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  作者: Salt
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第19話 傀儡 (1)


 いつからだろう。朝、目を覚まし、一日を迎えるのがこんなにも辛く感じるようになったのは。


 目を開けようとしても、まぶたの裏が重く沈んでいる。頭が霞み、意識が遠のき、身体がまるで他人のものみたいだった。


 自律神経がやられているのか、とにかく起きられない。


 ベッドの上で何度も寝返りを打っても、意識は朦朧としたまま。

 目覚ましの音さえ、どこか遠くで鳴っているようにしか聞こえない。


 〝起き上がる瞬間〟。

 それはまるで、蜃気楼の中から這い出してくるような感覚だった。

 あるいは、目に見えない鎖で縛られた体を、力ずくで引きちぎるような感覚。

 


 まともじゃなかった。



 眠る瞬間には、起きることを目標にしつつも、そんな目標はぼやけていた。

 日付の感覚も、時間の流れも、全部ぼやけていた。


 それでも、今は幾分か楽になった。峠を越えたのだと思う。

 結衣さんと、真由のおかげで。

 ふたりがいてくれたから、どうにか平常心を取り戻すことができた。


 けれど、それでも今も、どこかに恐怖が残っている。


 またあの状態に戻ってしまうのではないか――

 ふとした瞬間に、あの時の感覚が、後ろからそっと手を伸ばしてくるような気がしてならない。


 人が「おかしくならないように」と、気を遣いながら生きること自体、もしかすると珍しいことなのかもしれない。

 けれど、そういうふうにして生きている人も、たしかにいる。


 そして、どんなに気をつけていても、どんなに用心深くしていても、

 それでも、おかしくなってしまうことがある。


 人生は不条理に満ちている。


 本当に些細なこと――たったひとつの出来事で、歯車は狂ってしまう。





 きっかけは、ほんの些細なことだった。


 東京に住んでいた頃にお世話になっていた方が、

 「Instagramを始めたから、よかったらフォローして」と連絡をくれた。


 言われた通り、アプリをインストールし、その方が個人で経営しているカフェのアカウントをフォローした。

 

 中学時代を思い返すと、あの店で過ごした時間は、良くも悪くも記憶という名のストレージの多くを占めていた。


 まだ始めたばかりらしく、フォロワーは少なかった。

 なんとなく興味本位でフォロワーの一覧を開き、無意識のまま指をスクロールしていた。

 そのとき――目に飛び込んできた。


 「珠莉」


 反射的にアカウントを開いた。考えるよりも先に、指が動いていた。


 そして今思えば、その瞬間がすべての始まりだった。

 長く続いた悪夢の扉が、静かに開門された。気づかぬうちに、悪霊に取り憑かれていたような感覚だった。


 絶句した。


 プロフィール画像は質素だった。後ろ姿に、背景はおそらく東京の夜景。

 だが、フォロワー数は700人を超えていた。


 投稿は多く、何十枚もの写真が並んでいた。そのどれもが、青春の一場面のようだった。

 

 友達と笑い合う写真。制服で撮ったプリクラ。日常の風景。

 とにかく、楽しそうな写真ばかりだった。


 そして、どれ写真も質感が自分好みだった。

 …俺が教えたのだ。そうなるのも当然か。


 自分とは、あまりにも違う日々を歩んでいることに、現実味がなかった。


 あの頃の俺たちが、入れ替わってしまったかのようだった。


 中学時代の自分は、誰にでも話しかけるような存在だった。

 家庭の中では無口で、陰のような存在だったが、学校ではそれを一切見せず、まるで演じるように明るく振る舞っていた。

 今のクラスでいえば、上田のような立ち位置だった。


 内と外での人格を隔絶させていなければ、どうにかなってしまう状況だった。


 生まれて初めて出会った〝希望〟、あるいはそれ以上の〝絶望〟。真実であり嘘かもしれない。愛であり憎しみで、敵であり友で、天国であり地獄、誇りであり恥、珠莉のことは一言では表せられない。


 珠莉の投稿には、風景写真はとりわけ少なく、とにかく人と一緒に写った写真が多く並んでいた。クラスメイト、バイト仲間、相互フォローしている他校の友達。

 男女問わず、たくさんの人たちが登場していた。


 だが、ある男だけは別だった。


 その男との写真だけは、いつもふたりきりで写っていた。

 投稿には、必ず「♡」の絵文字が添えられていた。そして、彼との思い出だけをまとめた「♡」のハイライトが、プロフィールのトップに固定されていた。


 開いてしまった。

 中には、ふたりで撮ったプリクラや、遊園地でふざけ合う動画、制服姿のまま手をつないで歩く写真――。

 数えきれないほどの「幸せ」が詰め込まれていた。


 もう、正気ではいられなかった。


 珠莉は、中学2年の秋から約1年付き合っていた、俺の初めての彼女だった。

 間違いなく特別な存在だった。

 いつの間にか、彼女は俺にとって精神安定剤のような役割を持っていた。


 淡々としていながらも人を惹きつける、あの独特な話し方。

 少し癖のある発音と、耳に心地よく残る声色。

 その声を聞くだけで、不安が少し和らいだ。


 だからこそ、彼女に心を壊されるなんて、思いもしなかった。


 浮気というかたちで、俺が心底嫌っていた男とカラオケに行き、制服姿のままで、行為に及んでいた。

 その現場を、俺は目の前で、見てしまった。


 その後の記憶はない。現場を見るまでの記憶は残っているのに、そこから数日に渡っての記憶が綺麗に消え去っている。


 だからこそ、余計にあの光景が記憶に焼きついている。あのカラオケの、匂いまで。

彼女(小林先生)を初めて見た日、視聴覚室で狂っていた体育教師と生徒の姿は、あの時の光景と重なった。


 そして珠莉のInstagramに登場している男は、あのときの男とは別人だった。


 最初の投稿は、卒業旅行で海外へ行ったときのものだった。

 「中学卒業」というコメントが添えられていた。

 それ以前の彼女は、Instagramの中の世界には存在しない。


 まるで、俺との記憶だけを綺麗に削除して、生まれ変わったかのようだった。


 投稿のストーリーには、「1ヶ月記念」とコメントが添えられたプリクラがあった。

 その中にいた珠莉は、俺の知っている珠莉ではなかった。


 制服のシャツは少し着崩し、髪はブラウンに染められていた。

 あの整えられていた前髪も、乱れたまま笑っていた。


 ――もう、何もかもが崩れた。


 襲ってくる絶望感を紛らわせるために、狂った。

 それ以外に言いようがなかった。


 腹が苦しくなるまで何かを食べ、手当たり次第に動画や記事、画像を見漁った。

 目に入るものすべてを、意味もなく消費した。

 何日も、何日も、何日も。

 やめたいと思いながら、やめられなかった。

 抜け出す手段が、もう見えなかった。


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