第31話 王都から来た監査官
正式任命から二日が過ぎた朝、リンドホルム共同倉庫の前に、王都印の馬車が一台、止まった。
馬は四頭。御者と護衛が四人。荷台には鉄具の留め金が打たれた木箱が二つ。どれも、辺境都市の朝の景色には不釣り合いだった。
倉庫の前で荷札の確認をしていたレン・アスターは、馬車の蹄の音より先に、その荷の中身が見えた。
書類箱、二つ。
封印、王都補給局印。
内容、北方遠征隊撤退関連書類および物資出納帳簿の写し。
搬入予定先、リンドホルム領主館。
「来ましたか」
ガルドが背後で低く言った。
倉庫長は腕を組み、白い息を吐いている。冬支度の風はまだ冷たい。けれど寒さよりも、男の声の方が硬かった。
「セリア様には」
「もう知らせてあります。執務室で待つそうだ」
「監査官の名前は」
「カルロス・ヴェイン。王都補給局の中堅書記官だ。前にも辺境都市を回ってる」
「人物像は」
「規則は守る。だが、現場は知らん」
ガルドはそれだけ言って、鼻を鳴らした。
最悪の組み合わせだ、とレンは思った。
規則を守る人間は、現場を知らない人間より対応が読みやすい。だが、規則の内側に閉じこもる人間は、現場の数字と帳簿の数字が合わないとき、現場の方を疑う。
馬車から降りてきた男は、痩せていた。
四十前後。革表紙の手帳を抱え、襟元は折り目正しく整えている。だが目元には睡眠不足の青みがあり、指先は乾いて荒れていた。長旅の疲れと、書類仕事の蓄積が同時に出ている顔だった。
男はレンを見ると、軽く眉を寄せた。
「倉庫の者か」
「都市補給官代理のレン・アスターと申します」
「ああ。聞いている。臨時雇いの倉庫係を、領主家が役職に持ち上げたとか」
声は丁寧だが、含みがあった。
レンは答えなかった。
ここで反論しても、書類箱の中身は変わらない。
そのとき、倉庫の奥から白い外套が現れた。
「カルロス殿」
セリア・グランヴェルが歩み寄ってくる。
昨日まで作業着姿だった彼女は、今朝は領主の正装に戻っていた。襟元の刺繍は控えめだが、布地はしっかり整えられている。
カルロスは深く頭を下げた。
「セリア様。長旅の途中、ご無礼を」
「いえ。レン・アスターは、私が正式に任命した都市補給官代理です。外部から来た者でも、雇い人でもありません」
「失礼いたしました」
言葉は丁寧だった。
だが、目は変わらなかった。
領主館の執務室には、書類箱から取り出された王都帳簿が広げられていた。
厚い紙束。表紙には、王都補給局の印。中身は、過去三ヶ月のリンドホルム周辺における物資出納の写しだった。
カルロスは指で帳簿を撫でながら言った。
「結論から申し上げます。王都補給局の記録上、王国補給網に問題はありません」
部屋の空気が、わずかに止まった。
「北方遠征隊の撤退について、領主家から報告書が出ています。物資不足が原因とのことでしたが、王都帳簿ではこの三ヶ月間、リンドホルム向けの補給は予定通り発送されています。受領記録もあります」
「発送と受領の間に、空白があるのでは」
レンが言うと、カルロスは初めてレンを正面から見た。
「ほう」
「発送済みとされる荷の一部が、現地に届いていません。リンドホルムの実在庫と、王都帳簿の残数に差異があります」
「数えたのですか」
「数えました」
「いつ」
「今、見ています」
カルロスの眉が動いた。
「《棚卸し》とかいうスキルですか」
「はい」
「外れスキルだと聞きましたが」
「外れだと言われています」
レンは静かに答えた。
胸元の古い荷札に触れたい衝動を、こらえる。
外れスキルだと笑われる場面は、これからもある。怒っても、説明しても、相手の目は変わらない。変わるのは、数字を揃えて見せたときだけだ。
レンは王都帳簿の一枚を指した。
「この行。塩樽、北方第三関所通過、二十四樽。日付、先月二十一日」
「ありますね」
「先月二十一日は、静月の二十一日。北方街道は、雪で完全に閉じている時期です」
「……」
「閉じている街道を、塩樽二十四樽が通過したことになっている。リンドホルム共同倉庫には、その荷は届いていません。同日付の入庫記録もありません」
「途中で別用途に回されたのでしょう」
「別用途の記録もありません」
カルロスの指が止まった。
レンは続けた。
「同様の差異が、過去三ヶ月で十二件。塩、燃料、薬瓶、保存食、矢羽根。すべて発送済み記録があり、受領記録の一部が欠落しています。差額は、概算で銀貨五百枚分」
部屋が静かになった。
ガルドが静かに息を吸う音が聞こえた。
ユリウスは執務室の隅で、腕を組んだまま黙っている。商人として、こういう数字の不一致が何を意味するか、彼は誰よりも知っていた。
カルロスは、しばらく帳簿を見つめていた。
やがて、低く言う。
「現地の感覚で、王都帳簿を否定するのですか」
「感覚ではありません。数字です」
「あなたの数字は、誰が検証できる」
その問いに、レンは答えに迷った。
《棚卸し》は他人には見えない。倉庫の実在庫を一つずつ手作業で数えれば、いずれ証明はできる。だが、それには時間がかかる。
そのとき、執務室の扉が叩かれた。
「失礼します」
ミナだった。
手押し車の代わりに、両手に厚い記録札の束を抱えている。
「ガルドさんに、これ持ってけって言われたから」
ミナは執務室の机に、記録札を積んだ。
「回収班の三ヶ月分。空箱、空瓶、戻り便の記録。日付、出した倉庫、戻った倉庫、中身、運んだ人」
カルロスが目を細めた。
「これは」
「市内軽配送の記録です」
ガルドが答える。
「この一年、ここの倉庫で動いた荷は、回収班の札と門番記録と倉庫帳簿の三つで突き合わせられる。十二件の差異が本当にあるなら、どこで荷が消えたかも追える」
「子供の記録で、王都の帳簿を疑うと?」
「子供ではない。記録係です」
ガルドの声は低かった。
ミナは胸を張った。
「あたしの札、勝手に書いたことはないよ」
カルロスはミナを見て、それから記録札の束を見て、最後にレンへ視線を戻した。
「あなた方は、王都の帳簿が偽装されていると言いたいのですか」
「偽装かどうかは、まだわかりません」
レンは静かに言った。
「ただ、発送済みの荷が、どこかで止まっています。発送と受領の間に、誰も責任を持っていない区間がある。そこを誰かが利用している可能性はあります」
「証拠は」
「証拠を集めるために、現地確認が必要です」
「どこへ」
レンは王都帳簿の余白に、ペンで一行を書いた。
北方第三関所。
カルロスの指が、その文字の上で止まった。
「あの関所は、オルブライト男爵の管理下です」
「はい」
「面倒な相手ですよ」
「面倒でも、行きます」
カルロスはしばらく黙っていた。
彼の頭の中で、規則の地図が書き換えられているのが、レンには見える気がした。
帳簿は揃っている。
だが、現地は揃っていない。
その違いを認めるかどうかで、書記官の立ち位置は変わる。
「報告書を作ります」
カルロスは言った。
「王都には戻ります。ですが、報告は保留扱いにします。あなた方が現地確認の結果を持ってくるまで」
「猶予は」
「十日」
「短いですね」
「これでも、譲歩のつもりです」
レンは頷きながら、頭の奥でもう一つの数字を置いた。王国補給網が崩壊するまで、推定で残り四十日。十日でこの執務室の答えを出さなければ、残りの三十日で街道全体は救えない。
その声には、最初の含みは消えていた。
代わりに、書類箱の蓋を閉める指先に、わずかな緊張があった。
規則の人間が、規則の外側を見ようとするときの緊張だった。
カルロスは王都帳簿を一冊だけ残し、馬車へ戻っていった。
扉際で振り返り、護衛のひとりに目配せをする。レンはその一瞬を見逃さなかった。彼の上に立つのは王都補給局長ではなく、さらにその上の誰か——カルロス自身、口にできない名前があるらしかった。
執務室には、北方第三関所の名前が書かれた帳簿の余白だけが残った。
セリアが静かに言った。
「行きますか」
「行きます」
レンは板書を取った。
まだ何も書かれていない、新しい一枚。
そこに、最初の三行を書く。
王都帳簿、充足。
街道実流量、不足。
差異、発生源、北方第三関所。
ガルドが横で唸った。
「リンドホルムの中だけでは、もう終わらんな」
「はい」
レンは板書を閉じた。
倉庫の鍵は、まだ握れる。
だが、これからは、街の外に出なければ届かないものがある。
北方街道の奥で、王都印の馬車が、遠ざかっていく音がしていた。




