第三章 「吉備の反乱」 五話
「--ああ。行ってきな」
五十猛は右手を上げて、木立ちの奥に流れる小川を指さした。斐比伎が駆け出すのを見届けて、彼はその場に腰を下ろす。
「……随分と成長したではないか? あの子は」
ぴょこぴょこと歩いて五十猛の傍らにやってきた少彦名は、彼の隣に腰を下ろした。
「ああ、この短い間でな。流石ってことか」
言うと、五十猛は少彦名に向かって意味有り気に笑った。
「……しかし、今こうしてお主と斐比伎が協力する事になろうとはな」
少彦名は空を見上げて言った。
灰色がかっていた冬空も、少しずつ明るさを増していっている。季節は、ほんの僅かずつだか移ろいつつあるのだ。
「まあ、不思議な因縁だよな」
「神代から数え切れぬほどの時を経て--人の世の因果は、どうにもならぬ程に絡まってしまった」
少彦名は物憂げに呟く。
「そうだな。殆どは、人間達が勝手にごちゃごちゃにしちまったもんだが……最初の原因の一端は、お前さんにもあるんだぜ」
「--否定はせぬ」
少彦名は平板な声で言った。
「……だから今、あの子の傍におるのじゃ」
「随分と期待が大きいねえ。あのさあ」
そこで言葉を切り、五十猛は自分の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
「可哀想にならねえ? 俺ぁ、どーも自分が悪いことしてるみたいで……」
「それはわしもあの子に会って考えた。……出来るなら、今のままでいさせてやりたいと」
「あの嬢ちゃんは、何にも知らねえもんなあ」
五十猛は困惑したように呟き、苦笑した。
「--お主は『記憶』はあるのじゃろう?」
少彦名は五十猛に聞いた。
「どっちの?」
「……どちらもじゃ」
「ああ、あるよ。『魂の記憶』も。『血の記憶』も。……消えるわけがねえ」
五十猛は憂鬱そうに呟いた。
「だがな。『記憶』はあっても、俺は俺だ。この自我は、『五十猛』自身ってことなんだ。--だからこそ、俺はそのために古の因果を解く。それが、俺の戦う理由さ」
五十猛は決然と言う。彼の瞳には、少しの迷いもなかった。
「……お主はいつでも前向きじゃのう。自分で選んだ道を、決して変えぬのじゃ」
少彦名は羨むように呟いた。
「あの時も、お主は一人で最後まで抗った。他の者達がすべて退いてしまったというのに。……お主一人だけが最後まで戦ったのじゃ」
「……それ、は『俺』じゃねえけど」
「同じことじゃ。……懐かしいと言えばよいのかのう」
少彦名は、ほう、と嘆息する。
五十猛は、皮肉げな目で少彦名を見下ろした。
「--それなのに、お前さんは、今俺じゃなくて、あの嬢ちゃんを選ぶんだな」
「選んだのではない。……全てはさだめじゃ」
「はいはい」
五十猛は適当に答えた。
「お主は前へ進もうとしておる。斐比伎の行く末は混沌じゃ。……しかし、『あやつ』は……あやつは、『記憶』どころではない。恐ろしいことになっておるぞ」
「ああ、わかってる。だからもう、行くさ」
言うと、五十猛は立ち上がった。
「『行く』?」
「不安定な巫女姫だった嬢ちゃんは、自信と実力を取り戻して、本来の自分に立ち戻りつつある。--もう大丈夫だ。行ってもな」
五十猛は目を上げて、木立の方を見やった。
戻ってきた斐比伎が、彼らのほうへ向かって駆けてくる。
「よう、嬢ちゃん。水はたっぷり飲んだか?」
「ええ、冷たくておいしかったわよ! あなたも飲んだら?」
斐比伎は上気した顔で答えた。
「いや、いいさ。それより、休憩が済んだのなら、行くぜ?」
「行く? 何処へ?」
不意に言われた斐比伎は、きょとんとした表情で答えた。
「俺ぁ最初に言ったろ? 嬢ちゃんを連れてきたのは、ある社の扉を開けてもらう為だって」
「……ああ。そう言えば、そうだったわね」
斐比伎は、思い出したように手を叩いた。
修業に夢中になっているうちに、本来の目的をすっかり忘れてしまっていたのだ。
「もう行くの? 今から?」
「ああ、今からだ。ついてきな」
言うなり五十猛は踵を返し、小川とは反対方向の木立に向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 少彦名、おいで」
斐比伎は少彦名を呼んで自分の肩に乗せると、五十猛を追って走った。




