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嵐の前には、紅茶があった

すべてを変えることになるその日は、いつものように穏やかで、何事もない日常から始まった。

ヘッドフォード侯爵邸は、いつも草花と薬草の香りに包まれていた。

とりわけ、セージとラベンダー、そして紅茶が織りなす調和のとれた香りが漂っている。もっとも、この紅茶に特別な意味があるわけではなく、あくまで料理の一部に過ぎなかった。


侯爵自身は魔術の素養を持たない貴族の一人だったが、村の由緒正しい魔女の家系に生まれた女性と結婚したことは、非常に賢明な選択だった。

そして、その彼女に恋をしたことは、いわば思いがけない幸運に過ぎない。


そのため、侯爵が領地や王国の会議、そして屋敷の会計業務に追われている間、妻は家の大半を自分と子どもたちのための温かな居場所へと変えていた。


リヴァイとルイス。

後者は生まれつきの愛嬌を持つ少年であり、十歳の前者はどちらかといえば物静かな性格だった。

しかし、二人とも母やその一族の行うことすべてに強い好奇心を抱いていた。まるで物語の登場人物が家にいるかのようだった。


その日の午後、屋敷はいつも以上に紅茶の香りに満ちていた。家族で紅茶を楽しむ時間だったからだ。

だが、この少し風変わりな一家はその習慣に従いつつも、二人の少年をベアトリス夫人の書斎へと向かわせた。


高い椅子に腰掛け、小さな足を宙にぶらつかせながら、リヴァイは頬杖をついて母の様子を眺めていた。

大理石のカウンター越しに、本棚の間を行き来するその姿を目で追う。


「母さん、本が多すぎない?」


静寂を破るように彼は問いかけた。

左腕に三冊の本を抱え、右手でさらに探し続ける母の様子から、何かを企んでいるのは明らかだった。


「うえっ、この紅茶、苦すぎない!?」


カウンターの向こう側から、露骨な不満の声が上がる。

弟のルイスが舌を出して抗議していた。


「お前、いつもそれ言ってるだろ」


リヴァイが呆れたように返す。


「だって、いつもまずいんだもん!」


言い返した直後、


「いてっ!」


ルイスの頭に本が落ちた。


リヴァイが言い返そうとしたそのとき、ぼんやりしていた母がふと我に返る。


「食べ物に文句を言うんじゃありません。世の中には、この紅茶一杯すら飲めない人もいるのよ」


「でも僕が飲んだって、その人たちがお腹いっぱいになるわけじゃないでしょ?」


再び、本が落ちる。

リヴァイは思わず笑ってしまった。


午後はいつもこんな調子だった。

次男の気楽さのままに振る舞うルイスと、それを正そうとする母。もっとも、うまくいかないことは本人も分かっているのだが。


「いい加減にしなさい!」


「……ごめんなさい、母さん」


リヴァイは本の山を見ながら言った。


「今日は何か特別なことをするの?」


ルイスの頭に落ちた分も含め、ベアトリスは八冊の本をカウンターに積み上げた。


「ええ、今日は特別な日よ」


穏やかな微笑みとともに、彼女ははっきりと言い切る。


ベアトリスは魔女の家系に生まれ、魔術の研究と、時折王への助言を行う役目を担っていた。

しかし侯爵夫人としての生活は、彼女を頭の先からつま先まで気品ある貴婦人へと変えていた。


短い袖の銀色のドレスをまとい、同じく銀の髪を一つにまとめたその姿は凛としており、

彼女は期待に満ちた眼差しで二人の息子を見つめていた。


リヴァイは細かな仕草の一つ一つを見逃すまいと集中している。

一方のルイスはといえば、紅茶と本の色に気を取られ、どこまで話を聞いているのか分からない。


「あなたたちに魔術の基礎を教え始めて、ちょうど二ヶ月になるわね。

マナの性質や元素の種類と適性、それにこの王国やレイヴン家における魔術の歴史についても学んできたわ」


「でも僕、全然魔法使えないじゃん。つまんない!」


ルイスがまた不満を漏らす。


「ほんと今日はめんどくさいな、お前……」


リヴァイが呆れたようにため息をつく。


「だってさ、母さん。魔法使えないのに勉強してどうするの?

リヴァイだけ教えればいいじゃん。どうせ跡継ぎは兄さんなんだし」


「これは家の伝統なのよ。母の家のこと、知りたくないの?」


ベアトリスは戸惑いながら両手を上げる。

ルイスを見るその表情には、わずかな寂しさが滲んでいた。


「よく聞きなさい、ルイス。たとえ将来、軍に入るにしても、聖職に就くにしても、こういう知識は必ず役に立つの」


いかにも次男に用意された道を口にされ、ルイスは目を細めて不満げに睨む。

リヴァイには、弟が心の中で悪態をついているのが分かる気がした。


「……物知り顔」


小さく呟くその声が、場の静けさを破る。


「リヴァイの言う通りよ。知識はいくらあっても損はないし、実践も同じ。

だから今日は、新しいことを学ぶわ」


そう言って、ベアトリスは右手を二人の目の高さまで差し出した。


開いた掌から、淡くきらめく光が生まれる。

小さな光の粒が次々と現れては重なり合い、ほんの一瞬で、完全な光の球体が彼女の手の中に浮かび上がった。


「これは“マナを球状に集中させる”基本技術よ。

目に見える形で魔力を集める、最も一般的な方法で、属性によって見え方が変わるの」


「すごい!母さん、かっこいい!」


ルイスはようやく興味を示す。

リヴァイはというと、その光の球をまるで解析するかのように見つめていた。


「それって生体光子ですか?どうやってそんな精密に集中させてるんです?電磁場みたいに制御してるんですか?」


突然の言葉に、ルイスもベアトリスも固まる。


ルイスは顔をしかめ、ベアトリスは一瞬ぽかんとした後、思わず笑い出した。


「リヴァイ、それは科学の話でしょう?これは魔術よ。もっと……直感的なものなの」


今度はリヴァイの方が戸惑う番だった。


「考えるだけで、光が出てくるってことですか?」


「レイヴン家の血を引いていればね。私たちは“光”の担い手だから。

でも、炎かもしれないし、他の属性かもしれないわ」


肩をすくめながら、ベアトリスは窓際へと歩み寄る。

バルコニーへ続く三つの窓の前で腕を広げ、二人を招いた。


「さあ、やってみましょう」


その声に促され、二人は椅子から立ち上がる。

もはやこれは紅茶の時間ではなかった。


本棚を背にして並び立つ。

窓の上に吊るされたラベンダーとセージの香りが、より濃く漂っていた。


「まずは呼吸。自分の中の調和を感じて。魔力はあなたたちの中にあるのだから」


ルイスが茶々を入れる。


「“リヴァイから”って言いたいんでしょ?」


母に睨まれつつも笑い、手元に視線を戻す。


「とにかく、呼び出してみなさい」


ベアトリスが締めくくる。


リヴァイは右手を見つめる。

まるで、そこから何かが現れなければすべてが終わるかのように。


同年代の子どもたちの中でも、リヴァイの集中力は群を抜いていた。

生まれつきの好奇心に突き動かされるように、新しい知識を得るたび、彼の内には高揚感が駆け巡る。


まるで、何かを探し続けているかのようだった。

それが何なのかは分からないまま、無数の知識を追い求め、いつか満たされるその瞬間を待っているかのように。


一方でルイスは、どこにでもいる普通の子どもだった。

魔法が使えるかどうかなど大した問題ではない。

本を読み、ぬいぐるみで遊び、好きなときに昼寝をする。


それが次男というものだった。


しかし、その瞬間だけは違った。

ルイスはじっと兄を見つめていた。


「ほら、出てこいよ」


リヴァイは焦れたように呟く。


「焦らないで。呼吸して、流れに任せなさい」


ベアトリスが静かに諭す。


ルイスも自分の手を見つめるが、何も起こらない。


「やっぱり僕は、兵士か聖職者になるしかないのかな」


「十二歳くらいで目覚める人もいるわ。まだ時間はあるわよ」


ベアトリスは優しく言う。

だがルイスは特に落ち込んではいなかった。むしろ、兄の様子のほうがよほど気になっていた。


静寂が支配する中、リヴァイの手からは微かな火花が散っていた。


「石と石を打ち合わせたみたいだね」


ルイスが興味深そうに言う。


「そんなのじゃない。俺は……光を、ちゃんと出したいんだ」


リヴァイは強く言い放つ。


ベアトリスはその様子を見つめながら、わずかに口元を緩めた。


「どうやら、レイヴンの“光”を受け継いでいるようね」


そう口にしたその時だった。


遠くから、低く重い音が響く。


ベアトリスはふと振り返る。


頬を撫でるのは、穏やかな夏の風。

だが、その季節には似つかわしくない光景が、彼女の視界に飛び込んできた。


屋敷の森の奥、五百メートルほど先。

松林の中で、雷が二筋、閃いた。


「……雷?」


思わず声が漏れる。


「こんな時期に?雨も降っていないのに……?」


理性が状況を理解しようとする。

しかし、その思考が結論に辿り着くよりも早く、異変は加速していった。


雷の頻度は、冬の嵐すら凌ぐ勢いで増していく。


わずか数秒のうちに、屋敷の門の上にある金色の鳥像へと、雷が直撃した。


「……嵐が来るわ」


戸惑いを含んだ声が、やがて雷鳴にかき消される。


次の瞬間、晴れていたはずの空は、一瞬にして灰色へと変わった。


ベアトリスは慌てて窓を閉める。


振り返ると、二人はまだ同じ場所に立っていた。

ルイスは雷に見入っている。

リヴァイは変わらず、手を開いては閉じ、火花を散らし続けていた。


「二人とも、嵐が近づいているよ。塔から降りて、安全な場所に行きましょう」


ベアトリスはルイスの手を取る。

ルイスは素直にそれを握り返すが、視線は窓の外に釘付けだった。


「あと一回だけ!絶対できる!」


リヴァイは叫ぶ。


その執念は異様だった。


夜明けから眠るまで、彼は本を読み続ける。

特に科学書に没頭し、あらゆる知識を吸収してきた。


十四歳になる頃には、この屋敷の蔵書をすべて読み終えるだろうと、ベアトリスは夫と賭けをしたほどだった。


だが今、この瞬間ほど、彼が何かに取り憑かれたようになることはなかった。


「また今度にしましょう」


そう言って振り向いた、その時――


ベアトリスの視界に、何かが映る。


ほんの一瞬だった。


もし考える時間があれば、もし一瞬でも早く気づけていれば。

そう思わずにはいられない光景。


だが、すべては一瞬で起こる。


何もかもが、あまりにも突然に。

次の瞬間、ベアトリスの視界に映ったのは――


リヴァイの瞳だった。


その目は、火花を散らしていた。

淡い青の瞳の奥で、光が弾けるように揺らめいている。


「やるんだ……!」


リヴァイは叫ぶ。


「リヴァイ、やめなさい!!」


ベアトリスは全身を震わせながら叫んだ。

その声には、母としての本能的な恐怖が滲んでいた。


だが――間に合わない。


彼女が手を伸ばすよりも早く、甲高い音が部屋中に響き渡る。


それは、これまで見ていた“火花”とはまるで別物だった。


光が、弾ける。


いや、それはもはや光ではない。


雷だった。


屋敷の外で荒れ狂っていたはずの雷が、今や少年の手から放たれていた。

幾度も繰り返された試行と蓄積の果てに、その力は臨界を超えたのだ。


天から落ちていたはずの雷が、今度はリヴァイ自身を起点として解き放たれる。


リヴァイは目を見開く。


視界が変わる。

これまでのように“見る”ことができない。


代わりに――雷が、見える。


無数の光の線が、踊るように空間を駆け巡っていた。

まるで狂気じみた舞踏のように。


少年の身体は、もはやただの器ではなかった。


圧倒的な光と雷を宿す、媒介そのもの。


全身から放たれるエネルギーが、空間を震わせる。

轟音とともに、彼の手から放たれた雷は塔の円錐屋根を貫いた。


穿たれたその穴から、さらなる雷が内部へと流れ込む。


内と外の境界が崩壊する。


空からの雷と、少年から生まれる雷が、互いに呼応するように交錯していた。


どこから始まったのか、もはや判別はつかない。

だが一つだけ確かなことがある。


――すべての引き金は、彼だった。


「リヴァイイイイ!!」


ベアトリスの叫びは、雷鳴にかき消される。


彼女にとってリヴァイは守るべき息子。

だがその隣には、恐怖に震えるルイスもいる。


守らなければならない。


その一心で、彼女は咄嗟に魔術を発動した。


三つの光の球体が瞬時に展開される。

リヴァイ、ルイス、そして自分自身を包み込む防護結界。


――それが、最悪の選択だった。


雷とは何か。


それは、光の極致に他ならない。


結界は守るはずのものではなく、増幅の触媒となった。

すでに臨界を超えていた力に、さらに燃料を注ぐ結果となる。


次の瞬間――


すべてが、爆ぜた。


世界が揺らぐ。


わずか三秒。

だがそれは、永遠にも等しい時間だった。


その瞬間は、決して消えることはない。

雷鳴とともに、彼らの記憶に刻み込まれ続ける。

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