夕焼けとオムライス④
子どもたちが帰るころには、外はもう夕暮れだった。
皿の片付けはあとから来たアルバイトに任せて、あたしはひなたと一緒に店を出る。並んで、自転車を引きながら歩いた。さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、道は静かだった。
「今日は、本当にありがとう」
ひなたが口を開く。
「いえいえ、どういたしまして。またいつでも、小説読みに来なよ。……あ、でも明日はあたし手伝いないから、また来週ね」
あたしがそう言うと、ひなたは小さく頷いた。
「織付さん、すごいね。あんなにきれいなオムレツが作れるなんて」
「えー、そう?」
ちょっとだけ照れる。
「将来は、あのお店で働くの?」
あたしは少しだけ空を見上げた。夕焼けが、ゆっくりと色を変えていく。
「んー……どうだろ。料理は好きだし、そういう道もいいかなって思うけど」
少しだけ間を置いて、続ける。
「でも、たぶん甘えちゃうんだよね。あそこで働くと。だから――まずは別のとこで修行、みたいな?」
自分でもまだはっきりしない未来を、言葉にしてみる。何となく恥ずかしくなって、笑顔でごまかした。隣を見ると、ひなたは前を向いたまま、静かに歩いている。
「……本当、すごいな」
夕風に溶けたその言葉は、どこか遠くを見ているみたいだった。
「ひなただって、親元離れて高校通ってるじゃん。それだってすごいと思うよ」
あたしがそう言うと、ひなたは首を横に振った。
「私のは……そういうのじゃないから」
その声は、少しだけ沈んでいた。
あたしは、それ以上踏み込まなかった。どこまでが踏み込んでいい“お節介”で、どこからが違うのか――その線引きくらいは、もう分かっているつもりだ。
話してくれるなら、そのときに聞けばいい。そう思って、言葉を探しかけたときだった。
「私……逃げてきたの。お母さんから」
ひなたの声が、静かに落ちた。あたしは何も言わず、ただ隣を歩いた。続きを待つ。
「小さい頃から、ずっと勉強ばっかりで。保育園のときも、小学校に入ってからも、家に帰ればずっと机に向かってた」
淡々とした口調だった。けれど、その奥にあるものは軽くない。
「友達と遊ぶのも、アニメとか漫画も、だめで……」
少しだけ言葉が途切れる。夕焼けの色が、ひなたの横顔を淡く染めていた。
「……でも、小説は大丈夫だったんだ?」
あたしの言葉に、ひなたは頷いた。
「中学のとき。受験の前に、偶然見つけたの。“若草奇譚”」
その名前を口にするときだけ、ほんのわずかに声が変わる。
「初めて読んだとき……びっくりした。こんなに面白くて、こんなに楽しいものが、この世界にはあるんだって」
ひなたは、少しだけ空を見上げた。
「でも――」
そのあとに続く言葉は、少し重かった。
「このままここにいたら、私はきっと、何も知らないまま終わるって思ったの」
立ち止まり、足元の影が、ゆっくりと伸びていく。
「だから……逃げたの」
短い一言だった。
それで、全部だった。
あたしは、何も言わなかった。
驚いたわけじゃない。
むしろ――ずっと胸の奥に引っかかっていたものが、ようやく形を持っただけだった。
ひなたのあの目。どこか深くに沈んでいるような、光を閉じ込めたままの瞳。あれは、見たことがある。Canonに来る施設の子たちが、ふとした瞬間に見せるものと、よく似ていた。
うまく笑えない子。何かを諦めたみたいに静かな子。――親の手が、届かなかった子どもたちの目。
たぶんだけど、パパも何か気づいているんだと思う。
あたしは、ひなたの隣でゆっくりと歩きながら口を開いた。
「……今日来てたカズくん。ほら、オムライスの子」
ひなたが小さく頷く。
「あの子ね、お母さんが育てるのを諦めちゃったんだって。重いアレルギーもあるし、少し発達もゆっくりで……たぶん、いっぱいいっぱいだったんだと思う」
もし自分がその立場でも、そうならない自信なんてなかった。
「だから、あたしはその母親のこと、責める気にはなれないんだよね」
夕闇の訪れた空を見つめる。
「責めても、何も変わらないし。誰も楽にならないから」
ひなたは何も言わず、ただ聞いている。
「だからさ――あたしは、あたしにできることだけやろうって決めてるの。ちょっとでも、お腹いっぱいになったり、ちょっとでも楽しいって思えたり。そういうのを、増やせたらいいなって」
少しだけ笑う。
「……ひなたにもね」
ひなたの足が、ほんの少しだけゆるむ。
「ひなたは“逃げた”って言ったけど、それって、ちゃんと自分で道を選んだってことじゃん」
言葉を選び、まっすぐ伝えた。
「だから、あたしはそれ、すごいと思うよ」
「……織付さん……」
「ミズキ、でいいよ。あたしたち、もう友達でしょ」
ひなたは、少し戸惑って、それから小さく頷いた。
「……うん。ありがとう、ミズキ」
「へへ」
心がムズムズするのを、笑ってごまかす。
「私も……いつか、ミズキみたいに、誰かを幸せにできるかな……」
「できるよ。いつか、きっと」
それは励ましというより、ただの確信みたいなものだった。
やがて分かれ道に差しかかる。ひなたが足を止め、ふとこちらを振り返った。
「……ねえ。“ユウ”って名前に、聞き覚えある?」
唐突な問いだった。あたしは少し考えて――首を振る。
「ううん、ないけど……それがどうかした?」
ひなたは、ほんの一瞬だけ迷うような顔をして、
「ううん。なんでもない」
そう言って、小さく笑った。
「それじゃ、また」
「うん、またね」
ひなたは自転車にまたがり、そのまま坂を下っていく。夕闇の中に、すっと溶けていくみたいに。あたしはしばらくその背中を見送ってから、自分の自転車に手をかけた。
「まあ人のこともいいけどさ……」
ヨイショっと、勢いよく地面を蹴る。
「まずは自分のこと、ちゃんとしなきゃだなぁ」
そう、明日は遅刻しないようにね。
しばらく投稿期間あきます




