プロローグ 燃える龍馬
『龍馬、時の海を渡る』と同じ世界観から生まれた、令和側のスピンオフです。
本作単体でも読めるように構成しています。
放課後の図書室で、山岸蒼太は坂本龍馬の写真が燃えるのを見た。
本のページは燃えていない。
紙も、インクも、棚に並ぶ資料も、そのままだ。
ただ、写真の中の龍馬だけが、青白い炎に包まれていた。
「……なんだ、これ」
蒼太は、思わず声をもらした。
図書室には誰もいない。
窓の外からは、グラウンドを走る足音と、吹奏楽部の音合わせが聞こえてくる。いつもと変わらない、令和の放課後。
その中で、目の前の歴史資料だけが、現実から外れていた。
蒼太が開いていたのは、幕末の人物をまとめた古い資料集だった。図書室の奥の棚に押し込まれていたもので、表紙は日に焼け、ページの端は少し波打っている。
その一ページに、坂本龍馬の写真があった。
教科書で何度も見た顔だ。
懐に手を入れ、少し斜めに立つ男。
幕末を駆け抜け、近江屋の夜に倒れた男。
日本の夜明けを信じた男。
その顔が、今、燃えている。
炎は静かだった。
音もない。
熱もない。
それなのに、龍馬の輪郭だけが、少しずつ黒く崩れていく。
「うそだろ……」
蒼太がページに手を伸ばした時だった。
ぎり、と。
本の奥で、何かが回る音がした。
古い時計の針が、百五十年分の時間を噛み砕くような音だった。
綴じ目のあたりに、銀色の光がにじむ。
青白い炎の中から、小さな歯車が浮かび上がった。
親指と人差し指でつまめるほどの大きさだった。けれど、ただの金属ではない。内側に水のような光が流れ、細かな歯が、命を持つように震えている。
触ってはいけない。
そう思った。
なのに、目が離せなかった。
歴史好きの悪い癖だ。わからないものを見ると、怖いより先に、知りたいと思ってしまう。
蒼太の指先が、歯車に触れた。
瞬間、窓の外の音が消えた。
グラウンドの掛け声も、楽器の音も、廊下を歩く生徒の足音も、何もかもが水の底へ沈んだように遠ざかる。
歯車が、蒼太の掌に吸いついた。
「熱っ……!」
放そうとしても、放れない。
歯車は掌の中で回っていた。
ぎり、ぎり、ぎり。
胸の奥まで、その音が響く。
じゃり。
廊下の向こうで、足音がした。
蒼太は顔を上げた。
図書室の入口に、黒い影が立っていた。
人の形をしている。
黒い羽織。
抜き身の刀。
顔はない。目も鼻も口もなく、のっぺりとした闇がそこにあるだけだった。
人間ではない。
蒼太は、そう直感した。
命令だけを人の形に押し込めたような、冷たい影。
改暦衆の執行体。
なぜそんな言葉が頭に浮かんだのか、蒼太自身にもわからなかった。
けれど、そいつがこちらを見ていることだけはわかった。
影の男が、刀をすっと上段に構える。
その姿を見た瞬間、蒼太の頭の中で、歴史の知識が警報のように鳴った。
――違う。
ただの不審者じゃない。
あの構えは、冗談で真似できるものじゃない。
肩、肘、踏み込みの角度。
映像資料で見た、幕末剣術の構えに近い。
「時航歯車、確認」
影の男が言った。
声は低く、冷たかった。
「令和の海援隊候補、確認」
一拍置いて、刀の切っ先が蒼太へ向く。
「排除を開始する」
「海援隊……?」
意味がわからない。
なぜ、自分が狙われる。
なぜ、図書室に刀を持った男がいる。
なぜ、坂本龍馬の写真が燃えた。
逃げなければ。
頭ではそう思っているのに、足が動かなかった。
影の男が、床を蹴った。
速い。
黒い羽織が、視界いっぱいに広がる。
刀が振り下ろされる。
蒼太は、死ぬ、と思った。
その瞬間、掌の歯車が焼けるように熱くなった。
――この未来を、守ってくれ。
知らない男の声だった。
けれど、蒼太はなぜか、その声を知っている気がした。
海の匂いがした。
雨に濡れた畳の匂いがした。
刀の音。
誰かの叫び。
近江屋。
見たこともないはずの夜が、まぶたの裏に焼きつく。
赤い血。
白い刃。
倒れかける男。
それでも、前を見ている目。
蒼太の掌から、青白い光が噴き出した。
光は一本の刃になった。
刀ではない。
完全な実体でもない。
誰かが生きた時間だけで形作られた、残響の刃。
蒼太の手は、勝手にそれを握っていた。
ガキィン、と図書室に金属音が響いた。
影の刀と、蒼太の光の刃がぶつかる。
衝撃で本棚のガラスが震え、机の上の資料が舞った。
「う、あ……!」
腕が折れたかと思った。
けれど、斬られてはいない。
受け止めた。
自分が、刀を受け止めた。
信じられなかった。
影の男が、わずかに首を傾ける。
「残響起動」
無機質な声が、図書室に落ちる。
「適合率、予測外」
蒼太は、光の刃を見た。
手が震えている。
怖い。
逃げたい。
なのに、身体の奥だけが妙に冷静だった。
次に来る斬撃の角度が、なぜか読める。
踏み込むなら右。
退くなら半歩。
受けるなら、刃を立てる。
蒼太の知識ではない。
誰かの戦闘勘が、歯車を通して身体の中へ流れ込んでいた。
影の男が、再び刀を構えた。
今度は下段。
蒼太の背筋が冷えた。
――来る。
そう思った瞬間、影の男の姿が消えた。
いや、消えたのではない。
低く、速く、床を滑るように迫っていた。
蒼太の腕が勝手に動く。
光の刃が、黒い刀を斜めに弾いた。
火花のような青い光が散る。
影の男が一歩退いた。
「坂本龍馬の残響、検出」
影の男は、蒼太ではなく、光の刃を見ていた。
「未成熟ながら、反応あり」
坂本龍馬。
その名前だけが、図書室の空気を変えた。
蒼太は息をのんだ。
「龍馬……?」
掌の歯車が、強く回る。
耳元で、男の声が低く響いた。
――逃げるなとは言わん。
――けんど、見てしまったなら、選ばにゃならん。
「選ぶって……何を……」
影の男が、刀を引いた。
図書室の窓ガラスに、外の町が映っている。
コンビニの看板。
信号機。
駅前のビル。
自転車で帰る生徒たち。
何も特別ではない町。
退屈で、便利で、少し冷たくて、それでも蒼太が生きている令和の景色。
その景色の上に、黒い亀裂が走っていた。
まるで、世界そのものが割れようとしているみたいに。
影の男が言った。
「改暦判定」
声は、感情のない記録音声のようだった。
「令和は、失敗した未来」
蒼太の指が、光の刃を握りしめる。
「照合。坂本龍馬が望んだ夜明けは、現行令和に存在しない」
影の男の刀が、ゆっくりと蒼太へ向けられる。
「修正方針。幕末起点への巻き戻し」
その声に、怒りはなかった。
憎しみもなかった。
ただ、冷たい判定だけがあった。
この影は、考えているのではない。
誰かが下した結論を、実行している。
そう思った瞬間、蒼太はかえって恐ろしくなった。
蒼太は、すぐには言い返せなかった。
令和が正しい未来なのか。
龍馬が見たら、誇れる国なのか。
そんなことを、自信を持って答えられるほど、蒼太は大人ではなかった。
昼休み、クラスで一人だけ弁当を食べている生徒がいた。
誰もいじめているわけではない。
けれど、誰も声をかけない。
蒼太も、声をかけなかった。
スマホを見て、気づかなかったふりをした。
そんな小さな場面を、なぜか今、思い出した。
この未来が、本当に夜明けなのか。
わからなかった。
それでも。
蒼太は、燃えかけた龍馬の写真を見た。
消えそうな目が、こちらを見ていた。
「……わからない」
声は震えていた。
「この時代が正しいのかなんて、僕にはわからない」
影の男が、刀を構える。
蒼太は一歩、前に出た。
「でも、勝手に消していい未来だとは思わない」
歯車が鳴った。
図書室の天井に、青い光の波紋が広がる。
耳元で、男の声が低く笑った気がした。
――上等じゃ。
蒼太の足の震えが、少しだけ止まった。
影の男の刀が、黒い炎をまとって膨れ上がる。
空気が重くなる。
図書室の棚から、歴史資料が次々と開いていく。
近江屋。
海援隊。
薩長同盟。
幕末の記録が、青白い炎の中でめくれていく。
そのすべてが、影の男の刀へ吸い込まれていった。
影の男が、刀の切っ先を本棚へ向けた。
黒い炎が刃の根元から脈打ち、紙の匂いを吸い込むように膨れ上がる。
本棚に並んだ資料の背表紙が、見えない風に押されたように震えた。
図書室の空気が、一段深く沈む。
「改暦執行」
影の男が、静かに告げた。
「対象、坂本龍馬」
黒い炎が、刃から本棚へ走る。
「令和から削除する」
次の瞬間、蒼太の背後の本棚から、何十冊もの資料が黒く染まった。
タイトルが消える。
写真が消える。
龍馬の名前が、文字ごとページから剥がれ落ちていく。
「やめろ!」
蒼太は叫んだ。
光の刃を握り直す。
勝てるわけがない。
刀なんて振ったこともない。
それでも、ここで退いたら、何か大事なものが本当に消えてしまう気がした。
影の男が踏み込む。
蒼太も、前へ出た。
歴史の歯車が、令和の放課後で噛み合う。
青い光と黒い炎が、図書室の中央で激突した。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
本作は『龍馬、時の海を渡る』と同じ世界観の物語です。
次話では、蒼太が拾った歯車の正体に近づいていきます。




