袁紹と愉快な仲間たち・3
「取り敢えず、まずは湯浴みをして頂戴」
袁紹と面会する事になった郭図。
だったのだが、田豊の第一声はコレ。
「いや、俺はこのままでも良いんだけど」
「そんな薄汚い格好で謁見するつもり?常識を考えなさいよ」
「袁紹殿自身が常識外れだから大丈夫でしょ」
「確かにあの方は気にしないかも知れないけど、私が気にするのよ!今のアンタを隣に立たせたくないわ!」
「立たなきゃ良いだろ。取り次いでくれたら後はオレ一人で大丈夫だし」
「取り次ぐ私の顔に泥を塗るつもり!?」
「袁紹殿が今のオレをどう見定めるのかに興味があるだけだから。清貧、清貧」
「アンタのは清貧じゃなくて、ただ汚いだけなんだけど!?」
「だからこそ意味があるんだろ。最初はオレの頭の中身で勝負させてくれよ。小綺麗にするのはその後でも遅くはないだろ?」
「あー、もぅ!!あー言えばこー言う!!アンタは袁家の看板に泥でも塗りたい訳!?」
「最初に塗る泥は後々の働きで拭ってやるさ」
と言う遣り取りが散々に繰り返され、結果的に田豊が折れた。
そんなこんなで現在、郭図は玉座の間へと続く正面の入り口前で待機している。
その両隣には田豊と沮授の姿。
田豊は言い合いを繰り返した事で郭図に慣れ始めたのか適度な距離を保っているが、出会って早々に気絶させられた沮授は一切郭図に視線を向けない、話さない。
なんなら若干、必要以上に距離をとっている節まである。
沮授の郭図に対する印象はどうやら最悪に近いものらしい。
尤も、それでもこうして郭図の隣に立っているのだから仕事はきちんとこなす生真面目さが伺える。
ここに郭嘉がいれば沮授の能面の様な表情も多少は柔らいだのだろうが、袁紹に仕官するつもりの無い郭嘉はお留守番である。
「お願いだから変な事だけはやめてよね」
これから行われる謁見で郭図がやらかさないか気が気で無い田豊は胃が痛むのか、顰めっ面で腹部を手で押さえている。
「ま、なる様に成るさ」
郭図は緊張する訳でもなく、悠然と扉の前で腕を組んだ状態で立っていた。
暫くすると閉じた扉の先で人の気配が強まり、カチャリと言う音と同時に玉座の間へ続く扉がゆっくりと開いた。
開いた扉の先には百官が左右に居並び、その間に伸びる絨毯の道の奥には主の姿無き玉座。
その右隣に文醜が腕を組んで立っているのが郭図の目に映る。
サッと左右を流し見てみれば、居並ぶ百官を代表する様に祭りで行われた行進見た顔が玉座に程近い位置の先頭に陣取っていた。
「おいおい、たかが一人の仕官で文官武官が勢揃いか?大袈裟にも程があるだろ……」
最早嫌がらせにしか思えぬ状況に郭図が愚痴を溢す。
「あの方の為さる事だから深い意味は無いと思いわよ。どうせ袁家の力を誇示したいだけだろうし」
その愚痴に気にするなと田豊が前を向いたまま返した。
それに合わせ、
「それでは郭公則どの、お進み下さい」
事務的に沮授が居並ぶ百官の間を進む様に促す。
こんな時でも視線を郭図に向けないあたり、彼女が相当に郭図を苦手としている事が伺える。
「へいへい」
促されるままに百官の間を進み、玉座手前の階段から五歩程手前で郭図、田豊、沮授が膝をつき頭を垂れる。
その姿を確認した文官の一人が小さく頷き、
「袁本初様の「おーっほっほっほっ!!」」
玉座の主人の入室を告げようとした文官の言葉は、高らかな笑い声によって掻き消されたのであった。
そしてコツコツと響く足音。
その足音は何故か玉座付近で止む事は無く、階段を降りて郭図のすぐ目の前で止まった。
「わたくしが袁本初ですわ!面を上げなさいな、郭公則どの」
色々な順序をすっ飛ばして袁家の当主が降臨した。
「は、はぁ……」
これは格式がどうのこうのと口煩い田豊が頭を抱えるのも無理無いなと思いつつ頭を上げた郭図。
その視界に真っ先に映ったのはヒラヒラとした純白の布であった。
「もっと顔を上に向けなさいな」
と言う言葉に従い見上げる様に顔を上げると、見下ろす型で腕を組んで仁王立ちしている金髪の美女がいた。
組まれた腕に押し上げられた豊満な胸部がこれでもかと強調され、その先に見える不敵な笑みを浮かべる美女の顔。
正に絶景であった。
「いやはや、何という御褒美か。眼福眼福。にしても、随分と距離が近過ぎやしませんかねぇ?あ、別に不満なんてありませんよ?これ程の絶景を拝ませて頂いてるんですか――っ!?」
阿呆な事を宣う郭図の脇腹に田豊の鋭い肘が突き刺さった。
「も、申し訳ありません麗羽さま。この男は些か不躾でして……」
「構いませんわ。既にその為人はある程度把握してますもの」
慌てて謝罪する田豊であったが、袁紹は郭図の態度を不問とした。
しかし、その袁紹の言葉に郭図が目を細めた。
『既に為人を把握している』
初めて顔を合わせたはずだが、どういう事だ?と郭図は訝しんだ。
「はて?何処かでお会いした事がありましたかな?」
「いいえ?今日が初めてですわね」
「ですよねぇ?」
不敵な笑みを浮かべたまま郭図を見下ろす袁紹と、その笑みの裏にある意図を読み取ろうと目を細める郭図の視線が交わる事数瞬。
「貴方、婚約者を助けたいのでしょう?その為にはこの袁本初ですら利用しようとするその心粋、とても気に入りましたわ。……で、いつから動けますの?」
「……!」
袁紹の口から放たれた言葉に郭図は目を剥いた。
既に迎え入れる事を前提に話を進めている事もそだうが、袁紹は郭図の内情を完全に把握していた。
「……何故、オレの目的を初めて会ったばかりの袁紹殿が把握なされているんでしょうかねぇ?自分で言うのもなんですが、見た目はこんなでそれほど名も知られていない人間なんですけども?」
いくら朝廷に太い繋がりを持つ袁紹とは言え、末端の文官でしか無かった郭図と言う存在をこれほどまで正確に把握出来るものなのか、と心内で穏やかでは無かった。
郭家は荀家と比べれば遥かに劣るものの、豫州・頴川では名門の部類に入る家柄ではある。
とは言え、ぶっちゃければ数多存在する『名門』の中に紛れるその他多数と大差はない。
だからこそ分からなかった。
荀家と蹇碩の親族のいざこざは袁紹の耳にも届くだろう。
しかし、耳に届くのはそこまでのはず。
それが郭図の認識であった。
「ええ、わたくしも貴方の事は存じていませんでしたわ」
そしてそれは袁紹の言葉で肯定された。
ならば何故?となった所で、
「それは俺様が本初に教えたからに決まってんだろ。キヒヒヒ……」
耳障りな笑い声と共に下卑た笑みを浮かべるネズミにちょび髭を付けた顔の様な小男が姿を現した。
「うげ……」
「うっ……」
ネズミの様な男の出現と共に、郭図の両脇に控える田豊と沮授が小さく呻いた。
それは居並ぶ百官たちも例外ではなく、その多くが例に漏れず顔を顰めている。
「俺様は許攸。本初の協力者で情報やその他諸々を専門に請け負ってる。金次第でどんな情報だって集めてやるよ。上手く利用しな。クヒヒッ」
許攸と名乗った男を見て郭図は心内で笑った。
袁紹の配下にはこんなヤツまでいるのか、と。
「ああ、有難く利用させて貰うよ。欲しい情報はいくらでもあるしな。だが、どうやってオレを調べた?都でのアレは無かった事になっているはずだが?」
「俺様の情報網は色んなとこにある。んで、それは簡単にゃ教えらんねぇよ。
本初がおめぇさんを知ってたのは俺様が教えたからってさっき行ったが、冀州におめぇさんが来る様に仕向けたのも俺様だ。
都で流れてた噂は俺様がワザと流した。おめぇさんみてぇなのが本初の所に集まる様に、な。キヒッ!」
「……。なるほどなぁ。通りで普通なら流れるはずのない噂まで流れてた訳だ。故意に流してたんなら納得もいく」
「当たり前だ。本初と陛下が真名を交わしたなんて噂、ワザと流さなきゃ当人同士で完結してんだろ。ま、良い撒き餌さ。お陰で俺様の本命も釣れたしな」
そう言って許攸は郭図を指差す。
「おめぇさんの事は色々調べさせて貰った。頭も切れる上に腕も立つ。それにーー……」
「いや、それ以上は言わなくて良い。これ以上余計な口は開かない事を薦める」
「うっ…!?」
許攸が言葉を重ねようとした瞬間、郭図の身体から良い様の無い圧が発せられた。
その圧に気圧されたのか、許攸の額を一筋の汗が伝う。
尤も、気圧されたのは許攸だけでは無く居並ぶ百官の殆どが郭図の放った圧にたじろいでいた。
文官の中には腰を抜かした者、武官の中には帯剣していない事を忘れ腰に手を回している者までいる。
涼しい顔をしているのは袁紹、淳于瓊を含めた数人ほどであった。
「子遠さん、おいたが過ぎますわよ?」
クスリと笑いながら袁紹が許攸を諌めた。
「クヒッ!悪りぃ悪りぃ。ちょいと度が過ぎたか。ま、悪く思わねぇでくれ。これも俺様の仕事の内でな」
額から頬に伝う汗を拭い許攸が笑う。
一瞬気圧された様だが直ぐに気を取り直した所を見るに許攸がそれなりの場数を踏んでいる事が郭図には良く分かった。
「仕事…ね。口の上手さは勝てそうに無いな」
郭図も放っていた圧を収めニヤリと笑う。
この許攸と言う男に郭図はある種の尊敬の念を抱いていた。
許攸と言う男は袁紹には無くてはならない存在であると。
彼の仕事は色々と複雑である。
情報を武器とし、内外で暗躍しているのだろう。
外に向けた諜報員であり、内にも眼を光らせる内偵でもある。
そして、あからさまに嫌われ者を演じている。
どんな情報を許攸が握っているかは分からないが、冀州の豪族たちからすれば自分たちの弱味を握っている可能性のある人物。
例え袁紹に対し二心は無くとも知られたくない弱味と言うのは誰しも一つや二つはあるものだ。
だからこそ敬遠する。
更には許攸の姿や立ち振る舞いも影響しているだろう。
袁紹を本初と呼び捨てにしている不遜な態度、そして金に汚いと思わせる言動。
それでも袁紹は許攸の言動を容認している。
多くの者にはそれが面白い訳が無い。
人格や言動に多少の問題があっても能力があれば重用すると言う袁紹の度量を表す為の人物でもあるのだろうが。
郭図の見た許攸の人物像はその全てが虚構であった。
それは田豊や沮授の態度でも明らかだった。
表向きは良い顔を見せていないが、つい先刻にその二人から全力で拒絶された郭図である。
田豊や沮授が許攸を心から嫌っているとは感じられなかった。
許攸と言う男を重用する袁紹に不満を持つ者も少なくはないだろう。
その不満分子を抑えているのが田豊と沮授であると郭図は理解した。
(実に面白い。袁紹は想定通り只者では無い。が、それを支えている臣下も一筋縄では行かなそうなヤツがいる。自身で袁紹を選んだつもりが、まさか誘導されていたとは……。これだけでも袁家に来た甲斐があったな。やはり中華は広い)
北叟笑む郭図の脳裏には行方の分からぬ荀攸と鍾繇の姿が浮かんでいた。
時間はいるだろうが、袁紹と許攸を上手く利用すれば二人を助ける事も不可能では無い、と。
「じゃあ早速なんだが、許攸。アンタに探って欲しい事がある」
「ヒヒヒッ。それは本初に仕えるって事で良いんだな?」
「ああ。元々そのつもりで来たんだしな」
「なら順序ってもんがあんだろう?おめぇさんの頼みってのは後で聞いてやるよ」
郭図の言葉に許攸がニヤリと笑う。
「……それもそうだな」
これから仕えようとしている相手を中半放置して許攸ばかりに意識が向いていた事に今更ながら気付いた郭図であった。
自身でも気付かぬ焦りが郭図の中にあるのだろう。
急がば回れとは言うが、荀攸、鍾繇の安否が分からなくなって久しい。
荀彧が立ち直るのを待っていたりと、郭図は行動を起こすまでにそれなりの時間を弄していた。
そこに現れた許攸と言う情報を扱うに長けた男。
郭図の意識がそちらへ流れてしまうのも無理ない事と言えた。
尤も、当の袁紹や許攸は気にしていない様であるが。
「郭公則、これより袁本初様にお仕え致します」
そして、まだ時期ではないと頭を振り思考を切り替えた郭図は袁紹の方へ向き直り頭を下げるのであった。
グダグダにも程がある。
「この袁本初を利用するのだからそれなりの働きを期待しますわよ」
始めから郭図を迎えいれるつもりだったであろう袁紹はそれだけ言うと踵を返し、玉座へ続く階段を上がる。
しかし、袁紹は玉座に腰を落ち着かせる事無く振り返り、
「わたくし、貧乏は嫌いですの」
と、宣った。
この袁紹による突然のカミングアウトに郭図の目が点になった。
田豊は『また始まった』と言わんばかりに顔を顰めて胃の辺りを手で押さえている。
沮授は溜息と共に俯いてしまい顔を上げようとしない。
恐らくこの袁紹のカミングアウトは今に始まった事ではないのだろう。
まあ、確かに好きで貧乏している人間はそういないだろうが。
「皆さんも貧乏はお嫌いでしょう?一部には清貧がどうのこうのと申される方はいますけれども。尤も、そんな事が言えるのは裕福な方だけですわね。清貧とはあくまでも個人の心構えですし。でも、それは民衆には関係ありませんわ。
つい先日、袁家は并州を手中にしました。鮮卑族と密に接する地域ですわね。掠奪も頻発していると聞きますし、皆さんにはより一層励んで頂く事を期待していますわよ」
そう言ってぐるりと居並ぶ群臣らを見渡した袁紹。
放たれた言葉には随分と痛烈な皮肉が込められていた。
そんな袁紹の視線に居心地が悪いのだろうか、僅かに顔を逸らしている者がチラホラ見受けられる。
「仲簡さん、并州は貴方にお任せしますわ。必要な人員と物資は都度用意しますから近日中に出立して下さいな」
「はっ!……して、掠奪を行う鮮卑族にはどう対処致しますか?」
「懐柔出来るのであればそれに越した事はありませんが、先ずは武威を示さねば従わないでしょうね。掠奪された地域周辺の鮮卑族は討伐してしまいなさいな」
「畏まりました」
「それと掠奪された地域は向こう三年は税を免除しますわ。それ以外については仲簡さんに一任します」
「御意」
并州を任されたのは淳于瓊であった。
冀州の人間ではなく、朝廷にいた淳于瓊を抜擢した所から袁紹は冀州豪族の顔色を伺っている素振りは見えない。
尤も、反乱鎮圧や賊の討伐で名を馳せた淳于瓊である。
能力面では不足ない人事と言えた。
淳于瓊と接点を持ちたいと考えている郭図からすれば物理的に距離が出来てしまった訳だが。
だが、今回の事で郭図が得られた情報は多い。
袁紹の為人は勿論の事、その為政者としての在り方も。
そして、何故に許攸が郭図に目を付け、袁紹が郭図を迎え入れるつもりでいたのか。
冀州に於ける袁紹の民の統治は盤石なれど、配下である冀州豪族らを統制出来ているとは言い難い。
冀州の豪族は袁紹に従う者と反発する者で二分されているのだろう。
現段階で袁紹に従っている者は少ない様だが。
だからこそ袁紹と許攸は冀州豪族以外の人材を欲した。
その一人が淳于瓊である。
名の通った人物やそれなりの家格の人物を揃える事で袁紹に反発する者らを牽制する。
それが袁紹の、と言うよりは許攸の考えであろう。
実質的に袁紹を裏で支えているのは、冀州を代表する名家である田と沮の令嬢二人ではなく、許攸であると郭図は踏んでいた。
相応の見返りは求められるだろうが、情報を得られるのであれば袁紹や許攸に協力するのも吝かでは無い郭図である。
(まだ時間は必要だろうが、やっと足掛かりは出来た。ゆう、繇兄もう少し待っててくれ)
玉座の前で不敵な笑みを浮かべている袁紹を目に、郭図は行方の分からぬ荀攸と鍾繇を必ず助け出すと決意を新たにしていた。