第1話 羊皮紙の海に住む凡夫
「働きたくない。…いや、俺が求めているのは、『不労所得で暮らす』という、人類史上最も崇高なライフスタイルだ。」
迷宮街ヤガミ。
木造の平屋や酒場が雑多にひしめき合うこの街で、異彩を放つ建造物がある。周囲を傲然と見下ろす地上五階建ての庁舎、『迷宮開拓推進院ヤガミ支部』――通称、ヤガミギルドだ。そこだけが異常なほどの権威を主張していた。
この庁舎の最底辺、カビと古い羊皮紙の湿った匂いが重く充満した『地下二階・備品管理倉庫』の片隅で、カブトは本日百回目となる深い溜め息を吐き散らしていた。
「誰かが稼いだカネの、ほんの数パーセントでいい。何もしなくても定期的に、勝手に俺の懐へ流れ込まねぇかな…」
カブトは、このヤガミギルドで働く最底辺の下っ端文官――早い話が、しがない平の事務員である。
冴えないボサボサの黒髪に、どこにでもいる平凡な中肉中背の体格。鼻先にずり落ちたメガネを無造作に押し上げるその仕草には、連日の激務による過労と、労働に対する気だるさが薄い膜のように張り付いていた。
扱える魔法といえば、指先で灯をともすだけの生活魔法の端くれ程度。凄腕の冒険者たちが我が物顔で闊歩するこの街において、彼はまさに『凡人』の看板を背負って歩くような男だった。
「おい、カブト!また手を止めて死んだ魚のような目をしているな!サボるんじゃないぞ!!」
突如、地下倉庫に酒樽のように太った上司の怒声が響いた。
管理部の主任が、抱えきれないほどの分厚い羊皮紙の束を、カブトの古びた事務机の上にドサリと叩きつける。
「今月分の在庫リストだ!終わるまで帰れると思うなよ!」
「はいはい、すぐやりますってば!」
カブトは背筋が凍るほど調子の良い声を返し、揉み手をしながら愛想笑いを浮かべた。
上司はフンと鼻を鳴らし、満足げに脂ぎった肌とハゲ頭をランプの光に反射させながら去っていく。
その背中が見えなくなった瞬間、カブトの感情が吹き出す。
「…っだーっ!クソハゲが!!自分が計算ミスして帳尻が合わなくなった書類を、全部俺に押し付けやがって。今度あいつのハゲ隠し帽子の裏に、迷宮の油虫でもびっしり仕込んでやる……!」
手元の羊皮紙を睨みつけながら、憎悪を燃料にカブトはガリガリと羽根ペンを走らせる。
迷宮街ヤガミ。ここは、地表にぽっかりと口を開けた巨大な古代ダンジョンを中心に栄えた、欲望の街だ。
毎日、何百人もの命知らずが迷宮へ潜り、魔物を屠り、素材を持ち帰る。ギルドこと迷宮開拓推進院は、その素材の査定から高級嗜好品の流通、冒険者の登録・管理までを一手に担い、手数料という名の中抜きで巨万の富を築いている。
だが、その末端で書類を処理する文官の労働環境は、過酷極まるブラック企業そのものだった。
「どうして俺が、ジメジメした地下でチマチマと書類仕事をしなきゃいけないんだ。おかしい。絶対に何かが間違っている!俺は王位継承権を持ったエルフの美しい姫にでも甘やかされながら暮らしたいんだ。…俺を、甘やかしてくれ……!!」
「…相変わらず、クソ溜めの中で王様になる夢を見てるような顔だな、カブト」
搬入用通路の暗闇から、気遣いのかけらもない落ち着いた声が響いた。
カブトは驚きもしない。ただ面倒臭そうに、ペンの動きを止めて視線をそちらへ向けた。
銀灰色の髪を短く整えた青年が、静かに歩み出てくる。身軽そうな漆黒の革鎧を纏い、背中には使い込まれた複合弓。鋭くも冷徹な琥珀色の瞳は、貴族を思わせる高潔さと、現状を醒めた目で見つめる皮肉が同居していた。
彼の名はアッシュ。
ヤガミ界隈では「世界で一番、安全とコストパフォーマンスを愛する男」として有名な一匹狼の斥候であり、カブトにとっては、ここ数年で妙にウマが合ってつるむようになった、悪友だった。
「なんだアッシュ?自分のアジトみたいに自然に潜り込んでくるなよ。ここはいちおう推進院の管理区域だぞ」
カブトはわざとらしく肩をすくめ、義務的な注意という体裁を整える。もちろん、彼自身にそんな真面目な職務意識など欠片もなかった。
アッシュはそんな芝居を鼻で笑い、ひらひらと手を振る。
「はいはい、ご立派なギルドの文官様。お前の意識の低さのおかげで、ここが街で一番静かで涼しい特等席だって知ってんだよ。ほら、差し入れだ」
アッシュは器用に木箱に腰掛け、瓶エールをカブトに渡す。カブトはそれを片手で受け取り、小さく乾杯する。チン、とガラスが涼やかな音を立てた。
「お疲れさん」
「お疲れ」
アッシュは、時々こうしてカブトの地下倉庫へふらりと現れては、互いに皮肉を叩き合うのが二人の日常だった。
「お前さ、ソロとしてそこそこ稼いでるんだから、もっとマシな酒場にでも行けよ。なんでこんなしょーもない地下倉庫で、俺なんかと安エールなんか飲んでんだ?」
カブトがエールを喉に流し込みながら尋ねると、アッシュは灰色の尻尾を気だるげに揺らした。
「断るね。酔っ払った冒険者崩れにでも絡まれてみろ?最悪すぎるだろ。ここなら、お前という『無害の極み』みたいな男しかいないから、コストもリスクもゼロだ」
「っんだよ、ビビリかよ!」
アッシュは独り言のようにボソッと答える。
「…死にたくないだけだ」
そんな、友人同士の怠惰な時間が流れていた、その時だった。
――バギャァァァァァン!!!
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