2話:感染するパニックと群がる影
朝の光がカーテンの隙間から差し込み始めた頃、安藤響は壁に背を預けた姿勢のまま、正確に意識を覚醒させた。
睡眠時間はわずか3時間。だが、戦場で叩き込まれた体内時計は、疲労の芯を削ぎ落として即座に戦闘態勢をとるに足る覚醒度を維持していた。
静まり返った室内で、ベッドの上では葵がまだ規則正しい寝息を立てている。
響は物音を立てずに立ち上がり、足腰の連動を確かめた。筋肉の軋みは昨夜よりもわずかに和らぎ、女性の骨格にシフトした重心の制御も、睡眠を挟んだことで神経系に馴染み始めている。
部屋の隅に置かれた小型のテレビが、不意に小刻みな機械音を立てて点滅した。タイマー設定だったのか、朝7時の時事ニュースを告げるアナウンサーの硬い声が、控えめな音量で静寂を破る。
『――続いてのニュースです。昨夜未明、東京都板橋区内の路地裏で、身元不明の変死体が発見された事件について、警視庁は先ほど現場周辺の規制線を拡大しました。現場付近には広範囲にわたる動物性の損壊痕が確認されており、付近住民に対し、夜間の不要不急の外出を控えるよう呼びかけています。また、練馬区および豊島区でも同様の事案が――』
画面には、ブルーシートで厳重に囲まれた雑居ビルの路地裏と、赤色灯を明滅させる多数のパトカーが映し出されていた。響が昨夜、拳で頸椎を砕いてゴミ箱の裏へ蹴り込んだ現場そのものだ。
「……ん……ニュース……?」
テレビの音声に反応し、葵がベッドの上で身じろぎをして目をこすりながら起き上がった。
ぼんやりとした視線で画面を捉えた瞬間、彼女の身体が強張る。
「これ……昨夜の、あそこですよね……?」
「ああ。見つかったようだな」
響が答えると同時に、葵の枕元に置かれていたスマートフォンがけたたましくバイブレーションを響かせた。
葵が慌てて画面をタップする。SNSの通知が堰を切ったように雪崩れ込んできていた。
「なにこれ……タイムラインが、全部……!」
葵が震える指で画面をスクロールしていく。
画面には、テレビの報道規制を嘲笑うかのような生々しい映像とテキストが、無数のアカウントによってリアルタイムで拡散されていた。
『板橋の路地裏の動画、消される前に保存した。完全に人間じゃない化け物の死体だったぞ』
『豊島区の住宅街でも同じやつ出た。警察の拳銃で撃たれても平然と警官に飛びかかってた』
『あれ熊じゃない、皮膚が腐ったゾンビ犬みたいなやつだ』
『政府は隠蔽やめろ! もう都内各地に出没してるぞ』
深夜の時点では即座に削除されていた投稿が、発生件数の急増によって検閲の限界を突破し、爆発的な拡散を起こしていた。怪異の姿を捉えたブレブレのショート動画が数万リツイートを記録し、掲示板には「都内封鎖」「戒厳令発令か」といった不穏なデマが飛び交っている。
そして、その恐怖は瞬く間に現実の行動へと直結した。
ピロリン、と葵のスマートフォンに店舗用連絡アプリから緊急のメッセージが着信した。
画面を覗き込んだ葵が息を呑む。
「店長からだ……『今すぐ店に来てくれ、客が殺到してパニックになってる』って……!」
「パニック?」
「みんな、外に出られなくなると思って買い占めに走ってるんだ……! うちの店、駅前の大通りに面してるから……」
葵は慌ててベッドから飛び起き、顔を洗う間も惜しんで部屋着の制服を整え始めた。
昨夜の怪異を間近で目撃した恐怖は残っているはずだが、職場が非常事態に陥っているという現実が、彼女の足を突き動かしていた。
「響さん、私、行かなきゃ……! ここにいてくれて構いませんから、鍵は――」
「俺も行く」
響は即座に遮り、壁際に置いていた刀を手に取った。
黒いパーカーのジップを喉元まで引き上げ、短刀がポケットの中で固定されているのを確認する。
「えっ……でも、危ないですよ!? 外は今、大混乱で……」
「人がパニックを起こしている場所には、混乱と隙が生じる。そして、そういう場所の臭いに惹きつけられて現れるのが、あいつらだ」
異世界の戦場で、難民の群れや物資補給拠点が魔獣の格好の標的になる光景を、響は嫌というほど見てきた。群衆の恐怖と混乱の気配は、捕食者にとって何よりの呼び水となる。
「それに、俺の目的は街の情報収集だ。家に閉じこもっていては始まらない」
長身を翻し、響は玄関のドアノブに手をかけた。10代後半の凛々しい横顔には、歴戦の戦士だけが持つ冷徹な覚悟が宿っていた。
◇
通りに出た瞬間、街の空気は昨日までとは一変していた。
平日の朝にもかかわらず、通勤客の姿はまばらで、行き交う人々は一様にスマートフォンに視線を落とし、小走りで移動している。道路には買い出しに向かう自家用車が列をなし、交差点ごとに苛立ちのクラクションが響いていた。
葵が勤める駅前通りのコンビニエンスストア――『ファミリート』のガラス張り店舗が見えてきた瞬間、響は目を細めた。
自動ドアの前に、30人以上の長蛇の列ができている。
店内は身動きが取れないほどの人で埋め尽くされ、怒号と悲鳴が入り混じっていた。
「おい! なんで水がもうねえんだよ!」
「奥から在庫を出せ! 隠してんだろ!」
「押さないでください! 順番です!」
店長の悲痛な叫び声は、棚の争奪戦を繰り広げる客たちの熱気に完全に掻き消されていた。
即席麺、レトルト食品、ペットボトルの飲料水、トイレットペーパーの棚はすでに完全に空になり、客たちはパンの残骸や日持ちのしない総菜にまで手を伸ばして奪い合っている。床には踏み荒らされた菓子や割れた瓶が散らばり、レジのバーコードリーダーの電子音が狂ったように鳴り響いていた。
「ひどい……こんなの、開店以来見たことない……」
葵が青ざめた顔で立ち尽くす。
その時、響の研ぎ澄まされた感覚が、群衆の怒号の隙間に混じる「異質な振動」を捉えた。
路面から伝わる、微かな爪の軋み。
そして、昨夜嗅いだものと同じ、アスファルトの隙間から立ち上るような生々しい腐敗の悪臭。
響は葵の肩を掴み、店舗の裏口へ向けて低く命じた。
「葵、裏から入れ。店長に合流しろ」
「え……響さんは!?」
「言ったはずだ。混乱の場には、あいつらが集まるとな」
響はパーカーのポケットに手を滑り込ませ、短刀の柄を指先で弾いた。
長蛇の列を作る群衆の背後――店舗脇の薄暗い搬入路の影から、喉を鳴らすような低く濁った唸り声が、コンクリートを震わせ始めていた。
◇
搬入路の薄暗い影から、アスファルトの上へふらりと足を踏み出したのは、一見すると見慣れたスーツ姿のサラリーマンだった。
だが、その身なりは異様を極めていた。
擦り切れ泥に汚れたワイシャツは胸元から引き裂かれ、露出した皮膚には無数の引っかき傷と噛み跡が赤黒く爛れている。顔面の半分は乾きかけた血糊に覆われ、焦点の合わない濁った眼球が、不規則に宙を泳いでいた。
喉の奥から漏れ出るのは、言葉にならない湿った唸り声。
足首を不自然な角度に引きずりながら、男はゆっくりと、だが迷いのない歩調で、店舗前の長蛇の列へと向かって歩き始めた。
「……おい、なんだあいつ」
「うわ、血まみれじゃん……近寄んなよ……!」
異様な異臭と男の風貌に気づいた数人が、嫌悪感を露わにして身を引いた。
しかし、その程度の警戒心では遅すぎた。
男の濁った両目が、目の前で身動きを奪い合っている群衆を捉えた瞬間、その緩慢だった動きが一変する。
喉を震わせる獣のような咆哮とともに、男は前方の列へ向けて猛然と跳躍した。
「ぎゃあああっ!?」
先頭にいた中年男性の肩口に、男の黒ずんだ爪が深々と突き立てられる。骨が軋む鈍い音とともに男の顎が大きく開き、防ぐ間もなく男の首筋へと噛みついた。肉が引きちぎられ、動脈から鮮血が噴き上がってアスファルトを赤く染める。
その凄惨な光景を目にした瞬間、コンビニ前の秩序は完全に崩壊した。
「ひ、人喰い……!?」
「逃げろ! 逃げろぉっ!!」
「押すな! どけ、俺が先だ!!」
狂乱の叫び声が連鎖し、数十人の群衆が我先にと逃げ惑う。
後方へ蜘蛛の子を散らすように駆け出す者、恐怖に駆られてガラスの自動ドアを無理やり押し破り、店内の人混みへ割り込もうとする者が入り乱れ、転倒した者が容赦なく踏みつけられる地獄絵図が広がった。
だが、本当の悪夢はそこからだった。
首を食いちぎられ、血の海に倒れ伏していたはずの中年男性の四肢が、不自然な痙攣を始めた。
わずか数秒。傷口から滲み出る血が赤黒く変色し、皮膚が急速に土気色へと腐食していく。
男の喉から「ぐ、あ……」と濁った呼気が漏れ出た瞬間、白目を剥いたその身体が、関節を軋ませながら跳ね起きるように立ち上がった。
噛まれた人間が、その場で同じ異形の「ゾンビ」へと変貌を遂げたのだ。
「うそだろ……!?」
「増えたぞ! 噛まれたやつが立ってる!!」
逃げ遅れた女性の足首を、新たに立ち上がった怪物が掴み倒す。悲鳴を上げる間もなく、2体のゾンビが覆い被さり、肉を貪り食う咀嚼音が朝の駅前通りに響き渡った。
「葵、入ってシャッターを下ろせ!!」
響は叫びざま、腰の短刀を逆手に引き抜いた。
群衆のパニックを掻き分け、感染の連鎖が爆発的に広がる最前線へと、迷いなく地を蹴った。
◇
響は短刀を構えたまま地を蹴り、狂乱する群衆の隙間をすり抜けると、降下し始めた金属製シャッターのわずかな隙間へと身を滑り込ませた。
アスファルトの上を低く滑走するようなスライディングで店内に滑り込み、直後に金属が床と激突する重い衝撃音が背後で響く。
ガシャンッ!!
店長が内側の非常停止ボタンと手動ロックを狂ったように叩き込み、頑丈な金属板が外の世界とコンビニの空間を完全に分断した。
店内には、荒い息遣いと押し殺した嗚咽だけが満ちていた。
生き残ったのは、レジ周辺に逃げ込んでいた4名の客、顔面を蒼白にして震える葵、油汗を流して膝をつく店長、そして滑り込んだ響の計7名。
店内の惨状は凄まじかった。
先ほどの争奪戦で什器は無残になぎ倒され、スチール製の棚が通路を塞ぐように斜めに傾いている。床には踏み潰されたおにぎりや破れたスナック菓子の袋、割れた清涼飲料水のペットボトルから漏れ出た液体が泥のように混ざり合い、異様な甘酸っぱい臭気を放っていた。商品棚はどこを見渡してもほぼ空で、残っているのはわずかな乾物や賞味期限の切れた日用品の類いだけだった。
ガシャガシャガシャッ!!
次の瞬間、下ろされたばかりのシャッターが外側から激しく打ち鳴らされた。
ドンドン、と拳や爪を叩きつけるような鈍い音と、何重にも重なる濁った唸り声。薄い金属板が一撃ごとに歪み、振動が床を伝って足裏に届く。
「ひぃっ……!」
逃げ遅れたサラリーマンの男性が、崩れた雑誌ラックの陰へ這うように身を引いた。子供を連れた母親が、泣き声を上げようとする我が子の口を必死に手で塞ぎ、店内の蛍光灯が不気味に明滅する下で小さく震えている。
「あ、あいつら……シャッターを破って入ってくるんじゃ……」
店長が掠れた声で呟き、レジカウンターに手をついて必死に呼吸を整えようとしていた。
響は乱れる息を即座に殺し、逆手に構えた短刀を腰へ戻すことなく、静かに立ち上がった。
シャッターの継ぎ目から漏れ入る外の気配へ耳を澄ませる。叩く音のリズムは不規則で、道具を使っている様子はない。だが、その数と異様な筋力による打撃は、確実に金属の留め具へ負荷をかけ続けていた。
「破られるまでに、多少の猶予はある。だが――長居できる場所じゃないな」
響の低く冷徹な声が、パニック寸前の薄暗い店内に硬く響いた。
◇
「全員、黙って聞け!」
響の鋭く通る声が、パニック寸前の店内に響き渡った。
若い女性の澄んだ声帯でありながら、そこに含まれる圧倒的な覇気と威圧感に、泣き崩れかけていた客も、震えていた店長も反射的に息を呑んで顔を上げた。
「怯えて縮こまっている暇はない。シャッター一枚に頼るな。外の奴らの筋力なら、歪んだ隙間からガラスごと突き破ってくるぞ」
ガシャガシャガシャッ、と外側から金属板を揺らす衝撃音が響き、シャッターのレールが悲鳴のような軋み音を上げる。
響は逆手に持った短刀を素早く鞘へ納めると、一番手前に倒れていた大型のスチール棚の支柱を片手で掴み上げた。
「動ける奴は全員立て! 店内のスチール棚を全部、入り口のガラスとシャッターの内側に押し付けるんだ。倒して重ねて、即席のバリケードを作れ!」
「え、で、でも……っ!」
サラリーマンの男が腰を抜かしたまま狼狽するが、響は容赦なく冷徹な眼光を突き刺した。
「死にたくないなら手を動かせ! あいつらの侵入を1分でも遅らせる壁を作るんだ。葵、店長、そこの飲料ケースと雑誌ラックを運べ! 男2人は俺と一緒にこの什器を押すぞ、早くしろ!」
「は、はいっ!」
葵が真っ先に声を絞り出し、床に散らばる缶飲料のコンテナを入り口目掛けて引きずり始めた。その行動に引きずられるように、店長も油汗を拭いながらレジ横の頑丈な什器へと駆け寄る。
「う、うおおっ……!」
サラリーマンと、もう一人の若い男性客が慌てて立ち上がり、響が指示したスチール棚に取り付いた。
一般成人男性を遥かに凌駕する筋力を持つ響が先頭で棚の底面を持ち上げ、一気にガラス面へと押し込んでいく。
ガタガタと音を立てながら、高さ2メートルのスチール棚が入り口のガラス戸とシャッターを裏打ちするように密着した。
間髪入れずに、響は隣の陳列棚を横倒しにしてその根元へ噛み合わせ、さらに葵と店長が運んできた重量のある飲料ケースを隙間に隙間なく詰め込ませた。
外側からの激しい打撃音が、スチール棚の骨組みに伝わって鈍い金属音へと変わる。
直後、メキリとガラスの軋む音が響いたものの、何重にも組み合わされたスチールとケースの重量が衝撃をガッチリと受け止め、外からの圧力を食い止めた。
「よし……これで正面からの即座の突破は防げる」
響は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、息を整える生存者たちを一瞥した。
しかし、その視線は一切の油断なく、すでに店舗の奥――バックヤードと非常口の方向へと向けられていた。
ピロリロリン、ピロリロリン――。
静寂を取り戻しかけた店内に、甲高い警告音が不協和音となって一斉に鳴り響いた。
生存者たちのポケットやバッグの中から、けたたましい電子音が重複して空間を震わせる。
「ひっ……な、なんだ!?」
サラリーマンの男が怯えたように懐からスマートフォンを取り出し、葵も制服のポケットから端末を握りしめた。
響の視界の端でも、生存者たちの顔が一様に青白い画面の光に照らし出される。
画面の最前面にポップアップ表示されていたのは、政府と自治体から発令された緊急速報メールだった。
『【緊急速報】国民保護情報および避難指示発令
都内広域において、暴徒化した感染者による重大な人的被害が多発しています。
住民の皆様は、直ちに不要不急の外出を控え、自宅または近隣の強固な屋内施設に身の安全を確保してください。
・過剰な買い占め、買いだめ行為は厳に控えてください。混乱を助長し、現場の治安維持に支障をきたします。
・屋外にいる方は速やかに身を隠し、自治体が指定する安全な広域避難所、または堅牢な公共施設への避難経路を確認の上、誘導に従って避難してください。
・感染者とみられる人物には決して近づかず、警察および自衛隊の指示に従ってください』
「避難指示……? 買いだめを控えるようにって、もう遅いよ……」
葵が掠れた声で呟き、力なく画面を見つめる。
液晶に表示された避難所のリストには、最寄りの小学校や体育館の名称が並んでいた。だが、外であれだけの化け物が徘徊し、すでに感染が爆発している路上を突破して、平時の避難所が無傷で機能しているはずがない。
「避難所……! 近くの東小学校が開いてるって書いてあります! あそこに行けば、警察や自衛隊が守ってくれるんじゃ……!?」
サラリーマンが縋るような視線を響に向けた。
しかし、響の表情には一片の動揺も希望の色もなかった。
「甘いな」
響の低く冷ややかな声が、男の期待を容赦なく切り捨てる。
「指定された避難所なんかに人が密集してみろ。外の奴らにとっちゃ、格好の餌場になるだけだ。それに、この警報が出た時点で、街中の連中が同じ場所を目指して殺到している。混乱のど真ん中に自分から飛び込むつもりか?」
「そ、そんな……じゃあ、どうしろって言うんだよ!」
「まずは生き延びることだ。この店の中に、武器になるものや最低限の食料、それから脱出用のルートがあるか確認する」
響はバリケードの隙間から伝わる、シャッターを爪で引っ掻く不快な音を聞き流しながら、店長と葵へ鋭い視線を向けた。
「店長、裏口の鍵はどうなっている。外へ直接出られる構造か?」
「裏口はスチール製の防火扉です。内側からならサムターンを回すだけで開けられます」
店長が油汗を拭いながら答えた。
「出た先は搬入用の細い路地で、ゴミ集積所の横を通って裏の住宅街に抜けられます。ただ……さっき表であんな騒ぎがあった以上、今開ければ路地裏の奴らと鉢合わせになるリスクが高すぎます」
「ああ。今すぐ飛び出すのは悪手だ」
響は即座に首肯した。
「外の狂乱が落ち着くまで、ここで一時的に籠城する。少しでも騒ぎが静まった瞬間を見計らい、裏口から脱出するぞ」
方針が定まったことで、パニックを起こしていた客たちの表情にわずかな落ち着きが戻った。響は生存者たちを見渡し、矢継ぎ早に指示を出す。
「籠城する以上、物資の把握が最優先だ。葵、店長、この店に残っている食料と飲料水をバックヤードに集めろ。客の何人かも手を貸せ。全員で何日生き延びられるか算段をつける」
「わ、わかりました!」
葵と店長が先導し、客の男性たちとともに散乱した店内を捜索し始めた。
売り場の棚はほぼ壊滅していたが、バックヤードの在庫保管庫には、未陳列のペットボトル飲料のダンボールが数箱と、日持ちのする乾パン、カップ麺のストック、缶詰が残されていた。
「水は2リットルのペットボトルが計18本、500ミリリットルのお茶が2ケース。それにカップ麺と缶詰、スナック菓子を合わせれば……ここにいる7人全員で均等に切り詰めても、3日から4日は保ちます」
葵の報告に、響は短く頷いた。
「4日か。十分だ。それ以上長居するつもりはない」
生存者たちがバックヤードで物資の仕分けと配分を進める間、響は一人、正面入り口のバリケードの隙間へ身を寄せていた。スチール棚の骨組みと飲料ケースのわずかな隙間から、外の様子をじっと観察する。
表の通りでは、先ほどまで逃げ惑っていた群衆の姿はすでに消え去り、血塗れの路上に異形の怪異――ゾンビたちが点在していた。
響は歴戦の観察眼で、奴らの挙動を冷静に分析していく。
(……動かないな)
獲物となる生きた人間が周囲から消え去ると、奴らは獲物を追う狂乱をぴたりと止め、その場に立ち尽くすか、目的もなく緩慢に徘徊するだけになった。バリケードで完全に視界を遮られたこのコンビニに対しても、先ほどのような激しい攻撃は仕掛けてこない。
(完全に視界から消えれば、追跡を諦めて沈静化する。要するに、奴らの索敵は主に目視に依存している)
次に響は、足元に転がっていた空き缶を拾い上げた。
バリケードのわずかな隙間から腕を伸ばし、店舗前の歩道、ゾンビから10メートルほど離れたアスファルトへ向けて指先で弾く。
カラン、コロン――と甲高い金属音が乾いた空気に響いた。
その瞬間、緩慢に佇んでいた3体のゾンビの首が、不自然な軋み音を立てて一斉に音の発生源へと跳ね上がった。濁った眼球を剥き出しにし、喉から威嚇の唸りを漏らしながら、即座に音のした場所へと駆け寄っていく。
(音にも過敏に反応する。聴覚のトリガーは生きているな)
最後に響は、店内の床に散乱した生ゴミと割れた清涼飲料水、そして昨夜切り落とした泥水まみれの革鎧の切れ端を確かめた。強烈な腐敗臭と甘酸っぱい悪臭が店内に立ち込めており、通気口を通じて外へも漏れ出ているはずだった。
だが、外のゾンビたちがその臭いに惹かれて集まってくる気配は一切ない。
(匂いは無関係か。嗅覚による索敵能力はほぼ機能していない)
視界と音。
奴らが人間を認識するトリガーはその2点に絞られる。
姿を隠し、足音や物音を完全に殺して行動すれば、包囲網の間をすり抜けることは十分に可能だ。
「視界を遮り、音を立てなければやり過ごせる」
響はバリケードから静かに身を引き、息を潜めて待機する生存者たちの元へと歩み寄った。
バックヤードの冷え切った空気の中、響は事務所のデスクに広げられていた東京都内の防災マップと周辺地図を鋭く見つめていた。
手元のスマートフォンの地図アプリを操作し、板橋区周辺の重要インフラ拠点の配置を正確に洗い出していく。
「響さん、何か探してるんですか……?」
ペットボトルの仕分けを終えた葵が、不安げに覗き込んできた。
「水道と電気のライフラインだ」
響は地図上の一点――板橋区の北西部に位置する三園浄水場と、近隣の給水所、そして電力の変電設備が集中する一帯を指先で叩いた。
「この区内には巨大な浄水場がある。そして、都心の送電を中継する変電所もそう遠くない場所にあるはずだ」
「それが……どうしたんですか?」
「近くにあるということは、それだけ早く危機に晒されるということだ」
響の声には、戦況を俯瞰する軍師のような冷徹さが宿っていた。
「発電所や変電所、浄水場のような中枢施設に人がいなくなればどうなる。あるいは、あの異形どもが敷地内に雪崩れ込み、現場の職員が喰われるか逃げ出せば、制御システムは即座に停止する。電気が落ちれば、水を各家庭へ圧送している電動ポンプ所も即座に沈黙するぞ」
現代都市のインフラは、極限まで自動化されている反面、電力への依存度が異常なまでに高い。
電気が止まれば、水も同時に止まる。水道管の蛇口を捻れば水が出るという日常は、あと数時間か、長くとも数日で完全に消滅すると考えるのが自然だった。
「じゃあ……蛇口の水も、トイレも使えなくなるってことですか……!?」
葵が息を呑み、レジカウンターの隅で聞いていた店長も顔色を失った。
「そうだ。今出ている水道水がいつ泥水に変わるか、あるいは完全に圧力を失うかは時間の問題だ。店のトイレのタンクや使っていないポリタンクがあるなら、出ているうちに限界まで水を汲み置きしておけ。飲用だけでなく、衛生管理にも水は不可欠だ」
店長が慌てて指示を出し、客の数名がバックヤードのシンクで空いたペットボトルやバケツに水道水を注ぎ始めた。
響は地図から視線を上げ、壁を走る配管とガスメーターの配置へ目を向けた。
「ガスはどうなっている。この建物はプロパンか、それとも都市ガスか」
「えっ……と、このあたりは全部、地下の配管から引いてる都市ガスです」
店長が答える。
その言葉を聞き、響は静かに思考を巡らせた。
(プロパンなら、建物脇に設置された個別のガスボンベが無事な限り、物理的な残量分は生き残り続ける。だが、都市ガスは違うな……)
現代の都市ガスは、地下に網の目のように埋設されたガス導管を通じて広域に供給されている。
各家庭や店舗のガスメーター(マイコンメーター)には感震装置や安全弁が組み込まれており、地震の揺れだけでなく、建物の損壊や異常な圧力低下を感知すれば自動で緊急遮断弁が作動する。
さらに、地上で車両の暴走事故や火災が多発すれば、ガス漏れによる大規模な爆発・二次災害を防ぐため、ガス会社側が供給エリア単位でブロックごとに遠隔で遮断措置を取るはずだ。
(電気と水が落ちた後、都市ガスだけが供給され続けるなどという都合の良い話はない。配管の破断が起きれば、街全体を焼き払う大火災の引き金にしかならん)
都市ガスという網の目は、文明が崩壊した瞬間、容易に寸断される脆弱なシステムだった。
「都市ガスもアテにするな。数日中に完全に止まるか、安全装置で作動しなくなる。火を使うなら、店にあるカセットコンロとガスボンベを最優先で確保しろ。あれが実質的に最後の熱源になる」
「は、はい……! 売り場にキャンプ用のカセットボンベが何本か残ってたはずです!」
店長が慌てて売り場の瓦礫へ向かって走り出す。
電気、水道、都市ガス。
現代人が当たり前のように享受してきた三位一体の生命線が、ドミノ倒しのように崩壊していく未来図が、響の脳裏にはっきりと描かれていた。
(この店にいられるのも、インフラが生きている間のわずかな猶予だけだ。水が枯れ、電気が落ちて暗闇に包まれた瞬間、ここはただの密室の罠に変わる……)
響はバリケードの向こう、静まり返り始めた外の気配を睨み据えながら、脱出のタイミングを冷徹に計り始めた。
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