遠回りの恋
「あの人、恋人?」って好きな相手に訊くのって、結構勇気がいるんです。
女子会と称し月に一度か二度ほど、桝本 香也乃は同期数名と飲みにいく。場所は会社周辺の居酒屋の場合が殆どだが、たまに電車でちょっと行った先にある、カジュアルなイタリアンレストランの時もある。
今夜は前者であり、参加者は彼女を入れて六名であった。そこで愚痴をこぼしたり、恋バナや噂話に花を咲かせるのだ。六時ごろから飲み始め、大いに盛り上がり、十時過ぎにようやくお開きとなった。
香也乃の住んでいるアパートがある場所の最寄駅は、ここから電車で三十分ちょっとで近いのだが、駅からアパートまで徒歩で十五分はかかる。しかも線路沿いの寂しい細道を通らなくてはいけないので、ハッキリ言って色々な意味で恐い。なので夜遅くなる時は、高校の同級生であり今は会社の同僚でもある隣人に連絡をし、駅まで迎えに来てもらうのが常であった。
今夜も電車に乗ってすぐ、彼女は隣人にメールをした。いなければタクシーで帰ればいい――いつもそう思いながら、お願いのメールをするのだが……隣人からは、いつも了解の返事がくる。今夜もそうだった。
「でも、いい加減やめなきゃね」
とある噂を、今夜、香也乃は耳にしてしまった。
もしもそれが本当なら、隣人をこんな風に使うのは相手に悪い。
いくら何もなくても、自分達は男と女なのだ。
痛くも無い腹を、探られたくはない。
改札を抜け、ロータリーのある方の階段を下りる。右手側にあるコンビニの近くに、見慣れたダークメタルグレーのコンパクトカーが停まっていた。ひょいっと中を覗き込むと、隣人が雑誌を読んでいる。香也乃が来たことに気が付いていないようで、彼女はコツンとドアの窓ガラスを叩いた。パッと彼が雑誌から顔を上げ、助手席側の窓から中を覗き込んでいる香也乃と目があった。
ドアロックが外れる音がし、香也乃は少し迷ったものの、やはりいつものように助手席へと滑り込んだ。
「ありがとう。いつもごめんね」
「いいよ」
そう言ってエンジンをかけると、隣人はアクセルを踏んで車を発進させる。駅前のロータリーをゆるりと回り、パチンコ屋と居酒屋の間の細道を通って国道へと出た。
ちらり――と隣人を窺い見れば、相変わらず無表情である。作りは良いのだが、いかんせん表情に乏しく無口(ただし香也乃の前では違う)だ。そのせいで、恋人ができても長続きしないらしい。
もったいないと思う。
もったいないと思っていた。
そう、原因の一端を、自分が担っていたと知るまでは………。
「あのさ、秀平。その、ごめんね」
「あー?」
意味分かんねぇんだけど――と、隣人――窪崎秀平はちらりと香也乃を見た。
「今夜でさ、最後にするから」
「何が?」
「迎えに来てもらうの」
「は? ああ、もう女子会しないってこと?」
「や、それはやめないけど。秀平に迎えに来てもらうのをやめるの」
「何で?」
「何でって……」
カノジョに悪いからよ――そう答えた香也乃に、秀平は眉宇に皺を寄せた。
「カノジョに悪いって……なんだそりゃ。イミフなんだけど」
前を見ながら、秀平は呆れたように息を吐く。そこで香也乃は、自分との仲を疑って、彼が恋人に振られてしまっていた――という事実を知ったことを打ち明けた。
「は? 何だよそれ。アホらしい」
女って想像力逞しいのな――と、秀平は低い声で笑う。だがその後、二人して黙り込んでしまい、車内の空気がなんだか重い。香也乃はその重苦しさに耐え切れず、無意識に溜息をついてしまった。もちろん、秀平にそれは聞こえている。
ふと顔をフロントガラスの方へとやれば、視線の先に見慣れたアパートが現れた。ホッと今度は安堵の息を吐く。だが、何故かアパートの手前で、秀平は車を方向転換させた。
どこに向かっているのか、軽い方向音痴な香也乃にはさっぱり分からない。住宅街を突っ切って、車は再び国道へと出た。
「ちょっと秀平。どこに行くつもりよ」
駅とは逆方向に向かって、走っているのは分かる。が、目的地がどこなのか、見当すらつかない。
「邪魔の入らないトコ」
「はあ~?」
走ること二十分ちょい……二人の乗った車は、高速道路を下りた辺りに集中して建っている建物の、その中でもメルヘン具合が微妙なやつへと入っていった。一番手前にこれが建っていたからであって、秀平の趣味ではない。
「はい、下りて」
「下りてって、ここ……」
「うん。いいから下りて」
躊躇っている香也乃の腕を掴んで、秀平は彼女を車から下すと、逃げないように腰を掴んで階段を上がっていく。一部屋一部屋が独立しているので、入室前にフロントを通る必要がないのは嬉しい誤算だ。
背中を押されるように香也乃が中へと入ると、後ろで施錠する音がした。
「秀平、あんた何考えてるのよ」
「そりゃまあ、決まってるでしょ」
靴を脱ぎ、リビングのドアみたいなそれを開ければ、大人二人が寝ても大丈夫なベッドが、どどーんと正面に鎮座していた。その横には赤い革張りのソファと、白いローテーブルがあり、上にお菓子の入った皿が置かれている。
「悪いと思ってるなら、償ってよ」
「はい?」
そりゃあ悪いと思っている。だからといって、どうして体での償いを強要されなくてはいけないのだ。
「ふざけないでよ」
「大真面目だが?」
「あんた、恋人でもない相手と、平気でいたせるわけ? 最悪」
見損なったと睨みつければ、秀平は不快げに顔を顰めた。
「んなわけないだろ。香也乃だからに決まってる」
自分を睨む香也乃の腕を掴んで、秀平は強く引っ張ると、ベッドの上へ彼女を押し倒した。吃驚している香也乃に、ねっとりと口付ける。この一年弱、恋人がいなかった香也乃だ。久々のキスである。しかも今までしたキスの中でも、ダントツの心地良さだ。気がつけば秀平の背中に手を回し、彼とのキスに夢中になっていた。
香也乃の濡れた唇を親指の腹で拭いながら、秀平は自分を見上げる彼女の、そのうっとりとした表情に満足げに口端を上げた。
「誰から聞いたか知らないけど、俺、お前のせいで別れたことないぞ。仕事が忙しいし、メールとか電話とかもマメじゃないからあまりしない。下手すりゃ軽く一ヶ月は放置だ。だから相手が勝手に怒って、他に女がいるんじゃないかって疑って、面倒だからもういいよって別れるんだけどさ……別れた後、何故か全員お前に行きつくんだわ。不思議な事に」
実際、今の今まで二人の間にあったのは友情であり、仲間意識であり、けっして男女の濃密な仲などではなかった。
「こっちとしては、もう別れてんだから電話もメールもしてくんなって感じなんだけど、ネチネチ嫌味を言ってくるんだよね。しかもどんなに説明したって、理解してくれないんだよ。男女間の友情を信じてくれないわけ。ぎゃーぎゃー騒いでうるさいったらないんだ。ホント、ウザイっつーの」
でもまあ――と、秀平は続ける。
あながち間違ってはいないんだよね――と。
「女の勘って凄いよね。香也乃はさ、俺のこと友達って思ってるけど、俺はそうじゃないんだよ」
双眸を細め、秀平は目を見開いて自分を見上げている香也乃の頬を優しく撫でた。
「もしコクって、OKもらえたらいいよ。だけど振られたら、お前との関係も終わっちまう。そう思ったらすげぇ恐くてさ、好きだって言えなかった。それにお前、なんだかんだで、いつも男がいただろう? 別れても、すぐに新しいのができてたじゃんか。だから俺のことなんか、恋愛対象じゃないんだなぁって凹んでいたわけですよ」
「なっ、よく言うわよ。あんただって、いつも彼女いたじゃない」
アパートの壁は、それほど厚くはない。香也乃は恋人を部屋に呼ぶことはあっても、そこで抱き合うこともなければ泊めるなどありえない。
だが、秀平は違う。なので深夜、壁を蹴りたくなるような衝動に駆られたことが多々あった。彼の部屋は二階奥の角っこで、下は近くの会社の倉庫となっているので人は住んでいない。香也乃の下は夜中の仕事で、朝、香也乃が出勤する頃に帰ってくる。だから被害を被るのは、いつも彼女一人なのだ。
「自分が住んでいるのがアパートだって、あんた自覚あった? 無いでしょ。私がどんだけ迷惑していたか……声くらい抑えさせなさいよね。ひとが仕事が忙しい時に限ってあんたってば盛っちゃってさ、連日女連れ込んであんあん啼かせてさ、おかげで寝不足でぶっ倒れそうになったことが何回かあったんだからね!!」
本気で訴えてやろうかと思ったわよ――と、香也乃はギリッと奥歯を噛んで秀平を睨みつけた。
「そっか。んじゃ、俺が巧いのは証明済みってわけだ」
「は?」
ちょっと待て――と、香也乃は顔を顰めた。どうしてそうなるのだと。
「なあ、香也乃」
「な、何よ?」
「好きだ。高校の時から好きだった。お互いフリーだし、お前、俺で手を打っとけ」
「はあ!?」
「嫌か?」
「べ、別に、嫌じゃないけど」
そう……嫌ではないのだ。
香也乃も秀平と同じだった。
自分の気持ちに気がついたのは、高校三年の十二月だった。けれどその時、秀平にはカノジョがいたのだ。年上の、予備校で講師をしている大人な女性だった。告白する前に、香也乃は振られてしまったのだ。だからではないが、受験する大学も直前で変えてしまった。本当は秀平と同じ私大が第一志望だった。
大学に入り、秀平のことを忘れるために付き合った相手は、二つ年上のサークルの先輩だった。香也乃の初めては、全てこの彼だった。
その次に付き合ったのはバイト先の従業員で、香也乃が辞めるまで関係は続いた。
その次はバイト仲間の兄だった。この彼とは長く、彼が会社に就職した後も続いていた。だが、酔った勢いで幼馴染みと体の関係をもってしまい、彼女が妊娠してしまった。それが原因で別れることになったのだが、どうやらそれは彼の子ではなかったらしく、散々揉めたあげくようやく去年離婚が成立した。それを聞いて香也乃が最初に思ったことは「アホか」だった。
秀平と再会したのは、本社でおこなわれる最終面接でだった。
高校の卒業式以来で、精悍さが増した彼に、香也乃の心臓は爆発しそうだった。
もしかしたら……という、淡い期待が香也乃にはあった。
でも、それは研修最終日に打ち砕かれる。男女十数名で飲みにいったのだが、解散した帰り道、秀平と短大卒の同期とが腕を組んでホテル街に消えていくのを目撃してしまった。
やはり自分は恋愛対象外なのだ――と痛感し、その日から香也乃は、秀平の友達でいようと決めた。何故なら、友達ならずっと傍にいられるからだ。でも、ふとした時に、彼への想いがぶり返してくる。そうならないために、切らすことなく恋人を作った。
全ては、秀平を諦めるためだったのに……まさか相手も自分と同じ気持ちだったとは………。
「じゃあ決まり。今からよろしく、俺のカノジョさん。今夜は満足するまで付き合ってもらうから、覚悟しろよ」
「は?」
「好きだよ、香也乃」
綺麗に笑って、秀平は香也乃の首筋に顔を埋めた。
**********
高校の卒業文集に、座右の銘または好きな言葉を選んで書いたページがあった。
香也乃は好きな言葉を選んだのだが、秀平は座右の銘を選んだ。
それは――――――。
「有言実行……だったわね」
自分の横で穏やかな寝顔の秀平を、香也乃は酷く痛む腰を擦りながら見る。
「満足そうな寝顔だこと。まあ、あれだけヤれば当たり前か」
腰と同じく痛む喉を擦りながらパネルに手を伸ばし、室内の明かりをさらに絞り込む。もぞりと動いて寝返りをうった秀平にくっつくて、香也乃も眠るために目を閉じた。とくんとくんと規則正しい心音を聞きながら、「そういえば」とあることを思い出し目を開ける。
「私、秀平に好きだって言ってないわ」
そろりと彼の頬に触れ、眠る顔をじーっと眺めた。寝ていても、やはりイイオトコはイイオトコだと思った。
「ま、いいか」
朝、目が覚めたら、おはようの次にそれを伝えよう。
私もずっと、貴方のことが好きだったのよ――と。
翌朝、香也乃が付き合っていると思っていた年上のカノジョが、実は秀平の兄のカノジョだったと知り、暫くその場から立ち上がれなかった香也乃である。
もしもあの時、香也乃が勘違いしなければ、こんなにも遠回りしなくて済んだのかもしれない。
「そう言えばお前ってさ、生徒会役員とかクラス委員とかやってるから、かなりしっかりしてそうに見えたけど、実は結構早とちりで先生に怒られてたよな」
「……ソーデスネ」
くくくと喉を鳴らして秀平は、頬を膨らませ拗ねる香也乃を抱き寄せて、「そんなところも可愛いんだけどね」と甘く囁いた。