第四章 「星、堕(お)つる」 十一話
--深夜。建加夜彦が薬で眠った後、斐比伎は幕内を抜け出し、川岸へとやってきた。
誰もいない川辺へ座り込む。--その途端、斐比伎の両目から涙が溢れ出た。
「……どうしたんじゃ、まったく。吉備の新たなる女首長になろうというもんが」
斐比伎の肩に乗ったまま、少彦名が戸惑ったように言った。
「……だって。だって、このままじゃ、父様が死んでしまうかも知れない……」
斐比伎は嗚咽しながら呟いた。
彼女の正体を明かすために無理をしたのがたたったのか、あの後建加夜彦は更に体調を崩した。
もはや、周りの者にはなす術もない。かろうじて、薬で痛みを和らげることが出来るくらいだ。
「……いくら大和から吉備を取り戻したって。女首長になったって。父様がいなきゃ、何の意味もない。私が護りたいのは、父様のいる吉備なのに……!」
「斐比伎……」
少彦名は力なく呟いた。
「馬鹿だわ、私。磐城の皇子なんかに憧れたりして。わざわざ大和まで行って。……ずっと、ずっと父様の傍に居れば良かった」
斐比伎の両目からぱたぱたと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……どうして、こんなことになるまで気付かなかったんだろう。私にとって大事なのは父様で……私は、父様が好きだったの。あの人を想っていたのよ、ずっと」
斐比伎は、悔しそうに唇を噛み締めた。自分自身の愚かさが、堪らなく腹立たしい。
「……斐比伎」
「……ねえ、少彦名。私が天津神の娘ならば、力はないの? 父様を救えるような力が、私には!」
斐比伎は叫ぶ。少彦名は沈んだ面持ちで呟いた。
「……武御雷は軍神じゃ。癒しの力は持っておらぬ。その血に宿るのは、ただ破壊の力のみ。じゃが……」
少彦名は俯いて口ごもり、しばらく考えた後に言った。
「--斐比伎。米粒と、玉器を持ってこい」
「……何のために?」
斐比伎はきょとんとして聞き返した。
「いいから。早うせい」
少彦名に急かされて、斐比伎は訳がわからぬまま、とにかく立ち上がった。
涙をふいて陣幕に戻ると、指示された通りの物を持って戻る。
「……これでどうするの?」
玉器を下に置いて、斐比伎は訪ねた。
「--うむ」
呟き、少彦名は米粒を口に入れた。くちゃくちゃと噛み砕き、それを玉器の中に吐き出す。
「……口噛み酒を造るの?」
「そうじゃ」
「でも、お酒が発酵するまでには、すごく時間がかかるのよ?」
「……わしは、酒神で医薬神じゃ。まあ、みておれ」
少彦名は玉器の周りをまわりながら、何やら奇妙な仕種で踊り始めた。
「--なにふざけてるのよ」
「ふざけているわけではない! これは、美酒を造るのには欠かせぬ、神聖な踊りじゃ!」
少彦名は踊りながら言う。
不思議なことに、彼の言う通り、踊りの進行と共に酒の発酵は進み、踊りが終了すると同時に見事な酒ができあがった。
「すごい……本当にできちゃった」
玉器の中を覗き込んで、斐比伎は感心したように呟いた。
「復若の酒。……怪我や病によく効く薬じゃ」
「--少彦名!!」
斐比伎は、小さな神に向かって叫んだ。
「これを飲めば、父様は助かるのね!」
「……わからん。これとて、万能薬ではないのじゃ。建加夜彦が助かるかどうかは、わしにははっきりとは言えん。--あとは、本人の運次第じゃろう」
「それでも、助かるかも知れないわ! ありがとう、少彦名!!」
「……さて、それでは少し休ませてくれい。わしも実はかなりの年でな。これを造ると、ひどく疲れるのじゃ」
「ええ、勿論」
嬉々として言うと、斐比伎は少彦名を襟の中に入れ、玉器を持って走り出した。
「……斐比伎」
襟の中で、少彦名が小さな声で呟いた。
「それを建加夜彦に飲ませたら、二人で再び大和へ行こう」
「大和へ?」
走りながら斐比伎は言った。
「戦うために--戦うために、大和へ行くのね」
斐比伎は顔を引き締める。
「そうじゃ」
目を閉じながら少彦名は言う。
「運命に立ち向かい、全ての絡んだ因果を絶つ。--それが、今生でお前がなさねばならぬ務めじゃ。……安心せい。わしも、最後までつきあうぞ……」
気怠げに欠伸をすると、少彦名はそのまま滑るように眠りに落ちていった。
(第四章終わり 最終章へ続く)




