第百三十七話 『穣』の彼方へ
「最後の通告をする。イヨルよ、その人間を余に差し出せ」
生贄を要求する邪神のようにアイオーンは述べた。
気のせいだろうか。時間と共に彼の傲岸さが度合いを増しているように思える。
俺の腕の中で、小さな影が震えるように体を身じろぎさせた。かすかに不安を宿した金色の目に安心するよう笑みを返し、白い天使へと視線を向け直す。
「アイオーン……。あなたはこの子がどんな思いで今日まで人間たちを守ってきたか考えたことはあるのか。一滴の水を求めて灰の砂漠を歩き、ほんの少しの思い出だけが残った小さな部屋へ戻っていく姿を見たことがあるのか」
この問いかけにアイオーンはわずかに目を動かした。それは小首を傾げる動作にも似ていた。
「ない。そのようなこと、する必要もない」
「……!! あんたは……!」
沸き上がる怒りが腕の中のスノーカインをより強固に防護する。彼女はあの寂しい死の世界でひたすら耐え続けた。使命感を胸に孤独と戦い続けた。自分でその枠に彼女を落とし込んでおきながら、それを気にも留めなかったなんて……!
「そのまま時間を稼げ」
不意に聞こえたセルガイアの囁きが、俺の激情がヤカンのフタを吹っ飛ばす寸前で止めた。
彼にはアイオーンに勝つ算段があると言っていた。その準備に入っているのか。それなら、このまま会話を引き延ばす……!
「なぜだ。人間にそこまで冷たくしておきながら、どうしてイヨルだけにここまで肩入れする」
「――そのような不出来、親として赦せぬからだ」
「な!?」
思わぬ返答に俺だけでなくまわりのメンバーからも驚きの声が上がった。
アイオーンは白木のような腕を持ち上げ、歌うように告げる。
「天使と人間より産まれる。すなわち天の子、余の子である。その貴き存在が、本来ならば持てる力と天の視座を失い、愚かしくも泥の中を這い回る。そのような無様、無謬なる天の眷属として到底見過ごせぬ」
「親心だとでも言うのか……!」
アイオーンがセルガイアと人間の恋を否定したという話は聞かない。イヨルの誕生も認めてくれているような口振りではある。そんな我が子が生来の力を発揮できないでいるのを放っておけない……だから導いている、というふうにも受け取れる。だが……!
「しかしあなたは、イヨルたちの間に大きな戦争を起こそうと目論んだ」
「……ほう。今の段でそれを察するか」
ここまで物静かであったアイオーンの表情に、かすかな驚きが波紋を打つ。
「恐らくは、地上で大量の死者を出すことで煉界の人間たちに一気に負荷をかけるのが計画の仕上げだったんだろう。だが、その時死ぬのは大勢のイヨルたちだ。あなたが自分の子と言った者たちだ!」
俺の叫びは、絶白の天使の貌にいかなる変化も起こせなかった。
「イヨルの中にも高い視座を持つものが幾人かはいるようだと思ったが……やはりそこまでか。汝らの中に多くの死者が出る……それが何だというのだ?」
「な、なに……!」
じわり、と胸の内から何かが湧き出る。
「カイーナという罪深き枷を断つためだ。種としての完成のためなら、個の犠牲程度は日々繰り返される死生の摂理と同じではないか」
「それが親を僭称する者の言うことか!」
じわじわと。より広がり――。
「“親”よりはるかに劣る“子”が何を言う? 悩み、苦しみ、怒り、嘆き……些細な情念に取り巻かれ、もがき続ける生き方が楽しいのか? そのような恥ずべき姿、余の子として相応しくない。……吾子よ。親に従え。そして再び天の計――余の箱舟に乗るのだ。さすれば今度こそ、高みから世を見通す知性と平穏が得られよう。それが非力な子にできる、唯一の賢き行いだ」
俺の体の中を浸したもの。その言葉。俺は知っている。誰よりも俺が、俺に向けてきた言葉……!
「アイオーン……あなたは毒親だ」
「なに?」
「子供のことなんかこれっぽっちも考えてない。あくまで自分本位に子供の人生を弄ろうとしている。子供は親の所有物でもなければ……自分の分身でもない。確かに、親には受け継いでほしい想いがあるだろう。託したい願いも、成し遂げてほしい役目もきっとある! だけど、だけどだ。それは親たちの時代に生まれた古い願いにすぎないんだ。子供たちには子供たちの時代がある、夢がある! 親たちが最後の最後に本当に望めるのは……望んでいいのは! どうかおまえたちの時代を生き抜いてくれ――そこまでで十分だろう!?」
「……不愉快な子だ」
はっきりと浮かんだ。白光の顔に波打つ陰――嫌悪。
「先ほども余に言葉で挑んできたイヨルがいたが、それよりも論理的にも知性的もはるかに劣る。だが……余計に腹立たしい。汝のような愚者が、余の考えに枷をはめようなどと……」
アイオーンの光背を飾っていた枝が伸長され、さらなる輝きを帯びる。
普通ならばこの程度で不興を買ったりはしないのだろうが、今はヨハンが遺した〈エンジェルトーク〉の影響下にある。
し、しまった、つい……思ったことをそのまま口にしてしまった。もっと時間を稼ぐ方法がいくらでもあったのに……!
かすかな後悔が遅れて胸の内を浸したものの、それを追い払うような温もりが俺の手を掴んだ。
それはアークエンデの手であり、そしてスノーカインの手でもあった。二人が俺の言葉を支えてくれるのが伝わった。
「――よかろう。群れから愚かしき子を“摘み出す”。それもまた親の役目ならば」
猛烈な爆光と共に波打つ不定形の力が、俺たちの体に何度も浴びせかけられた。思わず踏ん張った足はそれでも数センチ後ろに引きずられる。立っているだけでもやっとの圧力。アイオーンが……戦闘態勢に入った……!
光がのたうち、波動が空間を揺らす。
アークエンデたちも応戦の構えを見せるが……あまりにも大きすぎる……! 見渡す限りすべてアイオーンの領域。まるでこの星のすべての空を敵に回したかのようだ。
もし次にアイオーンが何らかの手を下せば、それだけで俺たちは何もかも消し飛ぶ。誰一人、欠片も想いも残さず塵以下の粒になってこの世から消えてしまう。そんな予感が現実になる――その直前。
「よくこらえた。イヨルたちよ」
天から響き渡る声とは対照。地より湧き出でるような優しい声が俺たちの前から持ち上がった。
アイオーンの爆光轟く背後に、黒い大きな穴が生まれる。それはこの場所に来る時に通った、天使の通路に似ていた。
同時に、穴とアイオーンの間に人影が現れる。一瞬にして移動したセルガイア――。
石が砕ける凄絶な音を立て、セルガイアは胸の前で交差していた腕を広げた。飛び散る自らの破片が背後の穴へと吸い込まれていくのを意に介さず、彼はその腕をアイオーンへと巻き付ける。
「アイオーン。このまま、我と共に『穣』の彼方へと来ていただく」
「なに……?」
「意図的に天の道を歪めた。あなたでも跳躍のかなわぬ絶対距離の世界だ。絶えず翼を動かしたとて、帰ってくるのにどれほどの年月が必要かな……?」
宣言するや否や、セルガイアが自分ごとアイオーンを穴へと引きずり込みにかかった。
同じ天の力の作用なのか、それともセルガイアの決死の力が想像以上に強いのか、アイオーンは抵抗を見せつつもずるずると後ろに引き込まれていく。
これがセルガイアが言っていた手か。自分もろとも相手をはるか彼方まで吹き飛ばす……!
「セルガイア様!」
アークエンデが悲痛に叫ぶ。だが彼は、表情の変わらぬ石の面で確かに、微笑んだ。
「いずれ土くれに還る身だ。そなたらが悲しむことは何もない。それより……」
彼の目がスノーカインへ、そして飛び交う人間たちの霊魂へと向いたのがはっきりとわかった。
「愛しい人々よ、最後まで守ってやれずに本当にすまなかった。我らは人間を本当に愛していた。時に醜く、時に美しく、時に愚かで時に聡明なそなたらが、生まれた時より何も変わらぬ我らからは、まるで万華鏡のように美しく見えたのだ。その光をずっと見ていたかった。ただそれだけだった……」
「セル……ガイア……!」
スノーカインが辛そうに顔をしかめる。
「そしてイヨル、我が子供たち。どうか不出来な親を許してくれ。そしてヴァンサンカン。そなたの言葉を借りよう。――生きてくれ。そなたらの時代を逞しく生き抜いてくれ……!」
「おのれ、地天使如きが……!」
アイオーンが足掻く。光が波打ち、音のない爆発が周囲を照らす。だがセルガイアの覚悟は文字通り石の硬さだった。
「さらばだ!」
別れの言葉と共に、彼はアイオーンを一気に背後の穴へと引きずり込んだ。
アイオーンは最後の呪詛すら上げられず、彼方へと通じる暗黒の中に消えていった。
すべてを呑み込んだ次の瞬間に穴は縮小し、そして消えた。
そこからは、ただただ静寂――。
「終わったの……?」
無音の世界が一秒伸び、二秒伸び、その果てにこぼされたベルゼヴィータのつぶやきが、俺たちに小さな区切りをもたらした。
天使同士のごく短い、しかしあまりにも凄絶な争いの余波は、もうどこにも残っていなかった。
俺たちが見合わせる顔に欠けた者は地天使をのぞいて一人もなく、そして周囲には霊魂たちが変わらず巡っている。
「ああ。終わった……」
俺はつぶやいた。
最後は相討ちのような形になってしまったが……セルガイアも彼なりのリベンジに満足しているのだろう。ヨハンのように。
アイオーンは……去った。
イヨルの同胞殺しの因子――カイーナを無効化するための計画は、これで頓挫した。
天の計はアイオーンの独断かもしれないが、イヨルの不完全さは大なり小なり天の気にするところかもしれない。アイオーンは複数人いるのだろうか? 天はさらなる代行者を寄越すのだろうか? もしどちらも否であるのなら、アイオーンが彼方より戻ってくるまでこの計画は保留される。天は残酷だが気が長い。願わくば、ずっと長くしたままでいてくれると助かる。
「これからも、やらなきゃいけないことや考えなきゃいけないことはたくさんありそうだが……」
俺は皆を振り返って微笑んだ。
「それをするだけの命の時間を手に入れた。俺たちの勝ちだ――」
瞬間。
ビリッ! と、体を斜めに裂くような特大の緊張が俺の中に走った。
咄嗟に背後を振り返れば、そこには虚空に空いた針の先のような穴。
それは瞬時に拡大し、何かを吐き出した。
「わあっ……!」
それを見たオーメルンが驚いて尻餅をつく。
生首だった。
いや、完全に石像となったセルガイアの頭部――。
「愚かな」
天より奏でられる、悪鬼のような声が再演される。
「余と拮抗しようとすれば、消えかけていた力が早々に底をつくのは必定――」
虚空の穴の縁を白い光が掴み、強引に押し広げる。
「彼方までは程遠かったな、地天使よ……」
白光が穴からせり出してくる。
「あ、ああっ……!」
ア、アイオーンが帰ってきた……ッ! もう!!
体には半ばで砕けたセルガイアの腕だけが無残に巻き付いていた。すでに胴体部分は彼方まで飛び去ったものらしい。強固にしがみついた彼の手は、そのまま彼の無念を表すようだった。
それでも穴の吸引力はまだアイオーンを支配していた。彼が白く逞しい腕に力を込めても、体はなかなか前には出てこない。しかし脱出は時間の問題……!
「今度こそ反抗は終わりだ、愚かな子らよ。無様な罪を雪ぎ……余の箱舟に乗れ。天に相応しい者となるのだ」
「くっ、この……!」
ベルゼヴィータが一歩踏み込んで魔法の構えを見せる。だが、腕を前に突き出した途端、彼女はいきなり前のめりに倒れた。
「ベルゼヴィータ――うぐっ!?」
声を上げた俺にも、凄まじい上からの圧力がくる。
見れば、ソラもオーメルンも抵抗できずに膝を折っている。
何だこれは。声すら出せない。心が押し潰されそうだ。どうして……。
「……!」
そうか。セルガイアがいなくなってしまったから、彼の加護も……!
最悪の二枚がけだ。再び体がひれ伏す。どれだけ逆らおうとしても、恐怖が、頭から降りかかる圧力がそれを許してくれない。
「ク、クソがああっ……!」
本当に、本当にこれで終わりなのか? 地天使の加護を失くして、もはや敵を見据えることすらできなくなって。
人間と共に滅ぼされる。これが俺たちのエンディングなのか。
「ま、だ、だああッ……!」
それでも俺は見た。睨みつけた。この残酷な天使を。
涙が溢れた。目の奥が焼き切れそうだ。このまま体の内側まで焼き尽くされるかもしれない。
だがこの目は伏せない。最後まで……絶対に……!
「――まかりなりませんわ。天使様」
新しい風は後ろから来た。
それは俺を吹き飛ばすものではなく……逆に守ってくれるような柔らかさを秘めていた。
この声は……しかし……!?
急に体が楽になる。振り返った先で、俺は言葉を失った。
そこにいたのは、確かに声の主の通りアークエンデだった。が――。
彼女はまるで大天使のような輝きに包まれ――そして右目に異様な刻印を宿していた。
目どころか顔からすらはみ出て蝶の片羽のように虚空に広がった、巨大な『執着』の刻印。
そして背後に――なんてことだ――白い気流、人間の霊魂たちが形作る巨大な翼。
何だあれは。あの子に何が起こっている……!?
「人々はすでに揺り籠を降りました。次は自らの手で、自らの子のためにそれを揺らす時――」
歌うように言葉を紡ぐ。声は彼女のものだ。だがその響きはまるで天上の音楽……!
「汝は……何だ?」
アイオーンですらそう問いかける。
「ヴァンサンカン伯領、ザイゴール・ヴァンサンカンが娘。アークエンデ」
「アークエンデ……」
「このままお引き取りください天使様。わたくしたちは、自らの船でそれぞれの海へと出ていきます」
「愚かな……。イヨルの、しかもたかが一地域の指導者の子供が余の言葉を拒むとは。身の程を知れ」
アイオーンがさらに身を乗り出してくる。もう背中がわずかに穴の向こうにあるだけだ。
だが、それを前にして、
「向かってきますのね。よろしい。ならばそれ相応の出迎えをいたします」
俺の愛娘は優雅に貴族の一礼を果たすと、嫣然と決戦の構えを取って見せた。
「わたくし――この世界の最終守護者でしてよ」
今、ラスボスになった君へ




