表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/18

第九話「残らない一日」

朝の市場は、昨日と同じように見えた。


だがエルドには、もうそれが信用できなかった。


「……戻っていないな」


隣のリリアが小さく息を吐く。


「それ、もう毎日言ってませんか」


エルドは短く返す。


「毎日そうだからだ」


市場の奥へ向かう。


そこに“いつもあったはずの場所”がある。


パンの屋台。


そしてミアたち。


だが、その場所に着いた瞬間、エルドは一度だけ足を止めた。


数が違う。


ミアが気づくのは遅かった。


「あ、おはようございます……」


声が、少し掠れている。


リクが言う。


「今日、なんか少ない」


ミアはすぐに否定しようとして、止まる。


「……そんな、ことないよ」


だが、その視線が揺れている。


ルナが小さく言う。


「一個、ない」


その一言で、空気が止まる。


エルドはパンを見る。


確かに数が合っていない。


“減った”ではない。


“最初から無かった”ように見える。


リリアが帳簿を開く。


そして顔を上げる。


「エルド様……記録が」


「どうした」


リリアは声を落とす。


「昨日の分が、丸ごと抜けています」


沈黙。


エルドはそれを聞き、静かに言う。


「来たか」


ミアが不安そうに聞く。


「何が、ですか?」


エルドは答えない。


代わりに視線をパンに向ける。


リクが言う。


「でも、昨日はちゃんとあったよな?」


ミアはすぐに返す。


「うん、あった」


だがその瞬間、ミアの表情が一瞬だけ止まる。


(あった、だろうか)


その迷いが、顔に出る前に消える。


エルドはそれを見逃さない。


(認識が割れ始めている)


リリアが言う。


「エルド様、これは……記録の破損ですか?」


エルドは首を振る。


「違う」


「では何です?」


エルドは少し間を置く。


「現実の欠落だ」


その言葉に、ミアが小さく息を呑む。


「欠落……?」


エルドは続ける。


「存在していたはずのものが、最初から無かったことになっている」


リクが首を傾げる。


「そんなの変だよ」


ルナが小さく言う。


「うん」


ミアはパンを見る。


そして、ゆっくり数える。


「……やっぱり、一つ足りない」


その声は、確かに震えていた。


リリアが言う。


「これ、物価の問題じゃありません」


エルドは短く返す。


「分かっている」


市場の音が遠くなる。


人の声はある。


だが、どこかが“ずれている”。


ミアが小さく言う。


「昨日も、こうでしたっけ」


リクがすぐに答える。


「違う気がする」


その瞬間。


ミアの動きが止まる。


「え……?」


自分の言葉に、自分で引っかかる。


(違う気がする)


その“気がする”が、確信を持てない。


エルドは静かに見ている。


(完全に崩れ始めた)


リリアが震える声で言う。


「記録も、人の記憶も……一致していません」


エルドは頷く。


「もう揃っていない」


ミアが小さく笑う。


「じゃあ……どっちが本当なんですか」


誰も答えられない。


エルドはゆっくり言う。


「本当は、消えている」


ミアが固まる。


「消える……って」


エルドは続ける。


「“残らない”」


その言葉に、リクが不安そうにパンを見る。


「じゃあこれも……」


ミアは慌てて言う。


「あるよ、ちゃんとある」


だがその声は、誰かに向けたものではなかった。


エルドは思う。


(維持が崩れた)


(これはもう“誤差”ではない)


リリアが言う。


「このままだと……何も残らなくなります」


その言葉に、ミアの手が止まる。


「残らない……?」


エルドは短く答える。


「可能性はある」


沈黙。


市場の音が一瞬だけ途切れる。


――ゴォン。


鐘。


今度は近い。


ミアが顔を上げる。


「今の……」


エルドは答えない。


ただ見ている。


(加速している)


ミアの日常は、もう壊れている。


だがそれに誰も完全には追いついていない。


エルドだけが、それを理解し始めている。


そして初めて思う。


(これは救うべきか、理解すべきか)


その問いに答えはまだない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ