第百二十八話 凪の終わりに失くす
それからは、それまでの激動がウソみたいに凪の時間が続いた。
ヨハンという人は次々に新しい空洞を見つけて、シノホルンは地下の書庫で見つけた古い本の解読を進めていった。
ビールケはビールケのパパと一緒に穴掘りをしていて、アークエンデたちに色々な自慢話を聞かせていた。
他のみんなはそれぞれにすべきことを、それぞれのやり方でやっていた。
わたしは。
それをパパの肩の隣でずっと見続けた。
何かが蠢きながらこっちに近づいてくるのを、ずっと感じていた。
引き寄せているのはきっとヨハンとシノホルン。どちらかが先に、終わりへとたどり着く。
それまで、本当にバカみたいに静か。凪の海。
凪という言葉の本当の意味を、わたしは知らない。
箱舟で隣に座っていたおじいさんが、かつて船乗りだったという昔話をずっと話してくれていたことで得た言葉。
おじいさんは言っていた。凪の海は平和で、だからこそ怖くもある。海の奥底にいる何かが次に起こす嵐のために力を蓄えているみたいだからと。
箱舟に乗っていた時のわたしは今よりもっと幼く、お姉ちゃんが守ってくれなければ避難した人々の間でいつの間にか消えてしまうほど小さな存在だった。
夜になると大勢が眠る部屋の明かりが消され、あたりは真っ暗になる。高波で上下する船の軋みと、お姉ちゃんがわたしに抱かせてくれたペンギンのぬいぐるみだけが、暗闇の中でわかる確かな真実だった。
それともう一つ。隣で眠るお姉ちゃんのネックレス。
それは火時計になっていて、ガラスに収められた小さな木の欠片が端から端まで燃えていく。端に到達した火が折り返すと、今度は火が通った部分が元通りになる。それを何度も繰り返している。命の繰り返しなのだと、お姉ちゃんは当時のわたしにわからない答えをくれた。
橙の仄かな光は、明かりの落ちた船の中でも目に優しかった。眠れない夜はその火が蠢きながら先へ先へと進んでいくのを、じっと見ていた。
それからどれだけの時間がたったのだろう。
今のわたしは、かつてでは考えられないような状況の中にいる。
地上の世界――。
わたしの家族はお姉ちゃんだけだ。両親という存在は知らない。遡れるのは、お姉ちゃんに手を引かれて大きな渡し板で船に乗った記憶まで。板の下に見えた海が暗くて深くて怖くて、お姉ちゃんの手を強く握った。
でも今は同じ強さで、パパの肩を握っている。
父親、母親って、知らない。船の中に親子はたくさんいたけど、わたしはそれじゃない。
家族と呼べるのはお姉ちゃんだけ。だけど。
アークエンデは嫉妬深いけど、わたしがそこにいることを認めていつもパパの反対側に居座っている。
オーメルンはいつも注意深くわたしを見ているけど、敵意は向けてこない。
ベルゼヴィータはわたしたちの船を墜とした敵だけど、イクシードになっていたみんなを助ける手引きをしてくれた。
グノーは船にとって最大の敵だったけど、ミアズマを撒いて小さな子を助けてくれた。
シノホルンは裏切者のセルガイアを信じるイヤなヤツだけど、いつもにこにこ笑って誰にも優しかった。わたしにも。
ソラは。ルーガは。タマネは。タガネは。他の人たちは。
そして誰より、パパは。
わたしに優しかった。みんなわたしに優しかった。
違う。わたしが知っている裏切者たちと、違う。
わたしが聞いた地上の人々は皆、残酷で、ウソつきで、性悪で、だからわたしたちのことも平気で裏切れた。地上は今でも裏切りと争いで満たされていて、種族はお互いにいがみ合っていて、幸せな人なんて誰もいないはずった。
でもパパたちは。
みんな笑ってた。
ケンカをしても。
最後には笑って仲直りしてた。
どうして。それなら、どうして、わたしたちは……。
こんなはずじゃなかった。こんな景色があるなんて思わなかった。
わたしは知らなかった。世界がこんなに色とりどりだなんて。世界がこんなに瑞々しいだなんて。世界がこんなに賑やかだなんて。世界がこんなに幸せそうだなんて。こんなに優しいだなんて……。
ああ、なんてことだろう。
わたしは、パパたちのことが好きになり始めてる。
煉界にいるみんなことは大切。何より大事。でもパパは、アークエンデは、オーメルンは、わたしの声に応えてくれる。楽しい話をしてくれる。笑ってくれる。困ってくれる。怒ってくれる……。
ダメだ。
わたしは操霊機の巫女。お姉ちゃんが一番最初に“新しい形”になって、みんなもそれに続いたあの時から、それは揺るぎなく定められた。
わたしの目的は、みんなを守り、みんなを導き、そして……人間を滅ぼすこと。もう一生変わることはない。変えられない。そういうところまで来てしまった。
だからこれは、きっと最後の、凪。
わたしがたどり着いた、最後の静かな海。
わたしはそれを、もう少しだけ続いてほしいと願ってしまっている。
だからパパたちに何も話さない。
パパたちが裏切者のイメージとは全然違う人たちだったから、話さない。
話してしまえば、また嵐が来る。
それでも火時計は進んでいく。きっと折り返しのないところまで。
その日。
パパはいつものように、シノホルンの進捗を聞きにいった。わたしはパパの肩にくっついて、アークエンデはパパの手にくっついて。オマケでオーメルンもついてきた。その時までわたしたちは……何かが一緒だった気がする。お姉ちゃんと、同じだった気がする。
扉の前に来た時、中から大きな音がした。
何かを力任せに投げつけたような、そんな音。それから悲鳴。
パパたちは驚いて中へと入った。声を聞いて他の人たちも集まってきた。
そこでは、恐怖に顔を歪めたシノホルンが、何かを仇のように見つめていた。視線の先には開いた形で床に落ちた古い本があって、彼女がそれを投げ捨てたのが一目でわかった。そんなシノホルンを、エクリーフが諫めるように抱きしめている。
彼女はそんなに乱暴なすることを人ではない。パパたちは何が起こったのかと動揺していた。シノホルンはそこから泣き出して、話もできなかった。
代わりに、エクリーフが言った。
「わたしたちは、開いてはいけない闇を暴いてしまったかもしれません……」
聞いたこともないほど低く、這うような声だった。
ああ。たどり着いたのは、彼女だったか。
わたしは。
今日までの凪が終わったことを理解した。
「この本は……俗に“ロンギヌス写本”と呼ばれる本です。不明なことの多いセルガイア教団の黎明期が赤裸々に書かれた本。大洪水後の人々の暮らしや、盟主との親しげな交わりがそこに記されていました。その中に……あったのです……その知識が……」
「世界を沈めた大洪水――。最後の嵐で箱舟と共に沈んだ七番目の種族の名前は…………“人間”」
「そして今、地上にてその人間を名乗っている者たちの本当の名前は……“イヨル”」




