第1話 消える龍馬の名
第1話の続きです。
時航歯車に触れた山岸蒼太の前に、改暦衆の執行体が現れた。
そして、令和の歴史から坂本龍馬の名が消え始める。
青い光と黒い炎が、図書室の中央で激突した。
音が消えた。
いや、正確には、すべての音が一度つぶれた。
本棚のきしみも、窓ガラスの震える音も、蒼太自身の息づかいも、まとめて押し潰されて、次の瞬間、爆発するように戻ってきた。
「う、あっ……!」
蒼太の身体は、机を巻き込みながら後ろへ吹き飛ばされた。
背中が本棚にぶつかる。
古い資料集が、何冊も頭上から落ちてきた。
床に散らばった本のページが、勝手にめくれていく。
近江屋。
薩長同盟。
海援隊。
幕末。
見慣れたはずの言葉が、黒い染みのようなものに侵されていた。
そして、その中心から、ひとつの名前だけが消えていく。
「坂本……」
蒼太は、言いかけて息をのんだ。
口に出そうとした名前が、喉の奥で引っかかった。
言葉を忘れたわけではない。
知っている。
何度も読んだ。
何度も書いた。
教科書で見て、資料集で見て、ノートの端にまで写したことがある。
なのに、その名前だけが、口の中で形にならない。
「さか……も……」
舌が震えた。
名前が、音にならない。
床に落ちた資料集を見る。
そこには、さっきまで確かに坂本龍馬の写真があった。
だが今は、違っていた。
写真の中央には、白い空白だけが残っている。
人物だけが、切り抜かれたように消えていた。
説明文も欠けている。
土佐藩。
海援隊。
近江屋。
いくつもの言葉は残っているのに、そのすべてをつないでいたはずの名前だけが、黒く焼き落ちていた。
「嘘だろ……」
蒼太は、震える手で別の本を開いた。
同じだった。
別の資料集を開く。
同じだった。
日本史年表。
幕末人物事典。
歴史漫画の解説ページ。
どの本からも、あの男の名前だけが消えていた。
ページの中に、ぽっかりと穴が空いている。
歴史の中に、誰かが手を突っ込んで、無理やり一人の男だけを引き抜いたみたいだった。
「削除継続」
黒い影の声がした。
蒼太は顔を上げた。
改暦衆の執行体は、図書室の入口から一歩も動いていない。
黒い羽織は、煙のように揺れている。
顔のない闇の面。
抜き身の刀。
その刀身には、さっきより濃い黒い炎がまとわりついていた。
「対象、坂本龍馬。令和から削除する」
「何を……言ってるんだよ」
「不要な歴史を、修正する」
蒼太の手の中で、時航歯車がぎり、と鳴った。
まだ熱い。
掌に吸いついたまま、青白い光を放っている。
光は弱くなっていない。
けれど、蒼太の腕は震えていた。
さっき受け止めた衝撃で、肩から指先までがしびれている。
光の刃も、今は半分ほどに薄れていた。
刀なんて振ったことはない。
誰かと本気で殴り合ったこともない。
歴史は好きだった。
本を読むのは好きだった。
昔の人が、何を考えて、何を選んだのかを知るのが好きだった。
でも、それだけだ。
本の中の出来事が、いきなり目の前で自分の命を狙ってくるなんて、想像したこともなかった。
「異物、排除」
執行体が、刀を構え直した。
黒い炎が、床を這う。
本棚の影が伸びる。
蒼太は、反射的に後ずさった。
だめだ。
受け止められない。
次はたぶん、無理だ。
そう思った瞬間、耳元で声がした。
――足を見るな。
蒼太は息を止めた。
また、あの声。
歯車の奥から響いてくる、低く、少し荒い男の声。
――相手の顔も見るな。
――刀だけを見るな。
「じゃあ、どこを見ればいいんだよ……」
声に出したつもりはなかった。
けれど、声はちゃんと震えていた。
――間を見るがじゃ。
意味がわからない。
それでも、蒼太の身体は少しだけ前へ傾いた。
執行体が踏み込む。
黒い炎の刀が、低く走る。
蒼太の目には、相手の動きが速すぎて追えなかった。
けれど、胸の奥に流れ込んだ戦闘勘だけが、先に答えを出していた。
半歩、右。
刃を下げる。
腰を引く。
蒼太の身体が、勝手に動いた。
黒い刀が、制服の前をかすめる。
シャツのボタンが一つ飛んだ。
冷たい空気が、胸元を切る。
斬られた。
そう思った。
けれど、血は出ていない。
紙一重で、避けていた。
「回避確認」
執行体が、首を傾ける。
「排除、継続」
「僕を、何だと思ってるんだよ……」
蒼太は、息を荒くした。
怖い。
足は震えている。
逃げたい。
今すぐ本を投げ捨てて、廊下に飛び出して、誰かに助けを呼びたかった。
でも、廊下には誰もいない。
窓の外の校庭も、止まった絵のように静まり返っている。
この図書室だけが、世界から切り離されていた。
蒼太は、床に落ちた一冊の本を見た。
表紙に書かれていたはずの名前が、半分消えている。
さかも――
その先が、黒くにじんで読めない。
胸が、妙にざわついた。
自分の記憶まで削られていく気がした。
もし、今ここで何もしなかったら。
あの写真も。
あの名前も。
あの男が生きて、走って、誰かに未来を託したことも。
全部、なかったことになる。
それは、単に本の文字が消えるというだけではない。
未来を信じようとした誰かの声が、消えるということだった。
「……嫌だ」
蒼太は、光の刃を握り直した。
指が痛い。
腕が重い。
それでも、手放さなかった。
「僕は、まだ何も知らない」
執行体が、刀を持ち上げる。
「でも、知らないまま消されるのは、嫌だ」
歯車が、強く鳴った。
ぎり、ぎり、ぎり。
今度は、ただの音ではなかった。
胸の奥で、何かが噛み合う音だった。
蒼太の目の前に、一瞬だけ、別の景色が広がった。
暗い部屋。
雨音。
畳に落ちる血。
倒れかけた男が、それでも前を見ている。
口元が、かすかに動いた。
聞き取れない。
けれど、蒼太にはわかった。
あれは、諦めた顔ではない。
終わる顔でもない。
まだ何かを先へ渡そうとしている顔だった。
その瞬間、光の刃が伸びた。
青白い炎が、蒼太の腕から肩へ、肩から胸へと走る。
熱くはない。
むしろ、冷たい。
冷たいのに、心臓の奥だけが燃えるようだった。
「出力上昇」
執行体の声が低くなる。
「即時排除へ移行」
黒い刀が、上段に構えられた。
蒼太は、逃げなかった。
逃げられなかったのではない。
逃げなかった。
床を蹴る。
光の刃を、前へ出す。
自分から踏み込んだ瞬間、足がもつれかけた。
慣れていない。
当然だ。
けれど、身体の奥に流れ込んだ戦闘勘が、崩れかけた姿勢を無理やり立て直す。
黒い刀と、青い刃がぶつかった。
今度は、受け止めるだけではなかった。
蒼太の刃が、黒い炎を少しだけ裂いた。
図書室に、青い光が広がる。
本棚で黒く染まっていた資料の一冊が、ぱらぱらとページを戻した。
消えかけていた文字が、一瞬だけ浮かび上がる。
坂本龍馬。
その四文字が、青白い光の中でかすかに戻った。
「戻った……!」
蒼太の胸に、希望が差した。
だが、その希望は長く続かなかった。
執行体の背後で、黒い亀裂が開いた。
図書室の入口の空間が割れ、そこから別の影が現れる。
一体ではない。
二体。
三体。
同じ黒い羽織。
同じ顔のない闇。
同じ抜き身の刀。
執行体が、無機質に告げる。
「単独排除、失敗」
黒い影たちが、蒼太を囲むように広がっていく。
「追加投入」
蒼太の喉が鳴った。
さっきの一体だけでも、勝てる気がしなかった。
それが、増えた。
手の中の光の刃が、かすかに揺らぐ。
歯車の光も、少しずつ弱くなっている。
まずい。
そう思った時、図書室の奥で、別の音がした。
かちり。
時計の針が、正しい位置に戻るような音だった。
青白い光が、床を走る。
蒼太の足元に、細い円が描かれていく。
歯車の模様。
それは、蒼太の掌の時航歯車とは違う。
もっと大きく、もっと精密で、誰かが外側から図書室の時間に干渉しているようだった。
黒い執行体たちが、一斉に動きを止めた。
「外部干渉」
最初の執行体が、入口の方を向く。
図書室の扉が、音もなく開いた。
そこに立っていたのは、黒い影ではなかった。
人間だった。
長い髪を後ろでまとめた、若い女性。
落ち着いた目。
片手には、小型の端末のようなもの。
もう一方の手には、青白く光る薄いカードが握られている。
彼女は、散らばった資料と、黒い執行体と、蒼太の掌の歯車を順番に見た。
そして、静かに言った。
「山岸蒼太くんね」
蒼太は、息を止めた。
なぜ、自分の名前を知っている。
そう聞く前に、彼女は一歩、図書室へ入った。
「その歯車を、絶対に手放さないで」
青い光が、彼女の足元から広がる。
止まっていた時間が、さらに深く沈む。
「私は時任美月。話はあと」
美月は、青白く光るカードを床へ投げた。
カードは床に触れた瞬間、薄い光の線になって広がった。
それは、歯車の軌跡を描くような青い円だった。
光の円が、執行体たちの足元を縛る。
執行体たちは、拘束を振り払おうと一斉に刀を構え直した。
同時に、美月の端末が、耳を突き刺すような警告音を鳴らす。
彼女の表情が、初めてわずかに曇った。
「……くっ。私の時航陣では、この空間しか押さえられない」
美月は、床からあふれ出す黒い火花を見つめたまま、鋭く言った。
「もう、図書室だけじゃない。歴史の崩壊が街へ漏れてる」
「え……?」
その瞬間、窓の外の町に、巨大な黒い亀裂が走った。
校舎の外。
街灯。
駅前のビル。
遠くの空。
令和の景色そのものが、音もなくひび割れていく。
蒼太の掌の時航歯車が、悲鳴のように鳴り響いた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次話では、時任美月の登場によって、時航歯車と改暦衆の謎が少しずつ動き始めます。




