第82話 届くべきもの
崩壊まで、残り。
その先に置く数字が、もうなかった。
王都を発った朝も、雪だった。降り続く雪の街道を、荷馬車と四人が北へ進んだ。レンと、ユリウスと、ヤールと、ニス。来た時より軽い荷で、来た時より重い紙を持って帰る。常なら六日の道が、雪で七日かかった。急ぐ理由が、もうなかった。急がなくても届く道を作りに行って、作って、帰るところだった。
道中の宿で、ヤールが火の前で言った。
「関所へ、戻ります。業務日誌の、開いたままにしてきた頁に……今日から、続きを書けます」
開いたままにしておきます、と言った夜から、長い道のりだった。父の写しは会議に出た。偽の書状は証言で破れた。書きかけの頁を開いたままにするのは、続きを書く者の作法だ。続きを書ける日が、書記の子に、ようやく来た。
ユリウスは、湯気の向こうで帳面を繰っていた。もう証拠の帳ではない。支店の、ただの仕入れ帳だった。
「私は、店の帳場に戻ります。棚卸しの方、と初めてお呼びした日のことは……いえ。あれは、忘れないことにします。私の帳簿で、いちばん良い貸方ですので」
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南宿場に寄った。
早馬は、二日先に着いていた。ヤンは、報せを受けた後だった。
帳場の奥で、宿場主は小刀を握っていた。手元で、木片が削られていく。何を彫っているのかは、訊かなくても分かった。返しの便りに、字は要らない。彫った木片をひとつ載せれば、北の神殿の息子には、他の何よりも早く届く言葉になる。
「……補給官殿」
ヤンは、顔を上げて、一言だけ言った。片耳に手を添える癖が、今日は出なかった。レンも、短く返した。
「木彫りは、儀礼の便に載せてもらえるよう、頼んであります。北へは、いちばん確かな筋です」
厩の脇で、ヘイルとニスが目礼を交わした。久しぶりに向き合う同期は、言葉を使わなかった。ニスの懐には、ベックの綴りの写しがある。渡すのは、酒の席だと決めているらしい。それでいい。届け方は、届ける者が決める。
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リンドホルムの門は、雪の中で開いていた。
共同倉庫の前は、荷車と人で賑わっていた。冬越しの配分の、真っ最中だった。燃料の束が数えられ、古着の箱が仕分けられ、規格札が飛び交う。レンの知っている手順で、レンの知らない速さで、倉庫は回っていた。指図の声は、ガルドと、フェンと、それから倉庫学校の子供たちのものだった。規格札を読み上げる声。数を復唱する声。読めない子のために色と線で組んだ札が、雪の中で確かに働いていた。トビが読めなかった字を、ノルが見分けられなかった色を、この街の札はもう、誰にも要求しない。
ガルドが、荷台の陰からレンを見つけた。
「戻ったか。……報告は、明日でいい。今日は配分だ」
そう言って、鍵束を鳴らして倉庫の奥へ消えた。長年の倉庫番の、精一杯の出迎えだった。フェンが駆け寄ってきて、留守中の報告を一息に並べた。冬越しの配分、予定通り。治療院の薬、十日分の備え。北の戦線向けの荷、遅れなし。
レン不在のひと月余り、この街の冬は、一度も止まらなかった。
「隊長!」
ミナが、雪を蹴って走ってきた。手に、木の札を握っていた。
「見て。あたしが書いた」
荷札だった。癖のある、濃い炭の字が並んでいた。
くすりばこ 三 ミナ
「配達の荷札、今はあたしが書いてる。字を書けない子のぶんも、あたしが聞いて、書いてやってる。……昔、隊長があたしのを書いてくれたみたいに」
炭で名前を書いてもらった朝から、まだ半年もたっていない。書いてもらう側だった子が、もう書いてやる側に立っていた。仕組みというのは、紙と判の話だと思っていた。違った。書ける者が書けない者のぶんを書く、その手の連なりのことだった。
ミナは、レンの顔をのぞき込んで、少し首を傾げた。
「今日は、顔、白くないね」
王国全体を初めて数えた日、真っ白な顔で立っていたレンを、この子は覚えている。レンは、雪を払いながら答えた。
「数えなくても、回ってるからな」
削る理由は、これから、ひとつずつ減らしていける。この街が今日それを証明した。それで、十分だった。
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執務室で、復命をした。
セリアは、領主の席で聞いた。証文の顛末。鈴の行方。保管料の定め。消えた人を数える名簿の写し。辞令。レンは番号を振って並べ、セリアは番号の順に頷いた。公的な復命は、公的な速さで終わった。
復命書に、署名を求められた。
レンは筆を執り、本文の最後まで書いて、署名の前で、筆が一瞬止まった。署名の上の、一行分の空白。あの返書で、墨の線が二度重ねられていた場所と、同じ位置だった。
顔を上げると、セリアがその手元を見ていた。
どちらも、何も言わなかった。消された二行は、消されたまま、同じ場所にある。それを二人とも知っていて、知っていることも互いに分かって、それでも今日は署名だけをする。レンは署名した。セリアは復命書を受け取り、領主の印を押して、それから、初めて公文の外の声で言った。
「明日の配分の卓に、席があります。……今度は、代理ではなく」
「伺います、セリア様」
それだけの、再会だった。それだけで、続いていく並走だった。
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翌朝、レンは配り所に立った。
薬箱が三つ、今朝の便で入った。列は短い。倉庫が回っている街の列は、短くて済む。列の末尾に、外套の袖の長い子供がひとり、札を持たずに立っていた。
「札は」
「……ない。字、書けない」
届く側だった頃の自分と、同じ目をしていた。荷物の隅で眠って、届かない薬を待って、大人の袖を引けずにいた、あの頃の目だ。
レンは、胸元から古い荷札を外した。
雨に滲んだ、読めない字の木片。四年前、最初の倉庫で剥がれかけていたのを、拾った札だ。誰の荷に付いていて、どこへ届くはずだったのかは、もう誰にも読めない。届かなかった薬を待った日のことを、レンはこの札で覚えてきた。外套の下で提げ続けて、王都の倉の前でも触れた、あの札だ。
レンは炭の欠片を借りて、札の裏を上にした。
「名前は」
子供は、小さな声で名を言った。レンは、その名を札の裏に書いた。滲んだ表の字は、そのままにした。書き終えて、紐を結び直し、子供の首に掛けてやった。
「これで、届く。次からは、自分の名前の場所に並べばいい。……書き方は、あそこの姉ちゃんが教えてくれる」
ミナが、配りの卓から手を振った。子供は札を握って、列の自分の場所へ戻っていった。名もない子が、名を持って荷を待つ側になった。それだけのことに、ずいぶん長くかかった。それだけのことのために、この仕事はある。
胸元が、軽かった。
配り所の帳面に、今日の一行が載る。
本日入庫、薬箱三。本日出庫、薬箱三。
届くべきものは、今日も届いた。
(完)
「棚卸し補給官」、第82話「届くべきもの」をもちまして完結です。
長い連載でしたが、最後までお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございました。
戦わない補給係が、帳簿と荷と人の間を歩き続けて、最後にたどり着いた場所を見届けていただけたなら嬉しいです。
引き続き、よろしくお願いいたします。




