15話:後半
「唯、全体の進路を整理しなさい。西海岸まで直行し、そこから東へ折り返します」
「了解です!」
唯は防弾ベストの胸元を落ち着かなげに直し、小型端末の液晶画面を響の前に差し出した。地図上には、アメリカ本土を東西に貫く赤い通過線と複数のマーカーが点灯している。
「まず西海岸のロサンゼルスまで直行します。途中の補給拠点は6箇所。ノックスビル、クラークスビル、オクラホマシティ、アルバカーキ、フラッグスタッフ、トゥエンティナイン・パームズの各基地を経由して給油と弾頭の補充を行います。西端のロングビーチを落とした後は、内陸へ折り返してカンザスシティ、シンシナティ、アトランタを抜け、最終目標のニューヨークへ向かうルートです」
「分かりやすいですね。ただし、攻撃の手順は場所ごとに分けますよ」
響は空間ストレージから再び予備の魔石をつまみ出し、指先で弄びながら淡々と告げた。
「平原や砂漠、郊外の侵食孔は先ほどと同様、上空からの貫通投下で処理します。機体を降りる時間すら惜しいですからね。ですが、カンザスシティやシンシナティの中心街、そして最後のニューヨークのように、地下鉄網やビル群の基礎杭が密集している大都市部は別です。あのような場所でマッハ10の鉄杭を撃ち込めば、階層主を倒せても都市そのものが地盤沈下で崩壊します」
「ですね……ニューヨークのど真ん中でバンカーバスターなんてやったら、マンハッタン島が丸ごと水没しかねません」
「ええ。ですから都市部はヘリから地上へ直接降り立ち、足で潜って首を刎ねます。[剣術]の勘を取り戻すにはちょうどいいでしょう」
響は紫がかった魔石をひょいと口へ放り込むと、氷砂糖を噛み砕くようにボリボリと小気味よい音を立てて咀嚼し、喉の奥へ流し込んだ。体内の魔力が純粋なエネルギーとして瞬時に還元され、全身の細胞の奥底へじんわりと心地よい熱が満ちていく。
「……響さん、それ本当に固くないんですか……? あごの筋肉どうなってるんですか……」
隣でシートベルトを握り締めた唯が、顔を引きつらせてドン引きの眼差しを向けてくる。
「ただの栄養補給です。移動中に済ませておくのが一番効率的でしょう。唯、あなたも食べますか?」
「食べるわけないじゃないですか! 歯が全部粉々になりますって!」
必死に両手を振って拒絶する唯を一瞥し、響は操縦席の隔壁を軽く叩いた。
「パイロット、聞こえていますね。まずは第1中継地、テネシー州ノックスビルへ向かいなさい。補給が済み次第、西海岸へ向けて片っ端から片付けます」
青ざめたパイロットが「イ、イエス・マム!」と裏返った返事を絞り出すと、漆黒の機体はエンジンを高らかに唸らせ、夜の帳が降りる西の空へと機首を向けた。
ヘリの振動の中、ボリボリと最後の一粒を噛み砕いて嚥下した瞬間、響の頭蓋の奥で無機質な通知音が微かに響いた。
視界の端で明滅した半透明の文字列が、静かに数値を更新する。
【ステータス】
氏名: 響
レベル: 48 → 49
スキル:
[身体強化]Lv4
[剣術]
【鑑定】
[アイテムボックス](一部制限解除)
「……ふむ。通常個体の魔石だけでも、数を集めればそれなりに足しにはなるものですね」
日本で倒した魔物の魔石を溜め込んでいた分を消化し、レベルは49へ到達。大台であるレベル50を目前に捉えた状態となった。
響は指先に残った魔石の粉を軽く払うと、機内の壁面に背を預けていた米軍の連絡将校へ視線を向けた。
「少佐、1つ伝えておきます。先ほど上空から撃ち抜いた大穴の底――地下85メートル付近には、粉砕された階層主の巨大な魔石がそのまま埋まっています」
突然話しかけられた将校は、未だ衝撃の余波から抜けきらない顔で慌てて背筋を正した。
「は、はい……! 直撃地点の残骸についてですね?」
「ええ。私たちは先を急ぐので回収に立ち寄る暇はありません。後で工兵部隊でも送り込んで、瓦礫ごと掘り出しておきなさい。あなた方の国の研究機関にとっては垂涎のサンプルでしょう」
「了解しました、直ちに本国の統合作戦本部へ座標とともに打電し、現場の陸軍部隊に回収班の手配を要請します……! しかし、よろしいのですか? あなたが仕留めた獲物の戦利品ですが」
「構いませんよ。アメリカ全土を横断する間に、上空から落とす分はいちいち拾っていられませんからね。すべてあなた方に差し上げます。……まあ、ニューヨークのような大都市部ではヘリから直接降りて足を運ぶことになりますから、その時は現地でこちらの懐に収めさせてもらいますが」
淡々と言い放つ響の言葉に、将校は圧倒されたように喉を鳴らし、「感謝します、ミス・ヒビキ」と深く敬礼を返した。
MH-60のタービンが低く唸りを上げ、巻き上げられた砂塵と熱風がヘリポートのフェンスを激しく打ち据えていた。
カンザスシティ、ダウンタウン北西に位置するチャールズ・B・ウィーラー・ダウンタウン空港。かつて中西部の空の玄関口として機能していたアスファルトは各所で無残にひび割れ、すぐ南側にそびえる高層ビル群の影が、黒々とした異界の入り口のように横たわっている。
機内のスライドドアが勢いよく開け放たれると同時に、ミズーリ川から吹き付ける湿った風と、鼻孔を刺すような独特の鉄錆臭――侵食孔から漏れ出る濃密な魔力の瘴気がキャビンへと流れ込んできた。
響はシートベルトのバックルを外すと、一切の気負いもなくタラップへ足をかけ、荒れた舗装路へと直接降り立った。
◇
チャールズ・B・ウィーラー・ダウンタウン空港を後にした響と唯は、ミズーリ川にかかるブロードウェイ橋を猛烈な速度で駆け抜け、カンザスシティの心臓部へと足を踏み入れていた。
目の前に広がるダウンタウンの光景は、もはや近代都市のそれではない。無数の放置車両が多重衝突を起こして道路を塞ぎ、砕け散ったガラス片とコンクリートの粉塵がアスファルトを白く染めている。ビルの谷間からは紫黒色の瘴気が濃密な靄となって立ち込め、耳を澄ませば逃げ惑う人々の絶叫と、異形の咆哮が反響していた。まさしく、ダンジョン内部から溢れ出した魔物と感染者によるスタンピードの直後そのものだった。
「響さん、あそこ! 完全に崩壊してます!」
唯が前方を指差す。幹線道路の先、大破した大型ワゴン車の陰で、1人の女性が膝を抱えて激しく震え上がっていた。身に纏う上質なシルクのトレンチコートは泥に汚れ、ウェーブがかったプラチナブロンドの長髪が乱れ飛んでいる。そのすぐ背後からは、腐臭を漂わせるゾンビの群れと、筋繊維を剥き出しにした中級魔物『ブラッドハウンド』の巨躯が、牙を剥いて今まさに飛びかからんとしていた。
「唯、周囲の退路を確保しなさい」
「了解!」
響は踏み込んだアスファルトを粉砕しながら地を蹴った。[身体強化]と敏捷性の爆発的な解放により、その姿は一瞬で残像と化す。
ポケットから掴み出したのは、重厚な金属の輝きを放つ無数のパチンコ玉。
シュッ、シュッ、シュッ――!
響の指先から放たれたパチンコ玉は、超音速の銃弾となって大気を切り裂いた。正確無比な連射が、女性へと手を伸ばしていたゾンビたちの額を寸分の狂いもなく貫通し、次々と脳漿を撒き散らして吹き飛ばしていく。
間髪を入れず、横合いから飛びかかってきたブラッドハウンドの牙が女性の喉首へ迫る。
「下がりなさい」
響の低い声が響いた刹那、女性の目前へ滑り込んだ響の鋭利な回し蹴りが、魔物の顎下へ直撃した。
――ドゴォッ!!
強烈な衝撃波とともに、体重200キロを超える獣の巨躯が無残な骨砕音を立てて真上へと蹴り上げられ、10メートル以上後方のビル壁面へと叩きつけられて圧殺された。
間一髪、死の淵から引き戻された女性の身体を、響は細い腕で軽々と抱きかかえ、そのまま跳躍して放置車両の屋根の上へと退避させた。
「大丈夫ですか」
優雅さすら漂う冷徹な声で響が問いかけると、腕の中で目を見開いていた女性は、恐怖と混乱に濡れた大きな碧眼を瞬かせた。
整った顔立ち、圧倒的な華やかさを宿したその美貌――世界で最もその歌声を知られ、グラミー賞を幾度も総なめにしてきた全米屈指の大物歌手、ステラ・ヴァレンタインその人であった。
「あ、ありがとう……! 神様、本当にありがとう……! 私、もう死ぬかと思ってて……」
放置車両の屋根の上で、ステラ・ヴァレンタインは震える手で響の腕を握りしめ、涙を流しながら幾重もの感謝の言葉を紡ぎ出した。世界中のスタジアムを熱狂させてきた奇跡の歌声は、極限の恐怖によってかすれ、途切れ途切れになっていた。
だが、救助した当の本人はその輝かしい素性にも、熱烈な感謝の言葉にも一切の興味を示さない。
「あー、その、英語はちょっとアレなんで……ハハ、細かい話は抜きにして、とりあえず安全なところまで運ぶからよろしく!」
響は短く告げるや否や、ステラの華奢な身体を小脇に抱え直した。
「え、あ、ちょっと――きゃあっ!?」
ステラの短い悲鳴を小脇に抱え込み、荒れたアスファルトを蹴り飛ばしながら、響は疾風のごとく加速した。
「君、観光客か何かのイベントでも見に来たのかもしれないけど、今はそういう時じゃないからね。気を付けるんだよ!」
真剣味を帯びた、しかしあまりに的外れな忠告が、風切り音とともにステラの耳朶を打った。世界中で顔を知られる歌姫を、ただの呑気なイベント見物客と完全に勘違いしたまま、響は瓦礫の山をものともせず跳躍していく。
猛烈な速度で並走してきた唯が、響の小脇に抱えられた女性の顔を凝視しながら、目を見開いて声を張り上げた。
「響さん、あの人! 私、絶対にどこかのテレビとかネットで見たことあるんですけど!? 超有名人じゃないですか!?」
「そうなのか? 俺はさっぱり知らねえな。金髪の派手な姉ちゃんにしか見えんぞ」
響は前方のバリケードから一切視線を逸らさず、あっけらかんと言い放った。3年半の異世界転生から帰還し、現代日本の芸能界や洋楽の流行など露ほども知らぬ響にとって、抱えている女は「ちょっと身なりのいい一般人の避難遅れ」以上の何者でもなかった。
「周囲を全部安全地帯に変えるぞ」
響は土嚢の上にステラを下ろすや否や、踵を返して瓦礫の散乱する交差点のど真ん中へと歩み出た。
ポケットへ突っ込んだ両手から、銀色に光るパチンコ玉が無造作に掴み出される。次の瞬間、彼女の両腕の輪郭が完全にブレ、空間そのものが千切れ飛ぶような残像へと溶けた。
――ババババババババババンッッ!!
耳朶を劈く連続の轟音は、もはや重機関銃の掃射どころではない。音速の壁を幾重にも引き裂く極超音速の鉄球が、360度の全方位へ向けて狂気的な密度で弾き飛ばされた。
飛来したパチンコ玉は大気摩擦の閃光を引き連れ、うごめく異形の群れを精密機械の如き正確さで貫いていく。額を、心臓を、頸椎を撃ち抜かれたゾンビや魔物たちは、倒れる猶予すら与えられない。運動エネルギーの過剰な大爆縮によって内側から肉体ごと破裂し、ボン、ボン、と鮮血の霧を撒き散らしながら次々と血煙の華へと散っていく。
バリケードの陰で銃を構えていた米軍兵士たちも、息を呑んで見つめるステラも、自らの目を疑うことしかできなかった。そこにあるのは銃撃戦でも格闘戦でもない。ただ1人の華奢な東洋の少女が立ち尽くし、その周囲数百メートルの生ける屍と魔獣が、視認すらできない暴力の嵐によって文字通りの塵芥へと変えられていく、理外の殺戮領域だった。
目指す先は、ダウンタウン北部の交差点に敷設されていた米陸軍と州兵の即席前線バリケードだ。土嚢と装甲車で固められたその陣地へ、響はビルの谷間から弾丸のような勢いで飛び込んだ。
銃口を向けようとした警戒兵たちの目の前で、響は急制動をかけてピタリと足を止めた。そして、小脇に抱えていたステラ・ヴァレンタインを、土嚢の上にふわりと降ろす。
「保護対象の民間人です。そちらで収容しなさい」
呆気にとられる兵士たちを尻目に、響は乱れた衣服の裾を整え、何食わぬ顔で踵を返す。
「……あー、ちょっと待て。完全にやらかしたな。俺、この街の土地勘が1ミリもねえわ」
「はぁッ!? ちょっと響さん、今さら何言ってるんですか! 私が英語ペラペラでアメリカの地理に詳しいとでも思ってたんですか!?」
唯が両手で頭を抱えて激しく喚き散らすと、その背後から、わずかに震えを含みつつも凛とした、鈴を転がすような美声が割り込んできた。
「あの……つたない発音ですけれど、私、少しだけ日本語を話せます。命を救っていただいたお礼に、もしご迷惑でなければ、この街をご案内いたしましょうか?」
「そいつは助かる。代わりと言っちゃなんだが、あんたの身の安全は俺が死んでも守り抜いてやる。案内を頼めるか?」
響がそう言い切ると、ステラは胸元を押さえ、こわばっていた表情を緩めて小さく微笑んだ。
「もちろんよ。命を救ってくれたあなたのためなら、喜んで」
「唯、背後の警戒を頼む。絶対に彼女から目を離すな」
「了解であります! 響さんの背中に張り付いていれば、世界で一番安全ですから!」
響は前方の廃墟へ向けて冷徹な視線を据えると、思考の深層で自らの権能を強く呼び起こした。
(――【鑑定】。ダンジョンの核、この街のボスが陣取っている方角と現在地を割り出せ)
思考の展開に即座にシステムが反応し、網膜の奥に半透明の淡い青光を帯びたウィンドウが滑らかに展開する。
【鑑定結果】
対象領域: カンザスシティ中央侵食孔
階層主: カタストロフ・アースシェイカー(第5階層・深部)
現在位置: 方角・南南東、直線距離にして1,240メートル
深度: 地下45メートル(旧地下バスターミナル複合連絡網・中央空洞)
詳細: 周辺の支持地盤および高層建造物の基礎杭と癒着。地上直上からの質量投擲による物理貫通は広域地盤沈下を誘発するため不可。アクセス推奨:グランド・ブルバード南進、陥没裂開部からの直接降下。
「南南東へ約1.2キロ……地下の巨大バスターミナル跡か」
得られた情報を呟いて整理した響は、視線をステラへと戻した。
「ステラさん、ここから南南東へ向かう最短ルートで、大きな地下ターミナルへ降りられる場所は頭に入っているかい?」
響は戸惑うステラの腰と膝裏へ迷わず腕を差し入れ、羽毛でも扱うかのように軽々と横抱きに抱え上げた。
反射的に首元へすがりついてきたステラの身体に余計な負荷がかからぬよう、足首と膝のクッションを精密に利かせながら地を蹴る。常人の全力疾走を遥かに凌ぐ巡航速度を維持しつつ、衝撃を完全に吸収した滑らかな足運びで、整然と区画された大通りを南へと直進していった。
直角に交差する碁盤の目のような街並みを見渡し、響は小さく呟いた。
「すげえな。ほぼサイコロ状に道ができてんじゃねえかよ」
崩落した瓦礫や立ち往生した車両の隙間を軽やかに飛び越え、南下を続けること数分。一行の目の前に、目的地である旧中央バスターミナル跡が姿を現した。
地盤の崩落によってすり鉢状にぽっかりと口を開けた巨大なクレーター。ねじ曲がった鉄骨と砕けたコンクリートの裂け目からは、紫黒色の濃密な瘴気が立ち上り、地下深部から大地を軋ませる重苦しい地鳴りが絶え間なく響き渡っていた。目的地である第5階層深部への入り口に、響たちは一切の障害を寄せ付けることなく到達した。
「ステラさん、ここは俺たちと一緒の方が安全だから、一緒についてきてもらうよ。いいかな」
響は腕の中のステラをゆっくりと地上に降ろし、大穴の底から吹き上がる紫黒の瘴気を見据えたまま静かに問いかけた。
ステラは乱れた髪を指先で押さえ、漆黒の深淵から響く重苦しい地鳴りに一瞬だけ身をすくめたものの、響の落ち着き払った横顔を見つめ、迷いを振り払うようにしっかりと頷いた。
「ええ、もちろんよ。あなたたちの側にいるのが、今の世界で一番安全だって分かっているから。足手まといにならないよう、指示には全部従うわ」
「物分かりが良くて助かる。唯、彼女を中央に挟んで突入陣形を組むぞ」
「了解です! ステラさん、私の斜め後ろにぴったりくっついててくださいね!」
唯が二振りのコンバットナイフを音もなく抜き放ち、警戒の切っ先を地下へのスロープへ向けた。響は腰の刀の鯉口を親指で静かに弾き、崩落したアスファルトの斜面を一歩ずつ踏みしめながら、第5階層の深淵へと足を踏み入れていった。
「唯、ステラさんが見てるからな。お上品に行くぞ」
地下45メートル、旧中央バスターミナルの巨大な基幹空洞へと通じる崩落スロープを降りながら、響は背後の唯へ向けて釘を刺すように言った。
紫黒の瘴気が渦巻く広大な円形ホールの最奥。砕け散ったコンクリートとねじ曲がった鉄骨の山の上に、体長10メートル、体重18トンを超える凶悪な異形の魔獣――階層主『アビス・カトブレパス』が君臨していた。低く垂れ下がった醜悪な頭部、鉛色にぎらつく分厚い鱗毛、そして頭骨から禍々しくねじれ伸びた4本の巨大な漆黒の角。巨躯が息を吐き出すたびに、足元のアスファルトがジュッと音を立てて腐食していく。
息を呑んで立ちすくむステラの目の前で、唯は両手のコンバットナイフを構え直し、姿勢を正した。
「了解です! 暴言もお下品な言葉も封印して、スマートに無力化します!」
「ああ、そうしてくれ。一般人を怖がらせてどうする」
響が前方を睨んだまま言うと、背後のステラは、怪物の放つ濃密な威圧感に青ざめながらも、響たちの落ち着き払った態度に驚き、か細い声を絞り出した。
「あ、あの……私のことは気にせず、ご自身の安全を最優先にしてください……!」
「心配いらないよ。危ないから、唯の真後ろから一歩も動かないでね」
響はステラへ向けて優しく声をかけると、腰の刀の柄に手をかけ、静かに重心を低く落とした。
「唯、突っ込んでくるぞ。奴が前足を上げた瞬間に、後ろ足を「足カックン」させて転ばせる。ひっくり返したらこちらの虐殺、あいや……討伐だ!」
響が低く指示を飛ばした直後、アビス・カトブレパスが地下空洞を震わせる重低音の咆哮を轟かせた。
ズシン、と巨躯を支えていた前足を大きく振り上げ、鉛色にぎらつく四本角を頭上へ掲げる。巨体特有の質量による圧殺攻撃――二足立ちの体勢に入った瞬間、腹下と膝関節の防御が完全にガラ空きになった。
「了解です! お上品に、関節ぶち折って転がします!」
唯が身を低く沈めて前進し、魔獣の巨大な足元へと滑り込んだ。
アビス・カトブレパスの後ろ足の膝裏、腱が剥き出しになった急所へ向けて、唯の鋭いローキックが的確に叩き込まれる。
――ゴキッ!
鈍い衝撃音が響き渡る。10メートルを超える巨体を支えていた片足の関節が内側へ「カックン」と折れ曲がり、二足立ちで不安定極まりなかった巨獣のバランスが呆気なく崩壊した。
「グオォッ……!?」
驚愕に濁った声を上げながら、背中から無様にひっくり返るアビス・カトブレパス。その無防備極まる腹部と、喉仏の装甲の継ぎ目が、地下ホールの天井へ向けて完全に晒された。
「よし、綺麗に転がったな」
響は慌てることなく、普段と変わらない歩調で仰向けに倒れた巨獣の首元へと歩み寄った。
無防備に晒された喉元を見下ろし、腰の刀を滑らかに引き抜くと、力を込めすぎることもなく自然な動作で切っ先を真下へと突き立てる。
――スッ……。
抵抗もなく、喉の継ぎ目から急所へと正確に吸い込まれた刃。
絶命の瞬間、アビス・カトブレパスの巨躯は激しい痙攣ののち、輪郭を淡い紫紺の光の粒子へと変えていった。
肉塊が飛び散ることも、周囲を血で汚すこともない。10メートルを超える巨体は音もなく無数の光の粒となって天井へと溶け去り、クレーターの底には、一切の傷がない拳大の極上紫黒魔石と、丁寧に処理されたブロック状の上質な魔肉だけがコロンと転がり残された。
「ふう、お見事。これで一丁上がりだ」
響は刀を鞘へと納め、転がった魔石を拾い上げた。背後では、ステラが信じられないものを見るように目を見開き、息を呑んで立ちすくんでいた。
「ステラさん、掃除は済みました。戻りましょう。さっきの部隊がいる防衛ラインまで送り届けます」
響は光の粒子が消え失せた床から魔石と魔肉を拾い上げ、アイテムボックスへと放り込みながら声をかけた。
呆然と立ち尽くしていたステラは、その淡々とした声で我に返ったように肩を揺らし、すかさず響の正面へ駆け寄ってきた。胸元のポケットから取り出した薄型のカードを、両手で差し出す。
「あの、これ……私の個人的なホットラインです。番号も端末も完全に直通で、私本人しか出ません。滞在費でも移動手段の手配でも、私にできることなら何一つ遠慮はいりませんから、困った時は迷わず連絡をください」
差し出された艶消しの金属製カードを受け取り、響は軽く裏表を検分して片眉を上げた。
「へえ、要するに『暇になったらいつでも遊びにおいで』ってことですか?」
「っ……! もちろんプライベートでも大歓迎です! 全米どこにいても、あなたが呼んでくだされば最優先で時間を空けます!」
世界の歌姫とは思えない必死な食い下がり方に、響は小さく吹き出し、カードをジャケットのポケットへ滑り込ませた。
「ありがたく頼りにさせてもらいますよ。――唯、戻るぞ。米軍の連中が首を長くして待ってる」




