ユキの精神世界へ
意識がふわりと宙を漂いはじめ、次の瞬間には深い暗闇の海へと落ちていた。
重力も時間も、すべての感覚が溶け出し、己という輪郭すら曖昧になる。
目も耳も閉ざされた世界で、ただ“存在”だけが淡く輝き、過去の記憶や未来の予感が渦巻く。
誰かの声、遠い鼓動、そして自分の鼓動──すべてがいくつもの層となって重なり合い、どこからが現実なのか判別できない。
「コタロー!」
聞き覚えのある声が聞こえた。ファーだ。
声のする方へ進もうとする。上はどっちだ?地面は?前に進むとは?足?足ってどれだ?思考がどんどん崩れていく。形ある感覚がばらばらに溶け出し、頭の中が混乱でいっぱいになる。そうだ、ここは実際ではない、存在しているようで、実在しない。そもそも「形」など、最初から与えられていないのだ。だから、自分で、自分の“形”を作らなければならない。
無理に進もうとするのをやめて、意識を内側へ沈める。目を閉じた……つもりで。実際には、すでに真っ暗なので、目を開けているのか閉じているのかも判然としない。というより、そもそも“目”なんてあるのか? 自分に備わっているのか?閉じたと、そう「感じている」だけかもしれない。
自分の姿を思い描こうとする。けれど――どんな顔だった? 髪の色は? 声は?今になって、いかに自分に無関心だったかを思い知らされる。悔しさがじわりと胸の奥に滲む。焦れば焦るほど、イメージはぼやけ、つかんだはずの輪郭が指の間からこぼれ落ちていく。それでも、少しずつ、少しずつ記憶をなぞるように、自分という存在の“かたち”を塗り直していく。
目を……開けたような気がした。はじめは何も見えなかったが、やがてふわりと浮かぶ、指先の影。それは確かに、見慣れた“自分の手”だった。けれど、どこか不確かで、触れれば崩れそうな透明な線。足もあるし、動くが、感覚はまだおぼつかない。まるで借り物の体のようにぎこちない。それでも、ようやく、前に進めるかもしれない。いや、進まなければならない。
「ファー!どこだ?」
大きな声で呼びかけてみると、遠くで声が聞こえた。上も下もわからないけど声のする方へ必死に走る。
「コタロー!良かった!」
ファーは人間の形ではなく動物の姿で、そのまま僕の肩に乗ってきた。この姿の方が想像しやすかったのだろう。
「ユキ、向こう、気配、感じる、ちょっとだけ。」
ファーの話し方は片言になっていた。それだけ余裕がないということがわかる。ファーを肩に乗せたまま、指示通りの方向へ進んでいく。
ずっと、果てしない闇の中にいた。どこに向かっているのかも、自分が本当に動いているのかさえもわからない。けれど、どこからともなく「悲しい」「寂しい」「助けて」――そんな切実な想いが、声にならない声として胸に流れ込んできた。それが誰の感情かもわからなかったけれど、どうしてだろう。気づけば僕は、ただひたすら走っていた。その感情に手を伸ばすように。闇の先に、何かがあると信じたくて。
そして、見えた。遥か遠くに、たったひとつだけ、微かな光が灯っていた。それは星にも似ていたし、夜風に揺れるマッチの火のようでもあった。今にも消えてしまいそうなほど儚くて、それでも確かにそこにある温かさに、僕の足は自然とその光へと向かっていた。
「ユキ!」
そう叫ぶと、真っ暗だった足元に地面が見えた。たちまち見たことのある風景が現れる。ここはユキがこっそり遊んでいた立ち入り禁止区域の海岸だ。
消えないようにそっと小さな光に近づく。これが消えかけていたユキの意識だということはすぐにわかった。
「ユキ」
優しく声を掛ける。触れようとしたその瞬間、目の前に、突如として巨大な鉄の壁が出現した。無機質な金属の塊は、果てしなく左右へと伸び、僕とあのかすかな光を完全に断ち切る。咄嗟に数歩後退し、壁の源を探ろうとするが、どこにも手がかりは見当たらない。まるで、この空間そのものが敵意に満ちているかのようだ。その時、空が焼けた。轟音とともに、灼熱の火球が天から降り注ぐ。水の魔法で対応しようとするが魔法が出ない。ここは敵の意識の中。僕らの常識など、何ひとつ通用しない領域だ。体さえ自由に動かせない中、僕たちは必死に火の海を駆け抜ける。
次に放たれたのは、白く閃く光の爆発。視界が焼かれ、感覚が揺らぐ。足元からは氷の刃が次々と突き出し、着地した場所は一瞬で流砂に変わる。怒涛の攻撃が続き、空を覆うほどの鉄の矢が降ってきた時はさすがにもうだめだと思った。ところが、無数の鉄の矢は、僕たちをかすめるだけで一本たりとも命中しなかった。この攻撃で僕は違和感を覚えた。ここは敵が支配する意識の世界。完全に相手の土俵だ。僕たちの動きを止めれば確実に殺すことができる。実際、あの火球も、氷の刃も、明らかに“殺すため”の攻撃だった。それなのに、なぜか僕たちは逃げきれている。明らかに殺す意図を持って攻撃してきているのに、そのどれもが僕たちに致命傷を与えていない。寸前でかわしているというより、最初から当たらないように設計されているようにすら思える。
これは偶然ではない。きっと――ユキの意識が、僕たちをこの中に招き入れたんだ。
そして今も、攻撃から守ってくれている。消えかけたあの灯が、ここでまだ抗い続けている証拠だ。
この精神の深層で、ユキはザクスと戦っている。だから僕たちもここにいられる。ユキが最後の力を振り絞って、助けを求めてくれている。それに応えるために、僕たちはここにいるんだ。
(ユキ……)
僕たちも逃げてばかりではいられない、そう思った瞬間ファーが人間の形になった。
「コタロー、行けるよ!」
僕は目を瞑り、みんなとともに戦って作り上げた武器を思い描く。右手に覚えのある感触。ゆっくり目を開けると僕は叫んだ。
「シャイニングアロー」
空から降り注ぐ無数の隕石に、僕の放った光の矢が突き刺さる。爆発と同時にまばゆい閃光が闇を裂き、黒い空が一瞬だけ昼のように照らされた。いつもの武器、魔法が使える。火球、雷、暴風、洪水……ユキの放つ攻撃は、属性も強度も限界を知らない。だが、僕とファーは即座に対応できた。それぞれの魔法を撃ち落とし、迎え撃ち、押し返す。身体が自然に動いていた。まるで、これまで積み重ねてきた戦いがそのまま反応してくれているように。攻撃は防げる。けれど、敵の攻撃を防ぐだけで、攻撃ができない。攻撃対象が見つからないのだ。何に向かって矢を放てばいい? どこに魔法を撃ち込めばいい?
とにかくあの灯を守らなくてはいけないことはわかっているのに、鉄の壁に阻まれ様子が見えない。灯があまりに弱弱しかったので、壁を破壊してしまったら勢いで消えてしまわないか不安だった。どうしたら良いか考えているうちに、一つの考えに辿り着いた。そもそも、攻撃対象がこの精神世界にいると思っているのが間違いなのだろうか。これはいわゆる防衛装置みたいなもので、侵入者を自動排除しようとしているだけなのではないか?そうだとしたら、一体どうやってユキの精神を守って、ザクスの魂を追い出すことができるのだろうか。答えが見つからないまま、僕はただただ攻撃を防ぐことしかできないでいた。
もう嫌だ。仲間が死ぬ姿は見たくない。悲しい。寂しい。だれもわかってくれない。
また目の前で仲間が刺された。血が……血がたくさん流れていた。シュウも死んじゃうの?もう無理だ。限界だ。
もう見たくない。
見せないで。
もう世界なんてどうでもいい。
誰か私をもう消して……。
自分の意識が徐々に無くなっていくことに気付き、このまま小さく縮んで消えてしまおうと思った。それなのに私の中にコタローの意識が入ってきた。拒否すればもう全部終わらせられた。世界も、仲間も、自分も、繰り返される過去も……。でも追い出せなかった。諦めずに自分の中に入ってきたことに喜びを感じた。私は、まだ希望を持っているのだろうか。全員が生き残り、世界が滅びない未来を、まだ期待しているのだろうか。私の中の膨大な魔力が放出されたのを感じた。私の体はザクスに乗っ取られ、今この瞬間も、仲間は暴走した私を必死に止めているのだろう。そして、コタローは無事に帰れるかわからないのに私の意識の中に入って来た。みんなの努力を無駄にしたくない。私だけ諦めて良いわけがないのはわかっている。でも、もう疲れたんだ。疲れて諦めたとしてもみんなは私を許してくれるだろうか。ここまで一人で頑張ってきたんだ。優しいみんなは「よくやった」って褒めてくれるよね。このまま私の意識が乗っ取られ、私の姿をしたザクスが世界を破滅させようとしても、みんなが食い止めてくれるはず。だから、みんな、あとは頼んだよ……。
小さな灯はより小さくなり、消えようとしていた。
「ユキのことは死なせないし、ザクスの思うようにもさせない。」
コタローが作戦で行った言葉が頭をよぎる。コタローは私が死んだらまたリバースで戻るのだろうか。私と同じように何度も繰り返して、仲間が死ぬのも何度も体験して、それでも諦めずにここまで進んできた。このまま私が消えていいわけがない。こうやってまだ思い出したり、考えたりすることができるのだから、完全に意識が乗っ取られた訳じゃない。私にだってまだやれることがあるはず。私を、世界を守ろうとするコタローを、仲間を、私も守りたい。そう思ったら、ザクスの攻撃を少しずつ邪魔することができた。自分の意識の中でコタローの魔力を感じると、楽しい思い出がよみがえって懐かしい感じがした。もっとみんなと一緒にいたい。死ぬ姿は見たくない。ここで諦めたらみんな終わりだ。まだ、まだ頑張れる!
小さな光は少しずつ明るさを取り戻す。
「ねえ、どうしてタノシそうにしているの?」
急に声が聞こえた。横を見ると黒い姿の何かがいた。それは小さくしゃがみこんでいて、こちらを覗き込んでいるように見える。小さいその姿はまるで鏡に映った自分のように見えた。顔も黒くて表情までわからない。
「ねエ、キミはいっしょデしょ?カナしくて、サミしくて、こんなセカイどうでもイイよね?」
黒い姿の何かは、続けて話しかけてくる。耳障りな声が心の中を抉ってくるようで非常に不快な声だった。
「どうでもいい訳ない!」
私は大きな声で反論した。黒いそれは首を傾げ不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
「ダッテ、ツカれたカオしてル。モウ生きテいたくナイっておもッテル」
一瞬自分が諦めかけたことを思い出す。すると、その思いを察したのか、黒いそれはボコボコと大きく膨れ上がり、覆いかぶさるようにして私を潰してくる。
「ボクト、イッショ。カナシイ。サミシイ。」
「違う!お前なんかと一緒じゃない!諦めてなんかいない!私は……私は……。」
「もうイヤなんデしょ?おわりにしたいんデしょ?」
必死にもがくが、黒いそれは粘り気のある液体のような形になって纏わりついてくる。楽しかった記憶、みんなと生きたい希望、すべてが黒く塗りつぶされていく。目の前が真っ暗になっていく。負の感情が押し寄せ、諦めかけた自分を責め立てる。
「や、め……」
全身が黒いそれに覆われ、小さな光は見えなくなってしまった。




