第19話 傀儡 (1)
いつからだろう。朝、目を覚まし、一日を迎えるのがこんなにも辛く感じるようになったのは。
目を開けようとしても、まぶたの裏が重く沈んでいる。頭が霞み、意識が遠のき、身体がまるで他人のものみたいだった。
自律神経がやられているのか、とにかく起きられない。
ベッドの上で何度も寝返りを打っても、意識は朦朧としたまま。
目覚ましの音さえ、どこか遠くで鳴っているようにしか聞こえない。
〝起き上がる瞬間〟。
それはまるで、蜃気楼の中から這い出してくるような感覚だった。
あるいは、目に見えない鎖で縛られた体を、力ずくで引きちぎるような感覚。
まともじゃなかった。
眠る瞬間には、起きることを目標にしつつも、そんな目標はぼやけていた。
日付の感覚も、時間の流れも、全部ぼやけていた。
それでも、今は幾分か楽になった。峠を越えたのだと思う。
結衣さんと、真由のおかげで。
ふたりがいてくれたから、どうにか平常心を取り戻すことができた。
けれど、それでも今も、どこかに恐怖が残っている。
またあの状態に戻ってしまうのではないか――
ふとした瞬間に、あの時の感覚が、後ろからそっと手を伸ばしてくるような気がしてならない。
人が「おかしくならないように」と、気を遣いながら生きること自体、もしかすると珍しいことなのかもしれない。
けれど、そういうふうにして生きている人も、たしかにいる。
そして、どんなに気をつけていても、どんなに用心深くしていても、
それでも、おかしくなってしまうことがある。
人生は不条理に満ちている。
本当に些細なこと――たったひとつの出来事で、歯車は狂ってしまう。
*
きっかけは、ほんの些細なことだった。
東京に住んでいた頃にお世話になっていた方が、
「Instagramを始めたから、よかったらフォローして」と連絡をくれた。
言われた通り、アプリをインストールし、その方が個人で経営しているカフェのアカウントをフォローした。
中学時代を思い返すと、あの店で過ごした時間は、良くも悪くも記憶という名のストレージの多くを占めていた。
まだ始めたばかりらしく、フォロワーは少なかった。
なんとなく興味本位でフォロワーの一覧を開き、無意識のまま指をスクロールしていた。
そのとき――目に飛び込んできた。
「珠莉」
反射的にアカウントを開いた。考えるよりも先に、指が動いていた。
そして今思えば、その瞬間がすべての始まりだった。
長く続いた悪夢の扉が、静かに開門された。気づかぬうちに、悪霊に取り憑かれていたような感覚だった。
絶句した。
プロフィール画像は質素だった。後ろ姿に、背景はおそらく東京の夜景。
だが、フォロワー数は700人を超えていた。
投稿は多く、何十枚もの写真が並んでいた。そのどれもが、青春の一場面のようだった。
友達と笑い合う写真。制服で撮ったプリクラ。日常の風景。
とにかく、楽しそうな写真ばかりだった。
そして、どれ写真も質感が自分好みだった。
…俺が教えたのだ。そうなるのも当然か。
自分とは、あまりにも違う日々を歩んでいることに、現実味がなかった。
あの頃の俺たちが、入れ替わってしまったかのようだった。
中学時代の自分は、誰にでも話しかけるような存在だった。
家庭の中では無口で、陰のような存在だったが、学校ではそれを一切見せず、まるで演じるように明るく振る舞っていた。
今のクラスでいえば、上田のような立ち位置だった。
内と外での人格を隔絶させていなければ、どうにかなってしまう状況だった。
生まれて初めて出会った〝希望〟、あるいはそれ以上の〝絶望〟。真実であり嘘かもしれない。愛であり憎しみで、敵であり友で、天国であり地獄、誇りであり恥、珠莉のことは一言では表せられない。
珠莉の投稿には、風景写真はとりわけ少なく、とにかく人と一緒に写った写真が多く並んでいた。クラスメイト、バイト仲間、相互フォローしている他校の友達。
男女問わず、たくさんの人たちが登場していた。
だが、ある男だけは別だった。
その男との写真だけは、いつもふたりきりで写っていた。
投稿には、必ず「♡」の絵文字が添えられていた。そして、彼との思い出だけをまとめた「♡」のハイライトが、プロフィールのトップに固定されていた。
開いてしまった。
中には、ふたりで撮ったプリクラや、遊園地でふざけ合う動画、制服姿のまま手をつないで歩く写真――。
数えきれないほどの「幸せ」が詰め込まれていた。
もう、正気ではいられなかった。
珠莉は、中学2年の秋から約1年付き合っていた、俺の初めての彼女だった。
間違いなく特別な存在だった。
いつの間にか、彼女は俺にとって精神安定剤のような役割を持っていた。
淡々としていながらも人を惹きつける、あの独特な話し方。
少し癖のある発音と、耳に心地よく残る声色。
その声を聞くだけで、不安が少し和らいだ。
だからこそ、彼女に心を壊されるなんて、思いもしなかった。
浮気というかたちで、俺が心底嫌っていた男とカラオケに行き、制服姿のままで、行為に及んでいた。
その現場を、俺は目の前で、見てしまった。
その後の記憶はない。現場を見るまでの記憶は残っているのに、そこから数日に渡っての記憶が綺麗に消え去っている。
だからこそ、余計にあの光景が記憶に焼きついている。あのカラオケの、匂いまで。
彼女(小林先生)を初めて見た日、視聴覚室で狂っていた体育教師と生徒の姿は、あの時の光景と重なった。
そして珠莉のInstagramに登場している男は、あのときの男とは別人だった。
最初の投稿は、卒業旅行で海外へ行ったときのものだった。
「中学卒業」というコメントが添えられていた。
それ以前の彼女は、Instagramの中の世界には存在しない。
まるで、俺との記憶だけを綺麗に削除して、生まれ変わったかのようだった。
投稿のストーリーには、「1ヶ月記念」とコメントが添えられたプリクラがあった。
その中にいた珠莉は、俺の知っている珠莉ではなかった。
制服のシャツは少し着崩し、髪はブラウンに染められていた。
あの整えられていた前髪も、乱れたまま笑っていた。
――もう、何もかもが崩れた。
襲ってくる絶望感を紛らわせるために、狂った。
それ以外に言いようがなかった。
腹が苦しくなるまで何かを食べ、手当たり次第に動画や記事、画像を見漁った。
目に入るものすべてを、意味もなく消費した。
何日も、何日も、何日も。
やめたいと思いながら、やめられなかった。
抜け出す手段が、もう見えなかった。