10 '0の君との出会い (2)
決断を下せずにいた私は、その迷いを翌日まで引きずっていた。
そしてそれは、静かな朝の出来事だった。
ゴミ出しのために玄関の扉を開ける。
ひんやりとした外気が足元から這い上がり、素肌をかすめる。
まだ朝日も完全には届かず、廊下には薄く灰色がかった静けさが漂っていた。
玄関のドアを開けた瞬間だった。
数秒の誤差で、隣のドアがほとんど音を立てずに開いた。
私の部屋は角部屋で、隣室は彼の部屋しかない。
わずかに軋む蝶番の気配に、自然と視線が引き寄せられた。
姿を現したのは、昨日と同じ、あの少年だった。
肩まで伸びた髪を無造作に片側へ寄せ、右手には半透明のゴミ袋を提げている。
中の空き容器がぶつかり合い、かさり、と乾いた音を立てた。
顔立ちはまだどこか眠たげで、薄く揺れる前髪の向こうに、淡く光を帯びた瞳がのぞいている。
白く細い指先は、意外にも力強く袋の端を握っていた。
やや猫背気味に肩をすぼめ、足元を確かめるように歩を進めていく。
薄いスウェットにスニーカー。服装は簡素だが、どこか彼の雰囲気に馴染んでいた。
目が合った。
ほんの一瞬。けれど、確かに視線が重なった。
思わず目を逸らしそうになったが、薄くメイクをしていたことを思い出し、安心して視線を留められた。
15歳を相手に見た目を気にしていること自体、考えてみれば羞恥を覚えるべきなのかもしれない。だが、それほどまでに意識させられるほどのイケメンなのだ。大人だからとか、年齢差がどうだとかは関係ない。人はそういう面では案外単純だ。
昨日の出会いと、いまこの偶然が静かに重なり合い、
胸の奥に、ひとつ小さな灯がともるのを感じた。
これは、偶然ではない。
その直感が、私の中で決定打となった。
彼と、関わろう。
そう、はっきりと思った。
それから私は少しずつ、彼との距離を縮めようと努めた。
けれど、想像以上に彼の心は固く閉ざされていた。
それは露骨な拒絶ではなかったが、「関わらないでほしい」と、彼自ら周囲に防壁のようなものを築いているようだった。
「……闇が深そうだな」
そんな冗談めいた独り言が、ふと心の中に浮かんだ。
けれど、それで引き下がろうとは思わなかった。
もし、自分が彼の立場だったら。
私もきっと、同じように他人を寄せつけなかったと思う。
他人との距離をどこまで詰めていいのか、
その境界を見極めるには、時間がかかる。
だから私は、覚悟していた。
数ヶ月は、ただ耐えるだけの時間になるかもしれないと。
けれど、その「数ヶ月」は、思ったよりも早く揺らいだ。
ある日、いつものように作ったおかずをタッパーに詰め、
静かに隣の扉をノックした。
数秒の沈黙のあと、彼は短く返事をして現れた。
変わらず無表情で、どこか影を落としたまま。
けれどその手は、初めて、素直に私の差し出したタッパーを受け取った。
そのとき渡したのは、焼きそばで、湯気はもう消えていたけれど、香ばしいソースの匂いがふわりと残っていた。
夢みたいに、あっさり受け取った。
一瞬、拍子抜けするほどだった。
けれど、その小さな変化に、私は思わず息を呑んだ。
それ以来、彼は私の差し出す料理を、毎回受け取ってくれるようになった。
笑うわけでも、喜びを見せるわけでもない。
でも、断ることはしなくなった。
「男は胃袋をつかめばこっちのもの」
そんな古びた言葉が、ふと頭をよぎった。
……実際、彼もまた、〝男の子〟なのだと、あらためて思い知らされた。最初こそ大変だったが、それ以降はチョロいというか、従順だった。
変化は、少しずつ。
けれど確実に、彼の内側で何かが動きはじめていた。
時に、その急な変化に戸惑うこともあった。
けれど、彼が他の人に対しては依然としてあの一定の距離感を保っているのを見るたび、自分だけが少しだけ、その防壁の内側に足を踏み入れてしまっているような、そんな、不思議な侘しさが胸に差してくることもあった。
彼は私にとって、弟のようでもあり、ちょっとしたアイドルのようでもあり、特定の人にだけ懐く、小動物のようでもあった。
可愛い。格好いい。そして、つい世話を焼きたくなる。
その三拍子が、妙に絶妙なバランスで、彼の中に同居していた。
いつからか彼は、私の真似をするようになった。
〝目立たなくするために見た目を崩す〟という方向性で、意図的に工夫を凝らし始めたのだ。
ところが、その変装が驚くほど自然で、整っている。
「昔から、母のメイクを手伝っていたんです。気づいたら、自分にもするようになってました」
彼はそう、淡々とした口調で語った。
さらりと話してはいたが、その背景にある事情が軽いものではないことくらいは、容易に察することができた。
私が少しアドバイスをすると、それを即座に取り入れ、わずか数日で自分のものにしてしまう。
その柔軟さと器用さは、見ていて少し怖くなるほどだった。
彼はおそらく天才肌の持ち主だ。
だから思いきって、舞台関係の友人から特殊メイク用のファンデーションや補正クリームを取り寄せてみた。初めて扱うには難しいはずのそれらも、彼は数週間後には何の違和感もなく使いこなしていた。
彼がその〝変装〟をして高校へ通う姿は、もはや別人だった。
私自身、見慣れていなければ気づかないほどの完成度だった。
正直なことを言ってしまえば、変装している彼の方が、むしろ私にとっては気が楽だった。
素顔のままの彼は、美しく、儚い。
心臓には刺激が強すぎる。
いま、彼の生活のなかで最も近くにいるのは、おそらく私だ。
だからこそ、時折、どうしようもなく心配になる。
一見、彼は生活能力も高く、そつがない。
けれどその様子は、どこか砂の城のように脆さを孕んでいる。
小さな綻びがひとつでも入れば、全体が一気に崩れてしまいそうな危うさがある。
彼の心の深淵は影が深すぎて底が見えない。
彼は器用で、感性が鋭い。
だからこそ、社会のなかではそれが足かせになる場面もあるだろう。
そのことを、彼自身も分かっているのかもしれない。
彼の所作や発言の端々には、自分の感性にブレーキをかけようとするような意図がちらついていた。それはおそらく無意識ではない。彼なりの生存戦略なのだと思う。
にしたって…
生まれ持った資質と幼少期からの母親へのメイクで養われた、優れた感性・美的感覚。そしてその感性・感覚によって彼は苦しんでいる。それが業なのか。
身近に苦しんでいる人がいると、自分が恵まれている方だと実感する。
日常の中では、どこか他人事で実感がもてないが、彼を見ていると、運命の不遇さを身に染みて感じる。
結果的に彼がどうなっていくかはわからないが、この瞬間に私が捉える彼は魂に大きな穴が空いている。
私が彼と出会った頃
私は、男の人と関わることに疲れていた。
人間関係を断ち切るようにして距離を取り、感情の波が届かないところで、淡々と過ごしていた。感情がすり減ってしまったあとの、空白の時間だった。
けれど、彼との関係は、それとは違っていた。
恋愛とは異なる。
もっと母性的な、守りたいという気持ちに近い関わり方だった。
だからこそ、彼と一緒にいても私は疲れなかった。
彼と過ごす時間は、私にとってむしろ癒しに近いものだった。
新学期が始まり、彼がどんな高校生活を送るのかは、自然と私の関心の的になった。
そして、今。
もっとも気がかりなのは、私の出張のことだった。
先の予定ではあるが、1週間半もの間、家を空けなければならない。
たったそれだけのことなのに、
彼の中に、私という存在を少しでも残しておきたいと、そんな感情が、ふと湧き上がってきた。
だから私は、有給を取って、久しぶりに少しだけおめかしをした。
それは、彼に驚かされたときの、ささやかな仕返しでもあった。
私だって、少しくらいは見返してやりたい。
そして、それは、叶った。
その日、私はこれまで一度も見たことのない彼の表情を見た。
驚きと困惑、そしてわずかな照れが入り混じったような、複雑な顔つき。
もしかすると、これが彼の好みなのかもしれない。私自身もあの姿は気に入っているし、もう一度、同じメイクと髪型で彼の前に現れてみてもいいかもしれない。
それだけで、十分だった。
出張から戻ったら、彼にお土産を渡す。
何を選ぶか。
そんな他愛のないことが、今の私にとって、ささやかな楽しみになっている。