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コトノハを奏でて  作者: 氷河期のやもめ
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10/10

夕焼けとオムライス④

 子どもたちが帰るころには、外はもう夕暮れだった。


 皿の片付けはあとから来たアルバイトに任せて、あたしはひなたと一緒に店を出る。並んで、自転車を引きながら歩いた。さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、道は静かだった。


「今日は、本当にありがとう」


 ひなたが口を開く。


「いえいえ、どういたしまして。またいつでも、小説読みに来なよ。……あ、でも明日はあたし手伝いないから、また来週ね」


 あたしがそう言うと、ひなたは小さく頷いた。


「織付さん、すごいね。あんなにきれいなオムレツが作れるなんて」


「えー、そう?」


 ちょっとだけ照れる。


「将来は、あのお店で働くの?」


 あたしは少しだけ空を見上げた。夕焼けが、ゆっくりと色を変えていく。


「んー……どうだろ。料理は好きだし、そういう道もいいかなって思うけど」


 少しだけ間を置いて、続ける。


「でも、たぶん甘えちゃうんだよね。あそこで働くと。だから――まずは別のとこで修行、みたいな?」


 自分でもまだはっきりしない未来を、言葉にしてみる。何となく恥ずかしくなって、笑顔でごまかした。隣を見ると、ひなたは前を向いたまま、静かに歩いている。


「……本当、すごいな」


 夕風に溶けたその言葉は、どこか遠くを見ているみたいだった。


「ひなただって、親元離れて高校通ってるじゃん。それだってすごいと思うよ」


 あたしがそう言うと、ひなたは首を横に振った。


「私のは……そういうのじゃないから」


 その声は、少しだけ沈んでいた。


 あたしは、それ以上踏み込まなかった。どこまでが踏み込んでいい“お節介”で、どこからが違うのか――その線引きくらいは、もう分かっているつもりだ。


 話してくれるなら、そのときに聞けばいい。そう思って、言葉を探しかけたときだった。


「私……逃げてきたの。お母さんから」


 ひなたの声が、静かに落ちた。あたしは何も言わず、ただ隣を歩いた。続きを待つ。


「小さい頃から、ずっと勉強ばっかりで。保育園のときも、小学校に入ってからも、家に帰ればずっと机に向かってた」


 淡々とした口調だった。けれど、その奥にあるものは軽くない。


「友達と遊ぶのも、アニメとか漫画も、だめで……」


 少しだけ言葉が途切れる。夕焼けの色が、ひなたの横顔を淡く染めていた。


「……でも、小説は大丈夫だったんだ?」


 あたしの言葉に、ひなたは頷いた。


「中学のとき。受験の前に、偶然見つけたの。“若草奇譚”」


 その名前を口にするときだけ、ほんのわずかに声が変わる。


「初めて読んだとき……びっくりした。こんなに面白くて、こんなに楽しいものが、この世界にはあるんだって」


 ひなたは、少しだけ空を見上げた。


「でも――」


 そのあとに続く言葉は、少し重かった。


「このままここにいたら、私はきっと、何も知らないまま終わるって思ったの」


 立ち止まり、足元の影が、ゆっくりと伸びていく。


「だから……逃げたの」


 短い一言だった。


 それで、全部だった。


 あたしは、何も言わなかった。

 驚いたわけじゃない。

 むしろ――ずっと胸の奥に引っかかっていたものが、ようやく形を持っただけだった。


 ひなたのあの目。どこか深くに沈んでいるような、光を閉じ込めたままの瞳。あれは、見たことがある。Canonに来る施設の子たちが、ふとした瞬間に見せるものと、よく似ていた。


 うまく笑えない子。何かを諦めたみたいに静かな子。――親の手が、届かなかった子どもたちの目。


 たぶんだけど、パパも何か気づいているんだと思う。


 あたしは、ひなたの隣でゆっくりと歩きながら口を開いた。


「……今日来てたカズくん。ほら、オムライスの子」


 ひなたが小さく頷く。


「あの子ね、お母さんが育てるのを諦めちゃったんだって。重いアレルギーもあるし、少し発達もゆっくりで……たぶん、いっぱいいっぱいだったんだと思う」


 もし自分がその立場でも、そうならない自信なんてなかった。


「だから、あたしはその母親のこと、責める気にはなれないんだよね」


 夕闇の訪れた空を見つめる。


「責めても、何も変わらないし。誰も楽にならないから」


 ひなたは何も言わず、ただ聞いている。


「だからさ――あたしは、あたしにできることだけやろうって決めてるの。ちょっとでも、お腹いっぱいになったり、ちょっとでも楽しいって思えたり。そういうのを、増やせたらいいなって」


 少しだけ笑う。


「……ひなたにもね」


 ひなたの足が、ほんの少しだけゆるむ。


「ひなたは“逃げた”って言ったけど、それって、ちゃんと自分で道を選んだってことじゃん」


 言葉を選び、まっすぐ伝えた。


「だから、あたしはそれ、すごいと思うよ」


「……織付さん……」


「ミズキ、でいいよ。あたしたち、もう友達でしょ」


 ひなたは、少し戸惑って、それから小さく頷いた。


「……うん。ありがとう、ミズキ」


「へへ」


 心がムズムズするのを、笑ってごまかす。


「私も……いつか、ミズキみたいに、誰かを幸せにできるかな……」


「できるよ。いつか、きっと」


 それは励ましというより、ただの確信みたいなものだった。


 やがて分かれ道に差しかかる。ひなたが足を止め、ふとこちらを振り返った。


「……ねえ。“ユウ”って名前に、聞き覚えある?」


 唐突な問いだった。あたしは少し考えて――首を振る。


「ううん、ないけど……それがどうかした?」


 ひなたは、ほんの一瞬だけ迷うような顔をして、


「ううん。なんでもない」


 そう言って、小さく笑った。


「それじゃ、また」


「うん、またね」


 ひなたは自転車にまたがり、そのまま坂を下っていく。夕闇の中に、すっと溶けていくみたいに。あたしはしばらくその背中を見送ってから、自分の自転車に手をかけた。


「まあ人のこともいいけどさ……」


 ヨイショっと、勢いよく地面を蹴る。


「まずは自分のこと、ちゃんとしなきゃだなぁ」


 そう、明日は遅刻しないようにね。

しばらく投稿期間あきます

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