婚約破棄と言われても(後編)
確かにそういう話し――トマス様とわたくしを婚約させる――があった事は確かです。
ですが、それは祖母同士が勝手に盛り上がって話していただけで、実際は婚約などしておりません。
だからわたしく、トマス様に「婚約を破棄する」と言われても、どうして彼がそんな事を言うのか、さっぱり解らなかったのです。
「え? え? い、いつって……それは……」
「わたくしも知りたいですわ。ねぇトーマスジェフル様? わたくし、あなたと婚約した憶えがないのですけれど、わたくし達はいつからそんな間柄になったのですか?」
「いつからって……アイリーン……それは……」
「だ・れ・が、あなたとわたくしが婚約している――と言ったのです?」
「え? いや、それはおばあ様が……アイリーンがお前のお嫁さんになるのよって……。だから毎回夜会では、俺がエスコートを……」
「……」
確かにそうでした。夜会では、トマス様にエスコート役をよくしていただいていました。が、それはエスタリオが社交界デビューする前であって、デビュー後は都合の悪い時だけお願いしていましたので、ここ数年は両手の指でも余るくらいしか、トマス様にしていただいておりません。
「わたくし、エスターが社交界デビューしてからというもの、あなたにエスコートをお願いしたのは数回程度ですわよ」
もしもわたくし達が婚約していたのならば、そんな事はありえない話です。
「トーマスジェフル様。わたくし達が婚約していた事実はありません。あなたが勝手にそう思い込んでいただけです。それと、わたくしが殿下と宗主国に滞在していたのは、殿下とわたくしの婚約の報告をしに行っていたからです」
「は?」
ざわり――と、周囲がざわつきました。
それもそうでしょう。殿下とわたくしの婚約は、まだ公にされていません。今夜、この場で公表する予定だったのですから。
何故、今なのかといえば、わたくしの他にも候補者が数名いたからです。
名家の令嬢はもちろんのこと、宗主国の王妹殿下の御息女も、殿下の妃候補者の一人でした。
いくら殿下がわたくしが良いと言って下さっても、国の為になる結婚をしなくてはいけない立場にいらっしゃるお方です。ですから王妹殿下の御息女を妃に迎えるのが、国の為には一番良いのです。ですが殿下は、わたくしでなければ嫌だと仰り、根気よく御両親や大臣らを説得し、そして漸く数ヶ月前にわたくしとの婚約を認めていただけたのです。
だらといって、すぐに公表するわけにはいきません。
宗主国の皇帝陛下の承諾も得られなければいけないからです。
ですからわたくし達は、皇帝陛下のお許しをいただきに、宗主国へ向かいました。それが三ヶ月前の事です。皇帝陛下の姪である御息女の事もあり、なかなか謁見が許されず、帰国するのに三ヶ月もかかってしまいましたが、ちゃんと許しもいただきましたし、お祝いの言葉もいただきました。
そう、三ヶ月前なのです。
わたくしがこの国を出たのは。
ですからわたくしが彼女にどうこうする事は不可能であり、する意味などこれっぽちも無いのです。
「何を勘違いしていたのか……呆れてしまうよトーマスジェフル」
真っ青な顔色のトマス様を冷めた目で見やった殿下は、その双眸を横へと移すと、うっとりとした表情で自分を見つめているエマに、不快げに顔を歪められました。
「で、きみは?」
「あ、は、はい。コルドン男爵家の娘でエマと申します」
しなをつくり、上目遣いで殿下を見るエマのあからさま過ぎる媚に、おもわず頬が引き攣ってしまいました。なので慌てて扇を広げ顔の下半分を隠します。
「コルドン男爵? 誰かな、それは? アイリーン、あなたは知っている?」
「……コルドン伯爵でしたら、父の友人にいらっしゃいますが……」
父の昔馴染みであるその方は、朗らかで優しい小太りな小父様です。男児しかいないからと、わたくしや妹を可愛がってくだり、我が家に来る時にはいつも沢山のお土産を持ってきてくださいます。
「そう。招待客名簿に目を通したあなたが知らないという事は、招待していないという事だね。エマと言ったかな? きみ、誰の許しを得て王宮に入ったの?」
スッと、殿下の双眸が剣呑なものへと変わり、普段、おっとりしている殿下からは想像もできないほどの冷気を放っています。
「か、彼女は私が、パートナーとして連れてきました」
「王宮への出入りを許可されていない者を連れてくるのは、御法度だと記憶しているけれど……違っていたかな?」
グッと奥歯を噛みしめ、トマス様はか細い声で「違いません」と答えて項垂れました。最初の勢いはどこへいったのでしょうね?
「衛兵、この娘を捕らえよ」
「え? え? なんで? どうして? わたし、来ちゃいけなかったの? どうして? 貴族なら誰だって入れるんでしょう?」
「……貴族の娘であれば、知っている事だ。王族主催の夜会には、許可を得たものしか出席できないのを」
招待状の有無を城の入り口で確認しないのは、そういう理由からなのです。許可した者しか招待していないから、いちいち確認をしないのです。
「きみ、本当に貴族の令嬢なのか? 怪しいね。その辺も、しっかり調べないといけないな」
青褪めて震えるエマを一瞥し、殿下はトマス様や後ろにいた貴公子達へと視線を移しました。
「さて、王宮で愚かな行為をおこなったきみ達はどうしようか? もちろんお咎め無しなんて事はないよ。王太子妃となる私の愛しい姫君に無実の罪を着せ、大勢の前で罵声を浴びせ詰ったのだからね。特にトーマスジェフル。きみは王宮での夜会の決まりを破ったのだから、罪は他の誰よりも重いよ」
項垂れるトマス様や怯えるエマと一緒に、他の方々も衛兵に周りを囲まれて大広間から連れ出されました。彼等は別室にて、事情聴取されるのでしょう。きっと審問官がやってくるのでしょうが、その筆頭はトマス様の母方の伯父上様なのです。甥だからと罪を軽くするような方ではありません。きっと他の誰よりも厳しくするでしょう。
「アイリーン」
甘やかな笑みを浮かべ、殿下がわたくしに右手を差し出します。そっと、その手に己が手を重ね、わたくしは柔らかく微笑みました。彼にエスコートされ、玉座の置かれた一段高い場所へと向かいます。
いよいよ殿下とわたくしの婚約の発表です。緊張で顔が強張りそうですが、殿下と一緒なのですから大丈夫ですわ。
国王陛下の威厳ある声が、わたくし達の婚約を告げると、わっと歓声があがり拍手が鳴り響きました。
「ラヴィ様」
「ん?」
ラヴィ……これはわたくしにしか呼ぶことが許されていない、殿下の愛称です。
「幸せになりましょうね?」
「もちろん。そのつもりだよ」
蕩けるような甘やかな笑みを浮かべ、殿下はわたくしの頬に口付けました。
「それにしても、トーマスジェフルは随分と残念なヤツだね。兄二人はとても優秀だというのに」
「まぁ……否定は致しませんわ。顔だけは、兄君達よりも良いんですけどねぇ……」
それだってラヴィ様には敵いませんけど――そう囁いたわたくしに、殿下は目を細め口端を上げられました。
さて、その後トマス様や他の方々がどうなったのかというと、十年間王宮への出入りが禁止されました。
もちろん社交界にもです。
騎士団長の嫡男とトマス様は、強制的に国境警備隊へ入隊させられました。あそこへ入隊したら、五年は戻って来られません。お二人にはお気の毒ですが、これで良かったように思います。トマス様のご実家である公爵家は爵位が二つ落とされ、お父上様は家督を嫡男に譲り、王宮を辞して領地に隠居なさいました。
神官長の次男は聖山の奥殿へと幽閉……いえいえ、修行のために篭られたそうです。聖山での修行は、とても厳しいそうで、一度入ったら出られないという噂もございます。
若くして伯爵家当主となったわたくしの従兄は、爵位こそ変わらなかったものの、領地が替えられてしまい、今までの半分ほどになってしまいました。しかも物凄く辺鄙な場所です。あれでは実入りもかなり悪いでしょう。
弟の友人である子爵家の嫡男は廃嫡となり、母方の実家にて預かりとなりました。聖職者になるか平民になるか、決めなくてはならないそうです。
そしてあのエマとかいう娘ですが……彼女は貴族を騙った罪で投獄されました。
コルドン男爵家自体は、六十年位前まで存在していたそうです。わたくしの知っているコルドン伯爵家とは関係なく、ただの同姓の家でした。
このコルドン男爵家ですが、領地経営が上手くいかなかったのと、当主が独身で跡継ぎがいないまま亡くなってしまったので、今は親戚筋の老子爵が管理しているそうです。隣国に近い、あまり豊かではない土地だとかで、エマはそこの出身で、彼女の祖母がその亡くなった領主と体の関係があったのだとか……。実際は血の繋がりが無いのに、自分は亡き男爵の娘と孫だと言って母娘で老子爵を騙し、彼をパトロンにしてやりたい放題だったそうです。
彼女の母親もそういった仕事……金銭により男性に体を売る事を生業としていたのです。しかもかなりの売れっ子だったそうで、老子爵を誑しこむのは簡単だったのではないでしょうか?
そんな母親から手解きを受けていた彼女なら、トマス様や他の方達が簡単に篭絡されるはずです。エマは自分が落とした男性達全員と、嘆かわしい事に体の関係をもっていたのですから。もちろん皆、自分とだけ――と思っていたようです。アホです。本当に。慣れ過ぎるのも困りますが、女性にあまり免疫が無いのも、それはそれで考え物ですわね。




