01 欲望の奴隷
初めて彼女(小林香織先生)を見たのは、入学してから1週間ほどが経った頃のことだった。
その日、春はもう旬を過ぎ、季節はゆるやかに晩春の気配へと移ろい始めていた。
咲き誇っていた桜はすでにほとんど花を落とし、校庭の片隅にかたまりとなって集められた花びらが、色を失ったまま風に揺れていた。その風は、ときおり校舎の廊下を抜け、開け放たれた教室の窓から、肌寒さを含んだ空気を運んできていたのを覚えている。
彼女はそのとき、古典の初回授業のため、4階にある自分たちの教室へとやってきた。
俺は席に着きながら、何気なく隣の校舎を眺めていた。
ちょうど正面に見える向かいの校舎の3階、西端に位置する視聴覚室。校内見学のときに、「通常の授業では使われない」と説明された覚えがある。
そんな使われないはずのその教室に、ふいに人影が差し、思わず視線を留めた。
窓越しに見えたのは、男女が並んで教室内へと入ってくるところだった。
こういった時に、人は予感めいたものを感じるのか、あるいは、忌むべきに値する想像力が働くのか、視線が固まる。
入るないなや、視線の先では我を忘れたように、女子生徒と教師がみだらな行為を繰り広げはじめた。
あまりにも唐突で、こちらの動きが止まった。
生徒の方は誰だかわからなかったが、教師のほうは見覚えがあった。
上下おそろいの、色あせた青のジャージ姿。あれはたしか、篠田とかいう若い体育教師。
1年男子、つまり自分たちの体育を担当している教師で、初回の授業のときに「今年で2年目です」と、にこやかに自己紹介していたのを思い出す。
日焼けした肌に、短く刈り込んだ黒髪。顔立ちは整っていて、表情には軽やかさがあり、言葉遣いもどこかフランクだった。体育教師特有の、精神論をふりかざすような暑苦しさはなく、そういうところがかえって生徒にとっては接しやすく感じられるのかもしれない。
入学してからわずか一週間のあいだに、あの教師が廊下で女子生徒の集団に囲まれている光景を、何度も目にした。しかも、その様子は軽い立ち話というより、まるでアイドルを前にしたときのような、推しとの距離感で、生徒たちは篠田と向き合っていた。
あの雰囲気と、あの見た目。
本気で好意を抱いている女子生徒も、きっと少なくないはずだ。
『時代性──そう呼ぶべきなのだろうか。
SNSの利用が当たり前となった今の社会では、理想を高く掲げ、純粋な恋愛よりもステータスを重視する風潮が広がっている。「ただの高校生では満足できない」、「自分のプライドがそれを許さない」といった価値観を抱える若者が増えている。SNSに映る人々などは、あくまで全体のごく一部に過ぎないはずだ。けれど、その一部が当たり前のように錯覚され、〝誰もがそうでなければならないような空気〟がある。いや、〝そうでありたいといった空気〟と表現した方がいいのか。
特にルッキズムの加速とともに、女性側の見た目の平均値がどんどん上がっている一方で、男子高校生は、そうした意識を持つ者が少ない。何も努力せずして付き合えると思っている男子に対して、無意識のうちに傲慢とすら感じている女子も、きっと少なくないのだろう。「割に合わない」、と表現するのがわかりやすいかもしれない。だからこそ、恋愛に対しては釣り合った人と付き合いたいという、ごく自然な願望が、それぞれの立場で複雑なかたちをとって現れているのかもしれない』
ふと、そんなことを誰かが言っていたのを思い出す。
人間は感情で動く生き物。
本能的に備わっている欲求に大人だから抗える、そんなことはないようだ。
初めは、お互いの気持ちを確かめるかのようにナチュラルに抱きあっていた。女子生徒の方は経験が少ないのか、やけに照れているように見えたし、そういった事に慣れていないようにも見えた。
しばらく抱きあった後、教師の方に熱が入ってきたのだろうか、次第に女子生徒の髪や頬に手を滑らせていく。髪や頬だけでは物足らなくなったのか、肩、腕、脇腹、足へと徐々に滑らせる範囲を広げていく。
女子生徒は教師の肩に顔をうずくめなんの抵抗もしない。
よほど興奮したのだろうか、耳を真っ赤にした教師は抱き合ったまま女子生徒を窓側の方まで押していき、近くにあった机の上に女子生徒をのせる。
数秒の間お互いに見つめ合うと、教師は勢いよく女子生徒の唇に、自分の唇を押し付けた。
そこにはロマンスなどなく、ただヒューマニティーだけが男を、いや猿を動かす。
猿と化した教師は時間をかけず舌を絡め始める。同時に手は女子生徒の制服の中へと入っていく。瞬間的に、女子生徒はそこまで攻められるとは思っていなかったのか、驚いた表情で、初めて抵抗を見せた。
だが、猿はもはや猪と化していて、〝猪突猛進〟、女子生徒は猪を止めるべく追い払うも、生半可なことでは止まらない。サーモグラフィー越しに教師を写したら、間違いなく、真っ赤に写ることになるのだろう。
体育会系の人はテストステロン値が高く、その影響で性欲が強いとはよく聞くが、まさにその通りの光景だった。
「せめてカーテンくらい閉めれば…」
そんなことを思いながらも、人間はひとつのことに夢中になると、周囲が全く見えなくなる生き物。
仕方のないことなのかもしれない。
人なんてそんなものだ。
篠田の方はわからないが、女子生徒の方は次の授業が必ずあるはずだ。いつまでこんなことを…と思い始めた時だった。
「あ…」
女子生徒が大きく振りかぶった右手で、男の頬を勢いよく打つと、そのまま顔に一発、大きく蹴りを入れる。女は止まらなかった。黒板消しを持ち出し、倒れ込んだ男の顔に、色で染まった表面を何度も何度も叩きつけ、しまいには、ジャージにも同様に叩きつけた。
人間への帰化。
チョークの粉まみれになった教師は、しばらくの間は痛がるも、理性を取り戻していくうちに、自分のしでかしたことの重大さに気づいたようで、その場に土下座した。
これ以上は見てられなかった。
女子生徒が制服を着ていたせいか、脳の奥深くにしまいこんでいた記憶が蘇ってくる。忘れ去りたくても忘れることのできなくなった記憶、すでにトラウマになっている。
自分で見るという選択をしておいて、そのことを今更後悔した。
欲は人を狂わせる。そこに理性を介する余地があるのならいいのだが、そんなことは滅多にない。
他人の欲が、自分の欲が怖い。
*
複雑な気持ちを抱えたまま、再び教室へと視線を戻す。
そこには、いつもと変わらないはずの平凡で穏やかな日常が広がっていた。
午後の陽が斜めに差し込み、窓際の白い壁に淡い影を落としている。机の表面には光がにじみ、教室全体がやわらかな反射で包まれていた。
「ん…?」
よく見ると、その空間にはどこか違和感のある光景が広がっていた。
視線が、教室の最前列、教卓の前に自然と集まっていた。
流れに身を任せるようにして、俺もそちらへと顔を向けた。
そして、その瞬間が、彼女との出会いだった。
ひとりの女性が、ただそこに立っている。
それだけの光景なのに、時間の流れがふいに変わった気がした。
肩まで真っ直ぐに伸びた髪は、柔らかな光を受けてゆるやかに揺れる。
白いブラウスはほんのり透ける薄手の生地。胸元は深すぎないVネックとなっていて、鎖骨のラインをうっすらと覗かせる。下に合わせた黒のワイドパンツはシンプルながらも洗練されていて、立ち姿全体に余計なものがない。
周囲のざわつきも、誰かが机を指で叩く音も、音だけが遠ざかっていく。
まるで空気の密度が、彼女のまわりだけ静かに変化しているようだった。
この世に存在するどんな美しい言葉でも、彼女を形容することはできない。
その顔立ちは、どこを取っても整っていてる。
鋭すぎない逆三角の輪郭に、アーモンド型の印象的な瞳、通った鼻筋、形の整った唇、そのすべてが均整の取れたバランスで配置されている。〝黄金比〟という言葉が唐突に浮かび上がる。綺麗すぎて、どこか現実味がなかった。
ただ、天使という陳腐な言葉だけが、唯一近い表現に思えた。
鼓動が自然と速くなる。
胸の奥で、自分でも気づかなかった何かが目を覚ましていくような感覚。血管の中のDNAが反応しているのか。
この教室にいる誰もが、同じように彼女に見入っていた。
それだけで、理由なんて要らなかった。
世界の唯一の法則。
人間とはどこまでも単純であって、どこまでも複雑でもある。