第52話「来月」
8時57分。
点呼板に、札が、5枚。
おれの札と、南野の札を、表に返す。2枚。課長の札は、裏。
あの日は、表は、1枚だった。今日は、2枚だ。
◇
伝票の下に、九枚の写しがある。
今日の伝票は、第99層。非常灯。定期。第18層。通路灯。定期。2件。作業員、2名。
写しを、伝票の下から、出した。堀が、朝、持ってきた九枚だ。
八枚目は、見た。
九枚目を、出した。
折れ目の、垂れた面。しゃがんだ堀の、カメラが、まっすぐ、向いた面。
堀の前では、読まなかった。堀の欄だ。
今は、堀が、いない。写しは、伝票の下に、ある。うちの机の上だ。
写しは、現況ではない。写しだ。持ち上げてよい。坑では、持ち上げなかった。ここは、坑ではない。
八枚目。点検日の欄。年。28年前の年だ。
九枚目。
次回点検日の欄。
年。月。日。
年は、今年だった。
月は——
手が、止まった。
一拍。
写しを、机に、置いた。置いて、もう一度、見た。同じ字だった。
来月だ。
写しの字は、鉛筆の、写しだ。薄い。薄いまま、机の上に、ある。手を、写しの上に、置かなかった。置くと、字が、手の下に、入る。
年の字を、もう一度、見た。今年だ。鉛筆の、薄い字が、年だけ、少し、濃い。
点検日は、28年前。次回点検日は、今年の、来月。あいだが、まるごと、あいている。
……28年、誰も来なかった場所に、来月、おれが、行く。
行くのは、決まりではない。紙が、来ていない。紙が来る前に、おれが、決めた。
写しを、伝票の下に、戻した。九枚、そろえて。
南野が、黒板の前から、こちらを見ていた。
「南野。第99層だ」
「はい。非常灯、定期」
「おれが、後ろだ」
「はい」
工具袋を、担いだ。脚立は、要らない。今日は、見る日だ。
詰所を出る前に、壁の方眼紙を、見た。七つ。横に、附則の面。八は、壁と紙のあいだ。画鋲、5つ。
◇
箱。40分。
B99。
通路の入口で、南野が、指を差した。
「——経路よし」
返した。今日は、声が、通路の壁に、二度、当たった。長い通路だ。
第99層。非常灯の列。壁沿いに、9本。
1本目から、見る。
「1番、点灯」
「よし」
南野の声。おれの声。先頭は、入口の喚呼をした者。おれは、後ろ。
7本目。あの日、切れていた球だ。今日は、点いている。おれが、替えた球だ。
球の下で、足を、止めた。南野が、ふり返らずに、止まった。後ろの足音が、消えたからだ。
「7番だ。あの日、替えた球だ」
「……はい」
南野は、それ以上、訊かなかった。
8本目。9本目。
「9番、点灯」
「よし」
9本、点灯。
音は、鳴らない。鳴らない通路を、9本ぶん、歩いた。
床が、少し、滑る。南野は、滑らなかった。
「——経路よし」
南野が、戻りの喚呼を、差した。
戻った。
◇
詰所。
伝票。第99層、非常灯、定期。9本、点灯。異常、なし。退坑、11時48分。
午後は、第18層の通路灯。24本。24本、点灯。退坑、16時20分。
16時40分。
課長が、湯のみを、持っていた。
「課長」
「……何だ、灰田」
「奥の、点検票の、次回点検日が、来月です」
課長の湯のみが、止まった。口の、手前で。
「……来月」
「来月です」
課長は、湯のみを、口に、持っていかなかった。持ったまま、おれの机の、伝票を見た。伝票の下の、写しは、見えない。見えないものの、上を、見ていた。
「紙は、まだ、来ていません。おれが、上げます。行程(案)で」
「おまえが、上げるのか」
「上げます。日は、紙が言います。点検票の日では、ありません。本部の伝票の日です」
課長は、湯のみを、置いた。
「……おれは、行かんぞ」
「行かないでください。札は、裏で」
課長は、笑わなかった。湯のみを、もう一度、持った。持って、飲まなかった。
「……灰田ぁ」
「はい」
「上に、おれから、言う。おまえの紙が、行く前に、口で、言っておく」
「お願いします」
課長は、湯のみを、置いて、受話器を、見た。見ただけだった。
方眼紙を、引き出しから、出した。おれの引き出しだ。
——行程(案)。未確認区画(最深部)。機械室。定期。
表題を、書いた。案、の字に、一拍、置かなかった。
日付の欄。
来月、と、書いた。日は、あけた。
定時で戻れる行程を、作る。
「灰田さん」
南野が、工具袋を、肩から、下ろした。
「来月、って、おれも、行けますか」
「順番がある」
「……はい」
「前を、歩け」
南野の手が、工具袋の、肩ひもで、止まった。止まって、それから、袋を、床に、置いた。置いた音が、詰所に、一つ、した。
「……行けるんですか」
「順番どおりだ。来月も、おれが、後ろだ」
「……はい」
声が、少し、高かった。高いまま、南野は、黒板に、来月、と書いた。日は、あけた。
17時。
帰る。来月も、来る。来月も、17時に、帰る。その行程を、作る。
札を、裏に返す。2枚。課長の札は、裏のまま。今日も、来月も。
伝票の下の、九枚目を、一度、見た。見てから、五枚目を、その上に、重ねた。
扉の前の、非常灯。白く、飛んでいる。点いていることだけが、分かる。
来月、行って、数える。




