エピソード6 智代(中編)特派員レポート①
青い空、焼き付くような夏の太陽。
東京の夏は、神戸のそれとは種類の違う暴力的な暑さだった。コンクリートが吐き出す熱気が、新幹線を降りた瞬間から肌をヒリヒリと突き刺す。
8月8日、出張初日。
お昼過ぎには新宿にある東京支社へ入り、一通りの挨拶と打ち合わせを終えた。オフィスビルの冷たすぎる冷房でようやく人心地ついた私は、デスクの内線電話を借りて、タカのデスクを呼び出した。
「タカさんですか? 朝から営業に出たままで、今日はそのまま直帰される予定ですよ」
電話口の事務員の女性の声に、私はわずかに眉を寄せた。
「そう。ありがとう」
受話器を置き、私は手帳を開く。そこにあるタカのポケベル番号を、慣れた手つきでプッシュした。
(メッセージ:トウキョウ ツイタ レンラクシテ)
それから15分後。私は支社のデスクの番号を伝えておいた。しばらくして、私の手元の電話が鳴った。
「おー、智代。お疲れ。着いたんか」
受話器の向こうから聞こえるあいつの声は、雑音混じりで、公衆電話からかけていることがすぐに分かった。
「着いたよ。タカ、今日は会社に戻らんって聞いたけど、私はどうしたらいい? 今夜は?」
「えっ? お前、仕事やろ」
「仕事やけど、夜ご飯とか……。あ、私、ホテルも取ってへんで」
少しの沈黙。受話器越しに、都会の車の騒音が遠く聞こえる。
「……ずっと俺の家に泊まる気か?」
「そや! そのつもりやけど、何か不都合なことあんの? もしかして彼女できた?」
たたみかける私の言葉に、タカは一瞬だけ、言葉に詰まった。
「…………できてへんけど。まだ段ボールも開けてへんくらい、部屋散らかっとんねん。」
「えーよ、そんなん」
「……布団もないし、お前、俺と一緒に寝るんか?」
「なんでアンタと一緒に寝るんよ! 」
冗談めかして返したけれど、あいつの声はどこか重く、逃げ道を探っているようだった。
「……明後日まで待ってくれ。整理して、布団も用意するから。それまではどっか適当にホテル取ってや」
「あやしいなぁ……。まあええわ。ほな、明後日の夜ご飯からは予定空けといてや。リサーチ、忘れてへんやろな?」
「了解いたしました、かわいい智代ちゃん」
ガチャリ、と通話が切れる無機質な音が響く。
私は冷えたオフィスの中で、しばし受話器を握りしめたまま固まっていた。
何かが、おかしい。
タカは、こういう時に嘘をつく男じゃない。彼女ができたら「できた」と笑いながら白状するし、私に対して変な壁を作ることもなかったはずだ。
でも、今の会話には、拭いきれない「違和感」がこびりついていた。
何よりあいつは、もっと寂しがっていると思っていたのに、声のトーンにはそんな気配が微塵もなかった。あいつの「孤独」を埋めている何かが、すでにこの街にはある。
(無理してるのか、それとも……)
「旅人」だったはずのタカは、私の知らないうちに、東京という街のどこかに深く根を張ってしまったのではないか。
あるいは、私が土足で踏み込めないほど「誰か」との新しい生活を築き始めてしまったのか。
嫌な予感が、夏の湿った熱気と共に胸の奥に溜まっていく。
8月10日の夜。あいつの部屋の扉を開けたとき、私は何を見つけることになるんだろう。
冷房の風が、ヒリヒリする肌に少しだけ心地良く冷たく感じられた。
「おーい、智代! 久しぶりやな!」
新宿駅の、人混みが渦巻く待ち合わせ場所。聞き慣れた、少し懐かしい大きな声が響いた。
声のした方を向くと、そこには時間通りに現れたタカが立っていた。
「めっちゃ暑いなぁ! 腹減ったやろ、何食べたい?」
屈託のない笑顔。強烈な夏の陽射しに負けないくらい明るいその表情は、神戸にいた頃と何も変わらないように見えた。けれど、長年あいつの「揺らぎ」を見てきた私にはわかる。
何かが、決定的に違う。
私はその違和感を悟られないよう、努めて平静を装った。
「何でもええよ。そやな、せっかくやし東京っぽいのがええなぁ」
「もんじゃ食ったことあるか?」
「ないわぁ。だって、あれ見た目がちょっと……アレやん?」
私が眉を寄せると、タカはガハハと笑って、迷いのない足取りで一歩踏み出した。
「じゃあ、美味いもんじゃ食わしたるわ! ちょっと移動するで」
そう言うなり、彼は私の重いボストンバッグをごく自然にひったくるように取り上げると、前を歩き出した。
……あれっ?驚いた。
今までのタカなら、「んー、じゃあ別のんにする?」とか「他に食べたいもんある?」と、過剰なほど相手に気を使い、選択肢を委ねてくる性格だったはずだ。
それが、どうだろう。今のあいつは、私の顔色を伺う代わりに、自分の行きたい場所へ私を連れて行こうとしている。
「男の子」が「大人」になったというか……誰かをリードすることに慣れたような、そんな確かな自信。
その成長に少しだけ胸がときめくのを感じると同時に、私の知らない「東京の誰か」があいつをこう変えたのではないかという寂しさが、胸の奥をチリリと焼いた。
新宿駅から、黄色い車体の総武線に乗り込む。
目指すは下町の風情が残る亀戸だ。
電車の中でも、タカはタカだった。人混みではさりげなく自分の体を壁にして私を庇い、通路を確保してくれる。その守られている心地よさは、昔と変わらない。
ふと見ると、あいつは向かい側に座っていた見知らぬ男の子に向かって、変な顔をしてみせていた。男の子がポカンとした後、ふふっと笑う。
(……やっぱり、タカはタカやね)
その変わらないお調子者ぶりに、私は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
亀戸駅から少し歩いたところにある、『もんじゃ どれみ』という店に案内された。
そこは、私の想像していた「下町の鉄板焼き屋」とは少し違っていた。どこか洗練されたお洒落な内装で、店内には静かにジャズが流れている。隅々までこだわりが感じられる、大人の隠れ家のような空間だ。
「ここ、絶対気に入ると思うわ」
私たちはビール片手に、初めてのもんじゃに挑んだ。
まずは小手調べに野菜や海鮮を焼き、それを突きながら冷えたビールを流し込む。
そしてメインの、もんじゃ。鉄板の上で土手を作り、出汁を流し込み、コテで手際よく混ぜていく。
「何これ、美味しい……!」
見た目の先入観は、一口食べた瞬間に吹き飛んだ。特に出汁とソースが焦げる香ばしさに、たっぷりの明太子が絡んだもんじゃは、驚くほど中毒性があった。
最後にデザートとして注文したのは『あんこ巻き』。薄く焼いた生地で餡を巻いた鉄板スイーツだ。
「どや、美味いやろ?」
自慢げに、少し鼻を高くして笑うタカ。
その表情は、いつもの生意気で可愛いあいつそのもので。
(……ごちそうさま。でもタカ、まだ隠し事してるやろ?)
私は甘いあんこ巻きを口に運びながら、笑顔の奥に潜む「何か」を、今夜こそ見極めてやろうと心に決めていた。
店を出て、亀戸の駅へと向かう。夜風はまだ熱を孕んでいたけれど、ビールの酔いが心地よく回っていた。
「どーする? 少し飲んで帰るか?」
タカがひょいと首を傾げて聞いてくる。
「……さすがに出張で疲れたわ。もー帰る」
「はぁ〜い、了解」
タカの新しい住まいは、川口にあった。
以前の大阪のアパートとは違い、どこか「都会の独身男」を感じさせる小綺麗なマンションだ。オートロックの音、エレベーターの無機質な響き。タカがこの街の住人になったのだと、改めて突きつけられる。
部屋に入ると、そこは驚くほど整然としていた。
「コーヒー飲むか?」
「んー、先にシャワー借りるわ。なんか着替え貸して」
浴室の鏡に映る自分の顔は、湿気と疲れで少し火照っていた。
シャワーを浴びながら、思考を巡らせる。タカの何が、そんなに引っかかるのか。
部屋は綺麗に片付いている。けれど、あいつは昔から身の回りを整えるタイプだった。今のところ、洗面所に女物の化粧水があるわけでも、不自然な髪の毛が落ちているわけでもない。
(……なんなん、この感覚)
借りたタカのショートパンツと、少し首元の伸びたTシャツに袖を通す。
ふわりと鼻をくすぐる、タカの匂い。洗剤の香りと、あいつ自身の体温が混ざったような、懐かしい匂いだ。その香りに包まれると、棘立っていた心が少しだけ解けていく。
リビングに戻ると、タカがキッチンに立っていた。
「アイスコーヒー? それともポカリ?」
「んー、アイスコーヒーやな」
「はーい、どーぞ。……で、みんなは元気にしてるんか?」
「元気やで。こないだ聡美と昌ちゃんとご飯食べたんよ。タカのこと『全然心配してない』って言ってたわ(笑)」
「おい、そこは心配しろよ」
「あと、『寂しくて泣いてないか見てこい』って(笑)」
「寂しくないわ! 泣かんし」
タカは笑いながら否定する。けれど、その返しに「必死さ」がないのだ。
昔のあいつなら、もっと大げさに「寂しくて死にそうや!」とおどけて見せたはずなのに。今の余裕は、どこから来ているのか。
「……何かタカ、少し変わったな。大人になったというか、男になったというか……」
「いやいや、俺はずっと男やし、大人やし」
「んー、なんか余裕出たっていうか……」
「……もー寝よーぜ。明日もう1日仕事やろ」
タカが話を切り上げるように立ち上がった。
「そやな。明日頑張ったら、やっと休みやぁ……」
ベッドへ向かう。
「智代…こっち…」
「え…うん…」
低く、落ち着いた声。私は吸い寄せられるように、あいつの腕の中に収まっていた。
タカは私を優しく抱きしめ、唇を重ねてきた。
その瞬間、全身に電流が走ったような違和感を覚える。
何かが違う。唇の触れ方、手の動き、力の抜き方――すべてが「流れるよう」にスムーズなのだ。
(……タカって、こんな感じだっけ?)
以前のあいつは、もっと不器用で、どこか焦燥感のある愛し方をしていたはずだ。今のこの、相手を完全にコントロールし、慈しむようなリズム。
けれど、考える余裕はすぐに奪われた。
「う……っ」
以前とは違う、成長したタカ。
悔しいけれど、やばい。気持ちいい。
あいつの指先が、肌の温度が、私の思考を一つずつ溶かしていく。
結局、私は「特派員」としての任務も忘れ、あいつの腕の中で泥のように深い眠りに落ちてしまった。
朝の光が差し込むまで、その腕が「他の誰を抱いて覚えたものか」と、問い詰めることもできずに。




