婚約破棄と言われても(前編)
いきなり「婚約を破棄する」と、大勢の前で言われた侯爵令嬢のお話。
「アイリーン、お前との婚約を破棄する!!」
わたくしを指差し怒気を含んだ声でそう言ったのは、数代前の王弟が祖であるライアット公爵家の三男で、わたくしとは幼馴染みのような間柄のトマス様でした。そして彼の腕には水色のドレスを着ている少女が縋りつくようにくっついており、今にも泣きそうな顔でわたくしを見ています。
ですが、それだけではありません。
二人の後ろには宮廷騎士団長の嫡男や神官長の次男、若くして伯爵家当主となったわたくしの従兄や弟の友人であり幼い頃はよく一緒に遊んだ子爵家の嫡男が、まるで汚いモノを見るような目でわたくしを見ているのです。いえ、睨んでいるのです。わたくし、何故彼等にそのような目をされるのか……解りません。もしや、自分でも気がつかないうちに、彼等を起こらせる様な事をしてしまったのでしょうか? 心当たりは……これっぽちもありません。
「婚約を破棄?」
「そうだ。お前のような底意地の悪い女を、妻に迎えるつもりはない。恥ずかしくないのかお前は? 立場の弱い相手に対し、侯爵家の権力を嵩に苛めるなど卑劣な真似をして」
「苛め? わたくしが?」
何の事だか解りませんわ――と、こてりと首を傾げたわたくしを見たトマス様の眉宇の皺が、さらに深いものとなりました。
「解らないだと? ふざけるなっ! 取り巻きを使ってやらせていただろうが。夜会で彼女のドレスに飲み物をかけたり、裾を踏み転ばせたり、王妹殿下主催の茶会で無視をしたり、彼女を貶めるような事を言って広げたり、散々してきただろうが。しらを切るのもいい加減にしろ! 下位貴族のエマが、侯爵家令嬢のお前に何も言えないのを解っていて、お前は散々彼女を苛めただろうが。なんて卑怯なんだお前は。胸糞悪い最低な女だ! さあ、今ずぐここでエマに謝れ!! 床に額ずき、彼女に許しを請え!!」
「ト、トマス様ぁ……」
目尻にうっすらと涙を溜め、エマというらしいその少女が、プルプルと頭を振り「わたしがいけないんです」と震える声で言えば、トマス様の眉尻が下がり彼女の腰を抱き寄せました。
「わ、わたしが婚約者のいるトマス様を好きになってしまったから……トマス様がわたしの想いに応えてくださったから……だからわたしがいけないんです。アイリーン様からトマス様を奪ってしまったんですもの、憎まれても当然です」
「あぁ、エマ。優しいエマ。だからといって、この女のした事は許せるものじゃないだろう? いやがらせだけならまだいいが、この女はきみを階段から突き落としたんだぞ。下手をしたらきみは死んでいたかもしれないんだ。それを許せというのか?」
「トマス様……」
ぽろぽろと彼女の瞳から涙が零れ落ちると、後ろで並んでいた彼等の怒気が増し、わたくしに対し耳に耐え難い汚い投げつけてきました。罵詈雑言――とでもいいましょうか……本当に貴族の子弟なのかと思いたいくらい、彼等の口から発せられるのは下品な言葉でした。
わたくし、本当に解らないのです。
何故わたくしが、大勢の前で糾弾されなくてはいけないのか。
そもそも、エマという彼女を、わたくしは今初めて見たのですから。
「トマス様」
「その名で呼ぶな! 虫唾が走る!!」
「……では、トーマスジェフル様。わたくしが彼女を苛めていた証拠や、階段から突き落とした証拠はあるのですか?」
「エマがそう言ったんだ。充分証拠になるだろう」
「はあ……」
あぁもう、ここまでバカだったとは……非情に残念です。末っ子ゆえ、お婆様や母君様に甘やかされて育てられたトマス様は、自意識過剰気味の少々我が儘な性格ではありました。ですが友人も多く、基本的に優しい方でありました。
上二人の兄君とは違い、おつむの出来があまりよろしくはありませんでしたが、まさか彼女の証言だけで、ここでこんな騒ぎを起こすなんて……本当に残念です。
あぁもちろん、残念なのはトマス様だけではありませんよ?
後ろの彼等もそうです。
この国の将来を担うはずの彼等でしたのに……本当にどうしてしまったのでしょうね? トマス様のおバカさんが感染してしまったんでしょうか?
周囲から向けられる好奇の目に、おもわず深い溜息をついてしまいました。それに対し、エマという少女がわざとらしく体をビクつかせたので、トマス様の視線がさらに厳しいものになりました。やれやれですわ。
「一つ質問なのですが……わたくしはいつから、その方を苛めている事になっているのでしょうか?」
「は? いつからだと? 二ヶ月ほど前からだろうが」
「そうですか。で、わたくしが階段から彼女を落としたというのは、いつの事なのでしょうか?」
「先々週の、マーヴェルク侯爵家の夜会でだ。白々しい。本当に最低だなお前は」
「先々週……そう、先々週ですか。わたくしが、彼女を、突き落とした―のですね? 先々週のマーヴェルク侯爵家の夜会で? 間違いないのですわね?」
「そうだ。エマ、そうだろう?」
「は、はい。落ちる瞬間振り返ったら、アイリーン様が……」
その時の恐怖を思い出したのか、ぶるぶると体を震わせる彼女を、トマス様は宥めるように抱き締め背中を撫でました。後ろの方達も、先ほど以上にギャンギャンとうるさいです。
本当に……本当に……なんて愚かな人達でしょう。
トマス様も他の皆様も、それに気がついていません。トマス様の腕の中で、顔を伏せた彼女の口端が少々上がっているのを……。
きっと彼女は、わたくしからトマス様を奪う事に成功したと思い、安堵し、気が緩んでいるのでしょう。己が勝利を確信したのでしょうね。ですが、勝負というのは最後の最後まで判らないもの。はっきりと勝敗が決まるまで、気を緩めてはいけないというのに……この方、ご存じないみたいね?
持っていた扇で掌を軽く打ちながら、どうしたものかと考えていると、第三者の声が割って入ってきました。
知らない声ではありません。
とても聞きなれた、涼やかで爽やかな、大好きな声です。
「それはおかしな話だね? アイリーン嬢が私と一緒に宗主国へ行ったのが三ヶ月前で、帰国したのが五日前だよ。だからそこの彼女に何かするなんて、アイリーン嬢にはできないんだけどなぁ」
「……殿下、何時だと思っているのです? 遅刻ですわよ」
「ごめんごめん。ちょっと宰相に掴まってしまってねぇ……時間通りに出る事ができなかったんだよ。で、やっとこちらに来てみれば、人垣ができているじゃないか。しかもきみがその中心で糾弾されているのだから、心底驚いたよ」
にこやかにそう言ったのはこの国の王太子であるクリストファー・ラヴィルス殿下で、彼はわたくしの横まで来ると、扇を持っていない左手を恭しく掬い上げ、手の甲にそっと唇を落としました。
「遅れて申し訳ない、アイリーン。我が麗しの姫君のご機嫌は……あまりよろしくないようだね」
くすりと笑って殿下は、顔を顰めるわたくしの頬にも唇を寄せました。目の前の彼等がその様子を見て固まっています。トマス様は目を大きく見開いており、エマとかいう少女は口をポカンと開けています。正直言って、呆れてしまうくらいのアホ面です。
「さて、一つ確認したいのだけれど……トーマスジェフル、いいかい?」
「は、はい!」
「きみはいつ、アイリーンと“婚約”したのかな?」
そう言って藍色の瞳を眇め、殿下はトマス様を見据えました。




