大いなる正午
希美は未だ信じられない気持ちで一杯だった。
今まで絶対なる天啓や魔物から守ってくれたクレナハーツが、災禍を復活させる為に自分に剣を向けた。その現実が重くのしかかり、世界が真っ暗闇に塗り潰されてしまったかのようだ。
今、希美は自室で先程切り落とされてしまった髪をスティに切り揃えてもらっている。
希美は元来、他人に触れる事も触れられる事も苦手で、それ故に美容院などに行く決心がつかず髪の毛は伸ばしっぱなしになってしまっていた。
無論、今もその苦手意識は克服出来ていないのでこの状況も十分辛いのだが、それを考えていられる余裕はない。それほど、ショックだった。
「……ノッちゃん、大丈夫……じゃないよね」
スティも随分と参っているようで、声にいつもの元気はほとんどない。
あの空気の中で前口上に憧れていたからと言って堂々と名乗ってみせていたが、それは空元気、またはいつも通りの自分を見せる事でいつも通りの日常に戻るかもしれない淡い期待、もしくは自分自身を奮い立たせて仲間と対峙する決意を固める為、だったのかもしれない。
「ハーくんが無理してるの、ホントは、分かってたんだ……」
希美の髪を切り揃えながらスティはぽつぽつと呟く。
「分かってたけど、ボクは何もしなかった。ハーくんなら大丈夫だって、根拠もないのに思ってた。ミーちゃんもらんらんも死んじゃって、一番辛いのは、ハーくんのハズなのにね……」
静かな空気が流れるたびに、しょきり、と髪を切るハサミの無機質な音だけが部屋に響く。
「五人だけじゃ、無謀過ぎだったんだよね……なんで、こんな事になっちゃったのかな……誰を恨めばいいのか、なーんて流石のスティちゃんでも見当がつかないよー」
少しおどけてみせるが、そこにはやはり元気がない。
希美の気が少しでも和らげばと思っていたのか、黙ったままの彼女にスティも思わず口を重くする。
「……旅に出る前にね、四人だけじゃ危ないって言ってくれた人もちゃんと居たんだよ?」
「……? アーニャ、さん、ですか?」
何かスティの言葉に違和感を感じつつも、知っている中で一番言いそうな人の名前を挙げてみた。
やっと言葉を返してくれた希美にスティはぱっと表情と声のトーンを明るくする。
「ぶっぶー、ハッズレー☆ 正解はー……えーっとね……んーと……アレ、誰だったっけ……忘れちった☆」
「え……」
思い出せないと分かった一瞬、スティの表情が困惑と驚愕に彩られた事に希美が気付く事はなかった。
「まあ、誰でもいーじゃん。そ・れ・よ・り・も! 緊急開店スティ美容院のお仕事かんりょーでーすっ! どう? どう? いい仕事してるでしょ?」
大きめの手鏡をスティから手渡され、鏡の向こうできらきらと目を輝かせて希美の感想を待つスティに少しプレッシャーを感じながら、希美は鏡を見る。
伸ばしっぱなしで腰ほどまであった上に乱雑に切られた為ぼさぼさになっていた髪は、肩に毛先がつく程度にまで短くなっており、それだけで随分とさっぱりした感じがする。
ぼさぼさだった毛先も綺麗に揃えられ、そのプロ並みの技に希美は純粋にスティを尊敬した。
だが、一つだけ問題があった。
余裕で顔を隠せるぐらい伸ばしてあった前髪が、目がしっかりと見える位置にまで切られている。
ぼんやりとし過ぎて前髪を切られている事に気付けなかったようだ。
――ど、どうしよう……。
流石に切ってしまったものを元に戻してとは言えないし、元に戻すなど出来ない。精霊術や魔法なら可能性は無きにしも非ずだが、そう易々と使えるものではないとアーニャに散々言われている。
だが、前髪で視界を覆っていない状態で人の顔を見るのも眩しい世界を見るのも耐えられない気がした。
「……ダメ、だった?」
鏡の向こうできらきらと目を輝かせていたスティが次第に表情を曇らせてしゅんと項垂れるのが見えた。
「え、あ、その……だ、だめ、じゃ、ない、です……えと……あ、あり、がとう、ござい、ま、す」
「ホントッ!? よかったー、ではでは、これにてスティ美容院は営業を終了しまーす☆」
本当は全然良くないのだが、ようやく空元気だとしてもいつもの調子を取り戻してきたスティを落ち込ませてはいけないと思い、口から出かかった前髪の事を呑み込んだ。
散髪の後片付けを始めようとした時、扉をコンコンとノックする音がした。
「スティ、居る? ちょっといいかな?」
扉を少し開けて顔だけ出したホロはスティを手招きで呼び寄せた。
スティは申し訳なさそうな表情で希美を見る。
「……あ、掃除、は、私が、して、おきます、ので……」
「ごめんっ! ノッちゃん、お願いっ!」
顔の前で手を合わせてそう言うとスティは部屋を後にした。
一人残された希美は部屋の隅に立てかけてある箒を手に取り床を掃く作業に取り掛かる。
やはり、前髪で遮られていない視界に違和感を感じずにはいられない。
『――ノゾミ、これからどうするの?』
「え?」
ついでに部屋全体の掃き掃除をし始めた希美にベッドの上で寛いでいたカカが訊ねた。
『クレナハーツを、あのままにしてて、ホントにいいの?』
「……!」
クレナハーツの名前に、先程起こった出来事が一瞬の内に頭の中に蘇った。
箒を握る手にぎゅっと力がこもる。
「で、も……私には、何も、出来る事が、ありません、し……スティ、さん、とか、ホロ、さん、とかが、動いてますから……その……」
もし自分に出来る事があるというなら今すぐにでも動きたい。けれど、自分に出来る事などたかが知れている。自分はこうして箒を握って掃き掃除をしているのが一番なのだ。
ホロやスティに任せておけば、きっとクレナハーツは戻ってくる。そう希美は思っていた。
『……このままだと討伐隊が作られて、彼は殺されちゃうよ……?』
カカの言葉で希美の希望的観測は打ち砕かれた。
「え、え? な、なんで……」
『今の彼は、もう勇者じゃない。災禍を復活させて世界を壊そうとしている、魔王になっちゃったの。だから……平和を守るためには、殺さなきゃいけないの』
「そ、んな……」
どうして殺さなければならないのか、災禍が復活しなければそれでいいではないか、そもそも魔王とは魔物の王という意味ではないのか。たくさんの疑問が浮かんだが、どれもこれも今はもう知る意味を成さない。
分かっている事はただ一つ、勇者クレナハーツはもう居ない、という最も受け入れたくない事実。
『ノゾミ、彼は今、ワールドエンドにいるハズだよ』
カカは真っ直ぐに希美を見つめて言った。
ワールドエンド、前に一度だけ聞いた事があったような響きである。確か、ツァラトゥストラ書院でホロが災禍について説明してくれた時に何度か出た単語だ。災禍が封じられている、何も実らず何も住まない不毛の大地。遥か昔の勇者と災禍の激戦の末に荒れ果ててしまった大地。
そこに居るという事は、やはり災禍を復活させようとしている事を意味していた。
――止めなきゃ。
目の前の現実に打ちひしがれている場合ではない。
災禍の復活を、世界が滅ぶのを、勇者でも魔王でも命の恩人である事に変わりはないクレナハーツが殺されるのを、止めなければと希美の心が声を上げた。
ぎゅっと箒を握り締めた希美の目に宿った確かな決意にカカは笑みを浮かべる。
『ワールドエンドまで、わたしが案内してあげる。行こう、ノゾミ』
「――は、はいっ!」
「元気な返事だね☆ でも、こーんな嵐の中を歩いて行くつもりなの?」
「そ、それ、は――」
魔力の障壁で雨音共々遮られており、嵐の事をすっかり忘れていた。しかも慌てて窓から外の景色を見ると嵐は先程までよりも格段に強くなっている事に気付いた。
どうしようかと窓を見つめて、もう一つ気付く。
太陽を遮る厚く重い黒々とした雲で時間帯に似つかわしくない暗さとなっている景色を見せる窓は鏡のように室内の様子を反射させており、そこに映る希美の背後に天井から逆さまにぶら下がっている人の姿があった。
ぎょっとして振り向くと、その人は希美の反応に満足したのかにんまりと笑みを浮かべて軽い身のこなしで回転するように床に着地する。
「ビックリした? ビックリした? ナントカっていう異世界にはね、ニンジャっていう盗賊がいるってホロホロに教えてもらってね、よく天井裏から登場するっぽいからボクもマネしてみたんだ☆」
空元気でも完全にいつもの調子を取り戻してくれたスティだが心臓に悪い事は止めてほしい。
スティが登場した天井を見上げると、一ヶ所だけ天井板が外されていた。
幽霊の類ではなかった事に安堵するも未だ激しく脈動する心臓を押さえるように胸に手を当てた。驚き過ぎてしばらく声が出せそうにない。
「スティ……そのニンジャごっこって、アーニャ経由で苦情がきてなかったっけ?」
「苦情なんてものはスティちゃんの記憶に残らないのだ☆」
「少しは残す努力をしようね?」
「はーい」
扉を開けて入ってきたホロがスティを諌めた。どうやら二人の所用は終わったようだ。
「さて、と。ノゾミちゃん、僕が訊こうとしてる事、分かるよね?」
希美が扉の近くまで持ってきた椅子に座って一息ついた後、ホロが切り出した。
「えと……え、っと……わ、分からない、です」
「……こんな嵐の中、ワールドエンドまで、どうやって行って、何をしようとしたのかな?」
「そ、それは、その……」
希美は言い淀む。
「……ハーくんを、止めに行くつもりなんだよね?」
スティにずばり言い当てられてしまった。
今までの話し振りからして先程のカカとの会話はすべて聞かれていたのだろう。
「ノゾミちゃんは、クレナを止めに行くの? それとも、世界を終わらせに行くの?」
その言葉に、考えないよう避けていた事に直面させられた。
自分は、災禍を復活させる為の生贄だ。
そして、クレナハーツは災禍を復活させようとしている。
さらに、ワールドエンドは災禍が封印されている地。
自分が向かえば、災禍の復活という演目の舞台と役者が揃ってしまうのだ。
もし、クレナハーツを止める事が出来なかったら。もし、話し合いさえする余地が残されていなかったら。もし、自分が死んでしまったら。どれも考える事を先送りにしていたら取り返しのつかない事態になりかねない仮定ばかり。
自分に魔法や精霊術、そんな大それた力でなくとも最低限の身を守る力があれば僅かでも希望はあるのかもしれないが、残念な事に自分は特別な力も何も持たない、この世界では凡人よりも劣るかもしれない非力な人間だ。
分かっていた、自分が向かえば災禍の復活の可能性が、世界が滅ぶ可能性が飛躍的に上がってしまう事を。
「で、も……こ、このまま、だと、クレナ、さん、は、こ、ころされ、る、ん、ですよ、ね?」
「……うん。まだ城内だけだけど、勇者がカルディア国に剣を向けたって噂が広まってるって、アーニャが教えてくれたんだ。噂は消せないけど、これ以上広まらないように、出来る限りの努力はするって言ってくれたよ。あんまり意味はないかもしれないけどね」
ホロは続ける。
「前、ロウロの森で捕まえた絶対なる天啓がクレナを唆したハズだから、軽く問いただしてみようって思ったんだけど……彼、死んじゃってたんだ。あ、隠し持ってた毒薬を飲んだみたいだったから、クレナが殺したわけじゃないよ。安心して、ね?」
希美はやるせなさに俯いた。
自分には彼を助ける事さえ出来ず、彼が殺されるのを黙って見ている事しか出来ないのだろうか。
「そ……っ、それ、でも……それでも、私は……っ」
クレナハーツが今まで自分を助けてくれたように、自分も彼を助けたい。暗い森の中で零れた小さな声に気付いてくれたように、自分も彼の声に気付きたい。
ここまで自分を突き動かす感情や思いが何なのか分からないけれど、立ち止まったままではいけないように思えた。
「……ホロホロ、お願い。ノッちゃんをワールドエンドまで行かせてあげて」
「え……!」
スティから思わぬ後押しを受け、希美は驚き、同時に困惑する。
ホロもまさかスティがお願いするとは思っていなかったのか、いつもの笑顔を少し困らせた。
「スティ、それがどういう意味か、分かってないわけじゃないよね?」
「うん、分かってる。ホントは、ボクたちがハーくんを止めないといけないけど、ホロホロは今の状態じゃ遠出は出来ないし、精霊使いのボクには生き物のいない枯れた環境は毒になる。他に頼めそうなあーにゃんとデューくんには立場があるから出来ない。ワールドエンドに行けるのは、ハーくんを止められるのは、ノッちゃんしかいないよ」
クレナハーツが災禍を復活させようと、世界を滅ぼそうとしている今、一番彼を止めたいと願い行動したいのは、他でもない彼の仲間であるスティとホロだ。けれど二人にはそれぞれワールドエンドへ行けない事情がある。
仲間が道を誤ろうとしているのに、殴ってでも止める事が出来ない現状と自身の非力さを嘆き、歯痒い思いをしているのは二人も同じなのだ。
ホロは諦めたかのように長くわざとらしいため息をついた。
「分かったよ。でも、結構無茶な事だっていうのは忘れないでね? ノゾミちゃん」
ホロが手にしていた杖を振り、杖の先が部屋の中で唯一何も物が置かれていない開けた空間を指すと、バチバチッという音を伴ってその空間に青白い光を帯びた一筋の線が垂直に走った。
線は左右に大きく裂けていき、その中には色味が著しく欠けた荒野が広がっている。
この荒野が、ワールドエンド。何も実らない、何も住まない不毛の大地。災禍が封印されている地。クレナハーツが居る場所。
いざとなると足や手がみっともなく震え出した。
ワールドエンドが大口を開けて、災禍の生贄がその地へ訪れる瞬間を待っている。
『大丈夫だよ、ノゾミ。わたしも一緒に行くから』
カカが希美の足にすり寄り、長く白いふさふさの尻尾で彼女の足を撫でた。
「ノゾミちゃん、はい、これ」
そう言ってホロが懐から取り出して希美へ差し出したのは、何の装飾もない至って普通の鞘に納められた、これまた特筆すべき特徴のない至って普通の短剣だった。
とりあえず受け取るとずしりとした確かな重さがあり本物である事が分かる。
「前、ノゾミちゃんが採ってきてくれた薬草の中に混じってた毒草を使ってね、この短剣にいくつかの呪術を付けてみたんだ」
ホロはいつも通りの笑みを浮かべて言う。
「本当は魔物とか天啓とかとの護身用に、って思って作ったんだけど、丁度良かったね。危ないと思ったらこれで自分の身を守るんだよ?」
それはつまり、災禍の復活を阻止する為にこの剣でクレナハーツを殺せという事だと瞬時に悟り、希美は顔をさっと青くして受け取った短剣を凝視した。
本当ならホロの顔を見て冗談なのか本気なのか確認したかったが、いつもほどよく遮ってくれていた前髪が無い今では人の顔を見るなどとても出来ない。それに、きっとホロはいつも通りの笑みを浮かべているだけだ。この時ほど、ホロという人物に恐怖を抱いた事はない。
短剣を突き返す事が出来ず、希美は短剣を震える手でぎゅっと握り締めて、使わなくて済みますようにと心の中で祈りながら懐に仕舞う。
「ノッちゃん……絶対、ぜっっったいに帰ってきてね」
スティの言葉に頷いて、希美はワールドエンドへ繋がる裂け目に向き直る。
一つ、二つと深呼吸をして、意を決してワールドエンドへと一歩、足を踏み入れた。




