第十五話「戻れない前提」
市場は、もう以前の市場ではなかった。
それでも形だけは残っている。
エルドはその“形”を見ながら歩く。
「残骸だな」
隣のリリアが小さく答える。
「残骸、ですか」
「中身が抜けている」
市場の奥へ進む。
そこにあるはずの場所。
パンの屋台。
ミアのいる場所。
だが、その空間に入った瞬間、エルドはすぐに気づいた。
“反応が遅い”。
ミアは立っていた。
だが、こちらに気づくまで一拍遅れる。
「あ……おはようございます……」
その声には、昨日までの“繋がり”がない。
リクが言う。
「姉ちゃん、今日さ」
少し間が空く。
「昨日のこと、もう覚えてない?」
ミアは固まる。
「え……?」
その反応は、もはや“曖昧”ではない。
空白だ。
ルナが小さく言う。
「覚えてないんだ」
ミアは慌てるように笑う。
「覚えてるよ、ちゃんと……」
だが、その言葉は途中で止まる。
(何を?)
エルドはその一瞬を見逃さない。
リリアが震える声で言う。
「エルド様……もう記憶が“保持”されていません」
エルドは短く言う。
「不可逆だ」
その言葉にリリアが顔を上げる。
「戻らない、ということですか」
エルドは頷く。
「戻る構造が消えている」
沈黙。
市場の音が、少しずつ遠ざかる。
ミアが小さく言う。
「ねえ……私、昨日何してた?」
リクが答えようとして止まる。
「……分かんない」
ルナも同じように首を振る。
その瞬間、ミアの表情が固まる。
エルドは見る。
(継続が切れた)
リリアが言う。
「もう“昨日”という概念が機能していません」
エルドは静かに答える。
「その通りだ」
市場の一角で、商人が叫ぶ。
「これ、さっきと違うぞ!」
「いや、同じだ!」
混乱はもう日常化している。
だがエルドにとっては違う。
これは“進行”ではない。
“完成に向かっている崩壊”だ。
ミアが小さく言う。
「なんか……全部曖昧です」
その声は弱い。
エルドはミアを見る。
(限界が近い)
リリアが言う。
「エルド様、もう戻せません」
エルドは答えない。
少し間を置いて言う。
「戻さない」
その言葉にリリアが驚く。
「では……」
エルドは続ける。
「終わらせる」
空気が変わる。
ミアが顔を上げる。
「終わらせるって……何をですか」
エルドはミアを見ない。
「原因だ」
その言葉に沈黙が落ちる。
リクが小さく言う。
「それって、あの鐘のこと?」
エルドは短く答える。
「そうだ」
ルナが震える声で言う。
「入れるの?」
エルドは一瞬だけ止まる。
そして言う。
「入る」
その言葉で、全員が理解する。
これはもう“観察”ではない。
ミアが小さく言う。
「危ないですよ」
エルドはすぐに答える。
「今さらだ」
その言葉に、ミアは少しだけ笑う。
「ほんとに、無茶ばっかりですね」
だがその笑顔は薄い。
エルドは視線を上げる。
(もう戻らない)
リリアが言う。
「準備はどうしますか」
エルドは答える。
「不要だ」
そして一歩踏み出す。
その瞬間。
――ゴォン。
鐘。
今度は“呼びかけ”ではなく“合図”。
ミアが耳を押さえる。
「これ……また」
エルドは振り返らない。
「始まる」
その一言と共に、エルドは市場を離れる。
ミアはその背中を見ている。
もう止められないと、どこかで理解している。




