第九話「残らない一日」
朝の市場は、昨日と同じように見えた。
だがエルドには、もうそれが信用できなかった。
「……戻っていないな」
隣のリリアが小さく息を吐く。
「それ、もう毎日言ってませんか」
エルドは短く返す。
「毎日そうだからだ」
市場の奥へ向かう。
そこに“いつもあったはずの場所”がある。
パンの屋台。
そしてミアたち。
だが、その場所に着いた瞬間、エルドは一度だけ足を止めた。
数が違う。
ミアが気づくのは遅かった。
「あ、おはようございます……」
声が、少し掠れている。
リクが言う。
「今日、なんか少ない」
ミアはすぐに否定しようとして、止まる。
「……そんな、ことないよ」
だが、その視線が揺れている。
ルナが小さく言う。
「一個、ない」
その一言で、空気が止まる。
エルドはパンを見る。
確かに数が合っていない。
“減った”ではない。
“最初から無かった”ように見える。
リリアが帳簿を開く。
そして顔を上げる。
「エルド様……記録が」
「どうした」
リリアは声を落とす。
「昨日の分が、丸ごと抜けています」
沈黙。
エルドはそれを聞き、静かに言う。
「来たか」
ミアが不安そうに聞く。
「何が、ですか?」
エルドは答えない。
代わりに視線をパンに向ける。
リクが言う。
「でも、昨日はちゃんとあったよな?」
ミアはすぐに返す。
「うん、あった」
だがその瞬間、ミアの表情が一瞬だけ止まる。
(あった、だろうか)
その迷いが、顔に出る前に消える。
エルドはそれを見逃さない。
(認識が割れ始めている)
リリアが言う。
「エルド様、これは……記録の破損ですか?」
エルドは首を振る。
「違う」
「では何です?」
エルドは少し間を置く。
「現実の欠落だ」
その言葉に、ミアが小さく息を呑む。
「欠落……?」
エルドは続ける。
「存在していたはずのものが、最初から無かったことになっている」
リクが首を傾げる。
「そんなの変だよ」
ルナが小さく言う。
「うん」
ミアはパンを見る。
そして、ゆっくり数える。
「……やっぱり、一つ足りない」
その声は、確かに震えていた。
リリアが言う。
「これ、物価の問題じゃありません」
エルドは短く返す。
「分かっている」
市場の音が遠くなる。
人の声はある。
だが、どこかが“ずれている”。
ミアが小さく言う。
「昨日も、こうでしたっけ」
リクがすぐに答える。
「違う気がする」
その瞬間。
ミアの動きが止まる。
「え……?」
自分の言葉に、自分で引っかかる。
(違う気がする)
その“気がする”が、確信を持てない。
エルドは静かに見ている。
(完全に崩れ始めた)
リリアが震える声で言う。
「記録も、人の記憶も……一致していません」
エルドは頷く。
「もう揃っていない」
ミアが小さく笑う。
「じゃあ……どっちが本当なんですか」
誰も答えられない。
エルドはゆっくり言う。
「本当は、消えている」
ミアが固まる。
「消える……って」
エルドは続ける。
「“残らない”」
その言葉に、リクが不安そうにパンを見る。
「じゃあこれも……」
ミアは慌てて言う。
「あるよ、ちゃんとある」
だがその声は、誰かに向けたものではなかった。
エルドは思う。
(維持が崩れた)
(これはもう“誤差”ではない)
リリアが言う。
「このままだと……何も残らなくなります」
その言葉に、ミアの手が止まる。
「残らない……?」
エルドは短く答える。
「可能性はある」
沈黙。
市場の音が一瞬だけ途切れる。
――ゴォン。
鐘。
今度は近い。
ミアが顔を上げる。
「今の……」
エルドは答えない。
ただ見ている。
(加速している)
ミアの日常は、もう壊れている。
だがそれに誰も完全には追いついていない。
エルドだけが、それを理解し始めている。
そして初めて思う。
(これは救うべきか、理解すべきか)
その問いに答えはまだない。




