「もう終わりにしよう」と闇が囁いた
空を重々しい灰色の雲が覆い、降り注ぐ雨が激しく地面を叩いている。
時が経つにつれて勢いを増す風と雨がこの世のものとは思えない咆哮を轟かせ、何か恐ろしいものが近付いてきているような言い知れぬ不安が襲う。
庭に面する廊下を通る際、透明な隔壁越しに見た風景は荒れに荒れており、あの池も張られていた水が風に巻き上げられ舞い散り、嵐が過ぎた後には干からびてしまっているのではないだろうか。
嵐の起こす轟音に怯えながら、魔力の隔壁で外界と隔離され普段よりも静かな薄暗い廊下を希美はカカと共に少しだけ早足で歩いていた。
両手でカゴを抱え、その中には魔道兵団にお願いして乾かしてもらった洗濯物が一杯に詰め込まれている。
仮にも騎士団と肩を並べる実力者に室内干しの洗濯物を乾かしてもらうなどおこがましいにもほどがあると希美は思ったのだが、今までに何度もあった事らしく二つ返事で快諾された。
三十分と掛からずに乾いた洗濯物を感嘆の眼差しで見つめた希美に、担当した魔道兵団員は「もっと速く乾かせなくはないんすけど、ヘタしたら燃えちゃうっすからねー」と冗談っぽく言った。
魔力の隔壁に洗濯物の乾燥に、こういった自然災害の時にはどうやら魔道兵団の方に分があるらしい。
異世界人の希美には魔法を特別な力と考えてしまいがちだが、この世界にとっては割と身近なありふれた力で、こう例えるとあまりよろしくないが生活便利術みたいなものなのだろう。
――魔法が使えたら、私でも役に立てるようになるのかな……。
そう考えずにはいられないけれど、魔法が使えるようになっても上手く扱えるかと問われれば答えは否で、自分の起こすドジの規模が大きくなってしまうだけのようにも思える。魔道兵団員が冗談っぽく言った言葉は、希美の場合きっと冗談では済まない。
そう断言出来てしまう事に荒れ模様の天気も相まって内心落ち込でいると、前方から見知った金髪の青年、クレナハーツが歩いてきた。
そういえばあの池のある庭に面する廊下はよく彼が通っている事を今更ながら思い出した。
クレナハーツも希美に気が付いたのか立ち止まる。
どこかいつもと違う雰囲気を不思議に思いながら希美は少し歩く速度を落として、視界を覆うように下ろした前髪越しにおそるおそるクレナハーツの様子を窺ってみると、衣服や髪が濡れている事に気付き慌てて駆け寄った。
「く、クレナ、さん! か、かぜ、カゼ、引いちゃい、ます!」
愛用の剣を腰に提げている事からこの嵐の中、外へ出掛けていたのかもしれない。
希美は抱えていたカゴからタオルを取り出し、拭いてあげようと思ったがタオル越しとはいえ人に触れる事に躊躇いを覚えてしまい、とりあえず使ってもいいという意思表示のつもりで彼にタオルを押し付けた。
『ちょ、ちょっとノゾミ、それ乾かしてもらったばっかりじゃん! 怒られちゃうよ!』
「あ、う、えと……こ、転んで、庭に、落とした、って言います、から」
結局怒られてしまいそうな言い訳しか思いつかなかったが、自分のミスで怒られるのには不本意ながら慣れているので平気だ。
クレナハーツはしばらく呆然と押し付けられているタオルを見つめた。
「……なんで、オマエって間が悪いんだろうな……」
ぼそりと呟いた言葉はカカと話している希美には聞こえていない。
クレナハーツはゆっくりと片手を持ち上げるとタオルを押し付けている希美の手首を掴んだ。
予想外の事に希美はびっくりして彼の方を見る。
「クレナ、さん?」
ぎりぎりと力強く掴まれた手首が痛む。
「……なぁ、ノゾミ」
クレナハーツが言う。
「オマエを殺せば、災禍が復活するんだよな」
彼の言葉がしばらく理解出来なかった。
「…………え?」
災禍が復活すると言われても、確かに自分は災禍復活の為の生贄だと絶対なる天啓に言われているが、それを改めて自分に問われても、自分自身に災禍を復活させるなどという自覚などない。
ならばその言葉は自分に問うているわけではなく、彼自身への確認の為の言葉なのだろうか。
希美は頭では随分と回りくどく考えてしまっているが、第六感とでもいうのか心臓が警鐘を鳴らすかのように早く脈打ちうるさいぐらいに音を立てる。
手を離してもらおうと腕を引こうとするがびくともしない。
「あ、の……くれな、さ、ん……」
声が震える。怖くて彼の顔を見れない。
彼の言葉はとっくに理解した。けれど理解したくなかった。きっと間違いだと思いたかった。間違いであってほしかった。
彼が腰に提げた剣の柄を握り締め、剣と鞘の擦れる音を立てながら抜き、振り上げる。
やけにスローモーションに見える一連の動き。希美はずっと何かの間違いだと警鐘を鳴らす心臓に言い聞かせ続ける。
「どうせ死んでんだろ? なら、もう一回死んだって同じじゃねぇか。だから――死んでくれよ」
剣が振り下ろされるのが分かった。それでも希美はこれは夢だと嘘だと自分に言い聞かせた。
ガキンッ、と金属同士のぶつかる音が響き、クレナハーツが希美へ向けて振り下ろした剣を、緩やかな弧を描く刀身が特徴のサーベルのような小振りの剣が阻む。
その剣を持つのはキャスケット帽を被から透き通った青色の髪を覗かせた少年、スティだ。
スティはクレナハーツの剣を細い腕で受け止めたまま、片方の手で腰に提げたもう一振りのサーベルを鞘ごと抜き取り、希美の手首を掴んでいる腕目掛けて思い切り振り下ろした。
「ッ!」
「ノッちゃん、こっち!」
痛みにひるんだ隙に剣を弾き、希美の腕を掴んでクレナハーツから引き離そうと引っ張る。
けれどクレナハーツはそれを阻もうと希美の長い髪を掴んだ。
スティはそれに素早く反応して抜き身のサーベルで彼女の髪を切り落とし、そのサーベルの切っ先をクレナハーツへ向けたまま希美を背に庇うようにして立った。
しばらく無言の睨み合いが続き、スティが意を決して口を開く。
「右に携えし刃で悪を断ち、左に携えし刃で善を守り、二つの刃で正義を貫く! 美少女盗賊☆スティちゃん、ここに推参!!」
別の意味の沈黙がおりた。スティだけが満足げな笑顔を浮かべている。
「うーんっ! これだよこれ、ボクが言いたかったのは! えーっと、ま……まえこうじょう、っていうんだっけ? どこかの異世界で戦いの前に名乗るっていうアレ! ずーっと、憧れてたんだー。ついにスティちゃんの夢は叶ったり!!」
「……オマエ、ふざけてんのか?」
「ふざけてるのはキミの方でしょ、クレナハーツ」
普段のテンション高めで明るい声から数段低い声で言い、笑顔を消してクレナハーツを睨みつける。
「ハーくんが今、なにをしたのか、なにをしているのか、分かってる? 何の罪もないノッちゃんを殺して、ハーくんは災禍を復活させて……それって、ボクたちが倒した魔王と同じ存在になるって事だよね!? それじゃあ、ボクたちは何のために――」
「分かってる」
クレナハーツは強く剣の柄を握り直して構えた。切っ先は、かつて仲間として魔王討伐の旅を共にした盗賊の少年に向いている。
「分かったんだ、こんな世界、救ったのが間違いだった、魔王なんて倒したのが間違いだったんだ」
「ハーくん……っ」
スティはサーベルを握り締める。その手は微かに震えていた。
「邪魔するんなら……スティ、オマエも殺すっ!」
「甘いよ〜、クレナ」
クレナハーツが剣を手に一歩踏み込もうとした時、少し間延びした優しげな声がした。
瞬間、クレナハーツの居る一帯が黒いペンキをぶちまけたかのように一瞬にして黒に染まり、そこから無数の黒い刀身が床や天井や壁から勢いよく突き出て、身動きできないよう彼の身体の隙間を縫って滅茶苦茶に咲き乱れた。
直接刺されていはいないが、少しでも動けば怪我をしかねない、剣の檻。
クレナハーツの背後からカツンと杖が床を叩く音が聞こえた。振り返る事は出来そうにないが、その杖の主もこの魔法の主もすぐに見当がついていた。
「……ホロ、か」
「うん。スティだけだと思って油断したかな? それとも、僕が着く前に全部終わらせるつもりだったのかな?」
ホロはこの状況下でもいつもと変わらぬ笑みを浮かべている。
クレナハーツはこの剣の檻から抜け出せないか試しに利き腕ではない左腕を動かしてみたが、剣に触れた瞬間痛みが走り、切れてぱっくりと開いた傷から血が垂れ、ホロの相変わらず情け容赦のない魔法に思わず舌打ちをした。
「大人しくしてないと、怪我するよ? あ、怪我っていっても腕とか足とかを切り落としちゃうだけだから、ね」
ホロの遅すぎる忠告に物騒すぎる微妙なフォロー。
勝てる見込みがない事を悟ったのか、クレナハーツはもがくのを止める。
しかし次の瞬間、クレナハーツは剣の切っ先を床へ向けて腕が切り裂かれ血飛沫が飛び散るのも気にせず振り下ろした。
キンッ、と剣が床を叩いた音が響いたと同時にそこから魔法陣が花開くように展開する。
「じゃあな」
それだけ言うと、クレナハーツは魔法陣から溢れ出す光に包まれ溶けるようにその場から姿を消した。
「転移魔法か……逃げられちゃったね」
やれやれと言いたげに首を横に振ると、スティと希美の元へ歩き出した。
杖がカツンと音を立てたと同時に咲き乱れていた黒い剣は霧散し、黒く染まっていた一帯もすぅっと元の色へと戻っていく。
そうして、ようやく現実に引き戻されたような気がした希美はその場にへたり込んだ。
「ノッちゃん、大丈夫?」
すぐにスティが気付き、しゃがんで彼女の背中をさする。
あまりにも目まぐるしく変わる状況についていけず、どこか他人事のように呆然と見ている事しか出来なかった。
心は未だに現状の理解を拒んでいた、これは悪い夢なのだと叫んでいた。
けれど、クレナハーツに掴まれた手首の痛みがそれを夢ではなく現実だと告げている。
「スティ、僕はちょっと地下牢に行ってくるよ。天啓の一人がそこに居るはずだから、軽く問いただしてみるね」
「ならボクが行くよ!」
「スティはノゾミちゃんと一緒に居てあげて。僕なら大丈夫だよ。平和的に殺さない程度に話し合ってみるだけだから、ね?」
「……うん、分かった」
相変わらずの微妙なフォローに安心など出来ないが、ホロの浮かべているいつも通りだと思っていた笑みが目だけ笑っていない事に気付き渋々引き下がった。
「ノッちゃん……ごめんね、髪の毛……」
すまなさそうにスティに言われて希美はやっと髪の毛が切られていた事を思い出した。
そっと自分の髪に触れてみると、伸ばしっぱなしにして腰につくかつかない程あった髪の大半は肩甲骨辺りまでばっさりとなくなっている。
「髪、切り揃えるから、ノッちゃんの部屋にでも行こ?」
スティに支えられてようやく希美は立ち上がり、混乱する頭のままスティに付いて歩いていった。
嵐は、より一層その激しさを増していた。




