第三章 「吉備の反乱」 二話
既に何年も前に完成しており、自サイトなどに掲載している長編を、少しずつ分割しながら連載投稿しています。
前作「月傾く淡海」よりは、ややライトなテイスト(ラノベより)で、恋愛要素もあります。
全五章で、一章が約十話です。
一話の長さにはばらつきがあります。
一度アナログで作ったデータをデジタル変換した際に、一部改行に不具合が出た部分があります。
「……星川」
「母上」
星川は振り返る。いつのまにか、彼の後ろに母・稚媛が立っている。
「どうされました母上。共も連れず御一人で」
星川は母に向かって笑顔を作った。
「どうかしているのは、お前のほうですよ」
稚媛は歩を進め、星川の傍らに立った。
「このところずっと物思いに沈んでいて。お前らしくもないですよ」
「……ああ」
星川は曖昧に呟いた。
「大和と吉備の間に漂い始めた不穏な気配が気にかかるのです。--あの、虚空の進言が。下道王・前津屋どのが大王に翻意を抱いておられるなどという……」
本当に気にかかっていたのは別のことだったが、星川は母にそのように述べた。
「--そのことですか」
稚媛は眉を顰める。彼女は既に四十路だったが、年を感じさせぬろうたけた美女だった。
磐城・星川両皇子の女性めいた美貌はこの母譲りのものである。吉備の姫として生まれ育った稚媛は、大王に召されてからもその自負を忘れることなく、常に故郷の動向には気を配っていた。
「あの愚か者の言うことなど、真実ではありません。奸計を弄する為の讒言とわかりきっているのに、何故今になって大王はわざわざお取り上げになるのか」
稚媛は吐き捨てるように言った。
「……母上。父上は今度の一件で、前津屋王に物部の兵士を差し向けるのでしょうか」
星川は心配そうに尋ねる。大和宮内は、今その話題で持ち切りだった。
「兵士を送れば、彼の反乱を決定づける事になります。そうなると、吉備はただでは……」
「そうですね。だが、恐らくそうはなるまい」
稚媛は彼方を見据えるようにして言った。
「大王は、もっと穏便な手を使われますよ」
「どういうことです、母上!?」
星川は急き込んで母に問うた。
「……吉備加夜王の姫を、日継の妃として差し出すよう申し入れたそうですよ」
「--吉備の姫を?」
その瞬間、星川は激しい衝撃を受けた。
鼓動が激しく波打ち、呼吸が苦しくなる。
「……それは、斐比伎姫のことですか?」
内心の動揺を母に悟られぬよう、星川は平静を装って尋ねた。
「確か、そのようなお名前だったはず。わたくしは直接お会いしたことはないが、噂では
お可愛らしい姫とのことですよ」
息子の変化に気づかず稚媛は淡々と告げた。
「そう、ですか。あの姫が、兄上の妃に……」
「いずれは皇后となる適妻です。有り難い話として、うまく納まるでしょう。ですが……」
そこで稚媛は言葉を切り、領布の先で口元を押さえた。
「ていのよい人質ですよ。反抗の意志がないのなら、服属の証に姫を差し出せというのです。--恐らく、この筋書きを考えたのは磐城でしょう。恐ろしい子だこと。……本当に、父親によく似ている」
稚媛は、おぞましそうに言った。
恐らく、斐比伎姫の妃入りには、大量の持参金--即ち所領の召し上げが伴うだろう。
それは、兵士を差し向け、戦力を使って奪い取るのよりも、余程効率的で賢い侵略のやり方だ。
「大和の為なら、どんな汚い謀略でも平気で仕掛けるのです。本当に、良くできた皇子だこと。大王も、さぞやお喜びのことでしょう」
「母上……」
星川は困ったように呟いた。
母と兄の間に--そして、夫である大王との間に、埋めようのない溝があることは、星川の目から見ても明らかだった。