっすぐ蔵の下へ通じていました。途中には木で簡単な支えが入れられ、掘り出した土を隠した跡も見えます。
数ヶ月にわたって少しずつ掘ったのでしょう。朝の辰から申まで、主人がいない間に。
「まことに地道な悪事ですこと」
私は思わず言いました。
「悪事ほど、案外地道なものです」
と、彰子様。
「これで、すべてつながりましたね」
私は言った。
「ええ」
「緋髪の会は、主人を毎日外へ出すため」
「ええ」
「高い褒美は、蔵の中身に比べれば安いもの」
「その通り」
「図書寮から一歩も出るな、と言ったのは」
「途中でふらりと戻られては困るからです。外へ出ず、そこにいると確かめられる必要があった」
「『類聚国史』を書かせたのは」
「何でもよかったのでしょう。ただ、長くて、終わりがなく、退屈で、人を机につなぎとめるものなら」
私はひどく感心しました。悪知恵というものは、本当に無駄がありません。
その時、捕らえられた直秀――いや、もはやその名で呼ぶ必要もない男が、薄く笑って言った。
「お見事」
検非違使に腕を押さえられたまま、それでも妙に落ち着いている。
「どこで見抜いた」
「最初は、給金です」
と、彰子様。
「腕のよい奉公人が、相場より安く入るのは不自然。次に、主人の不在を毎日確実に作る“緋髪の会”。そして店の裏に蔵。最後は、あなたの袴の膝でした」
男の目が、すっと細くなる。
「……膝か」
「ええ。穴掘りの泥は、うまく隠せません」
私はそこで、昼間の“杖で地を打つ”しぐさを思い出した。
「では、あれは」
「地の下が空いているか確かめたのです」
なんと簡単に言うのだろう。簡単に言うが、私はその場で何一つ分からなかった。赤髪の小男が、悔しそうに唸った。
「たかが髪の色で、まさか、中宮の御前の女房どもが乗り出してくるとはな」
彰子様は、その言い方が気に入らなかったらしい。
「“女房ども”ではありません」
声が少し低くなった。
「人の見くびり方を誤ったのです。主人を見くびり、都を見くびり、女を見くびった。その報いです」
小男は黙った。直秀だけが、口もとにわずかな皮肉を残している。
「なるほど」
と彼は言う。
「負ける時は、そういうものだ」
夜明け前、惟成が検非違使に伴われて蔵へ来ました。自分の店の床下に穴が掘られ、奉公人が役所蔵破りの賊だったと知れば、誰でも腰を抜かすでしょう。
惟成もまさにその通りで、口を開けたまま、しばらく何も言えませんでした。
「では……あれは、私を外へ出すためだけに?」
「ええ」
と、彰子様。
「あなたの髪は、利用されたのです」
「髪を……」
「あなたでなくともよかった。ただし、赤い髪で、押し出しがきき、素直で、そして朝の数刻を空けさせやすい主人である必要はあったでしょう」
惟成は、傷ついたような顔をした。それも当然だ。“あなたでなくてもよかった”というのは、時に刃より痛い。でも彰子さまは、そこで終わらせなかった。
「けれど」
惟成が顔を上げる。
「あなたが不審に思い、笑われてもよいからとここへ来たことで、蔵は守られました」
「え……」
「そのまま放っていれば、彼らは今ごろ逃げていたでしょう。ですから、自分を笑う必要はありません」
惟成の目に、じわりと涙が浮いた。
「中宮様……」
「人は時に、妙な話ほど他人に言えなくなるものです。『こんなことを言えば、自分が馬鹿だと思われるのでは』と」
その言葉に、私は深くうなずいた。実際、緋髪の会などという与太話、普通なら途中で、いえ自分でも黙ってしまいます。
「ですが、馬鹿げた話の形をしていても、その奥に理屈が潜んでいることがあります。今回は、それでした」
惟成は深々と額づいた。その鮮やかな赤い髪が、土の色の床にかかるのを見て、私は妙な気持ちになった。髪の色一つで選ばれ、騙され、そして助かった男です。
御前へ戻ると、当然ながら、女房たちは“何かがあった”気配だけでざわめいた。常盤などは、口をきゅっと結びながらも、目だけはきらきらしている。ああいう顔の時は、だいたい噂を飲み込むのに全力を使っています。
「衛門様」
と若菜が小声で言った。
「お怪我は」
「ありませぬ」
「賊は」
「おりました」
「土の中に」
「おりました」
若菜は、ひゃっ、と小さく息を呑んだ。
夜が明けきったころ、私は改めて事件の筋を、彰子さまから聞きなおした。私自身の頭を整理するためでもあり、後々の記録のためでもあります。
「最初から、どのあたりでお分かりでしたか」
「最初から全部ではありません」
「では、どこから」
「“緋髪の会”の目的が、主人を外へ出すことだろう、というところからです」
「それは、やはり高い褒美と、毎日文殿に閉じ込める条件で」
「ええ。髪の色そのものに価値があるとは思えません。価値があったのは、その髪を目印にして選び出せる“個人”です。つまり、最初から惟成という人を狙った仕掛けでした」
「偶然ではなく」
「ええ。店の奉公人が広告を見せた時点で、もう出来すぎています」
「では、直秀が先に店へ入りこんだのも」
「もちろん。主人の暮らし、店の間取り、裏手の位置、蔵までの距離。それらを見定めたうえで、使えると判断したのでしょう」
私はぞっとしました。人の家に入り込み、日々の癖まで調べたうえで、何食わぬ顔で仕える。悪人の辛抱強さは、時に学者にも勝ります。
「杖で地を打たれたのは」
「店の前から掘っているのではなく、奥からか、裏からかを見るためです。音が軽かったので、下に空洞が近いと分かりました」
「そして裏へ回り、蔵を見て確信しました」
「そうです」
「では、あの直秀が賊の頭目で」
「少なくとも中心です。ただし、“桂木阿闍梨”と名乗った赤髪の男も、相当手慣れていました。募集の芝居役ですね。おそらく、人混みをさばき、主人を選び、信じ込ませる役目に長けていたのでしょう」
「図書寮の仮写場の主は、何も知らなかったのですか」
「貸し部屋として借りただけなら、知らぬこともありえます」
私は草稿に筆を走らせながら、ふと思いました。
「それにしても、なぜ“緋髪”なのでしょう。別に青でも黒でも、何でもよかったのでは」
彰子様は少し考えられた。
「目立つからです」
「目立つ?」
「ええ。都で滅多にいない特徴ほど、人は“これは自分にだけ来た運だ”と思いやすい。また、周囲も『たしかに、あの人なら資格がある』と思い込みやすい。要するに、疑いを物語で包んだのです」
私は膝を打った。
「なるほど。『髪が赤い者だけに与えられる奇妙な恩恵』という筋書きが、かえって嘘を本当らしくしたのですね」
「ええ。真っ当な話は、案外すぐ疑われます。少しだけ奇妙な話の方が、人は“世の中にはそういうこともあるのだろう”と飲み込みやすい」
私はその言葉に、しばし黙りました。
宮中でも同じです。あまりに露骨な悪意より、半ば雅に包まれた悪意のほうが通ってしまう。和歌、縁談、夢告、霊験、気まぐれな厚意。その形を借りれば、人は構えを解きます。
「つまり」
私はまとめるように言った。
「この事件で恐ろしいのは、穴そのものではなく」
「ええ」
「人の欲と、手間を惜しまぬ辛抱と、そして“ありそうな物語”を作る才」
「その通り」
彰子様は、ほんの少しだけ満足げにうなずかれた。
後年、私はこの事件を思い返すたび、宮中の人々のことも同時に考えるようになりました。
宮中は、雅です。でも雅であるということは、ときに“あからさまでない”ということでもあります。
誰も露骨には争わず、露骨には奪わず、露骨にはだまさない。歌に包み、礼に包み、恩に包み、もっともらしい物語に包みます。
緋髪の会も、つまるところは同じでした。ただし、その包み紙が宮中風ではなく、市井の悪知恵だっただけです。
燃えるような赤い髪に与えられる不思議な慈恵。図書寮にこもって古書を書き写すだけで手に入る大金。そんな馬鹿げた話の奥にあったのは、土を掘る膝と、蔵を狙う欲でした。
彰子様は、そうした虚飾の膜を、一枚一枚はいでゆきました。怪異を怪異のままにせず、笑い話を笑い話のままにせず、“なぜこの人なのか”“なぜ今なか”“誰がその留守を望むのか”という問いへ落としていきます。
私は、そういう時の彰子様を、ひそかに石の中宮と呼んでいます。冷たいという意味ではありません。熱に流されず、磨かれた石のように揺るがぬ、という意味です。
あの夜、土の下から賊が這い出てきた時、私は正直に申せば、腰が抜けそうでした。けれど彰子さまは、一歩も引きませんでした。
それは勇ましさというより、むしろ「こうなるはずだ」と見切った者の静けさでした。
あの事件で守られたのは、役所の絹や銭だけではありません。“妙な話を妙なまま放っておかない”という、もっと小さく、もっと大事な知恵もまた守られたのです。
そして私は今日もまた、彰子様のそばで筆を執ります。
次に何が起きても、後で振り返れるように。
人が人をだます時、どんな物語をまとってくるのか、見逃さぬように。
〜出典〜
The Red-Headed League(赤毛連盟)
作:Arthur Conan Doyle 訳:大久保ゆう
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/8_31220.html
〜舞台背景〜
『赤毛連盟』は「名探偵シャーロック・ホームズ」の著者アーサー・コナン・ドイル本人がシリーズ正典4長編+56短編の中で『まだらの紐』の次に、人気の点でも自分の評価でもこの作品を高く置くと述べています(1927年の雑誌インタビュー)。理由は「plot(構成) の originality(独創性)」を挙げていました。




