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元勇者の帰還、術式失敗で(♀)になっていた。レベル1から現代のパンデミック迷宮都市を生き抜く  作者: 藤咲玲


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1話:帰還の代償と路地裏の異形

 地下最深部の大儀式殿は、外の世界の歓声が一切届かない静寂に包まれていた。

 壁面に埋め込まれた魔導鉱石が冷淡な青白い燐光を放ち、冷え切った石畳を照らしている。直径10メートルの円環を描く巨大な魔法陣は、古代の記述と幾何学模様を複雑に交差させながら、脈打つように光の明滅を繰り返していた。


 現代日本から突如この世界に召喚された青年、安藤響。

 右も左も分からぬ異世界で剣を握らされ、泥と血にまみれた過酷な戦乱を駆け抜けた彼は、幾多の敵対勢力と魔獣を討伐し、世界を脅かした大戦を終結させたことで、民衆から救世の「勇者」と称えられるに至った。

 しかし、大戦を終えた彼が求めた報酬は、王位でも領地でもなく、ただ一つ「元の世界への帰還」である。


 この世界に「召喚」の記録は存在しても、送還を成功させた前例は過去に一度もない。

 その不可能に挑み、宮廷魔術の総力を結集して送還の術式を編み上げたのが、戦乱の旅路を共に乗り越え、響と恋仲になった第一王女セリスティアだった。


 魔法陣の前に立つ彼女は、溢れそうになる涙を必死に堪え、青白い光の中に立つ旅装姿の響を見つめていた。本心では最愛の男を手元に留めたいと激しく願っている。それでも響の固い決意を知るがゆえに、泣く泣くその願いを叶える道を選んだのだ。


「……本当に、行くのですね」


 震える声に、響は短く頷いた。


「ああ。セリス……いや、セリスティア。ここまで無理を言って悪かったな。本当に感謝している」

「理論は完璧に組み上げました。けれど……空間跳躍の座標固定を最優先にしたため、完全に安定しているとは言い切れません。どうか、ご無事で」


 セリスティアは胸元で杖を握り締め、意を決して起動の詠唱を紡ぎ始めた。


「彼方の宙(そら)を満たす根源の息吹、理の果てを繋ぐ虚空の楔よ。我が魔力を糧とし、次元の狭間に眠る古き軌道を穿て。星辰を巡り、因果を束ね、旅人の魂魄をあるべき郷土の座標へと導かん――次元跳躍起動、境界解界(ゲート・オープン)」


 石畳に刻まれた同心円の溝へ、鮮烈な青藍(せいらん)の燐光が一気に満ちる。

 円周を取り囲む古代ルーンの幾何学文字が、心音のようなリズムで白熱しながら次々と空中に浮き上がり、回転を始めた。


 外周の文字盤が放つ光は青藍から高密度の白銀へと変わり、儀式の間の冷たい空気を激しく震わせる。

 床面から天井へ向けて幾重もの光の柱が立ち昇り、内側を満たす細密な術式文字が、負荷に耐えかねたように明滅を繰り返した。

 青白い光条は渦を巻いて奔流となり、石造りの壁面を昼間のように焼く白光で満たしていく。


 しかし、境界を突破して現代地球へと空間を接続した瞬間、術式の許容量を遥かに超える空間圧の歪みが生じた。

 転移の接続点となった響を取り囲む境界面で、空間が外側へ激しく波打つ。光の屈折率が狂い、周囲の景色が同心円状にねじれ潰れていった。


 過剰な魔力放出により、プラズマ放電に似た青白い紫電(しでん)が空間を裂いて迸る。

 直後、急激な大気の収縮と真空の崩壊が起こり、金属板を限界までねじり切るような耳障りな高音と、重く短い破裂音が、連続して儀式殿に響き渡った。


 座標の維持に魔力配分が極端に偏り、跳躍者の生体情報を保護するパラメーターが次々と欠落していく。

 制御の限界を突破した超高圧の熱波が石畳を舐めるように吹き荒れ、足元から容赦なく生体保護の障壁を焼き削っていった。


「響……っ!? 術式が、生体情報を保てていませ――」


 セリスティアの悲痛な叫びは、暴走した光の轟音にかき消された。


 閃光の中心で、響の全身を未知の衝撃が貫く。

 肉体を構成する情報が強制的に再編され、染色体と身体の構造が不可逆の反転を起こしていく。同時に、これまでの戦いを支えてきた絶大な魔力と身体能力が、何層もの封印となって初期状態へと急速にロックされていった。


 視界が真っ白に焼き切れ、重力の感覚が消失する。

 青年の姿を失い、女性の肉体へと反転した響は、そのまま次元の裂け目に呑み込まれ、異世界から姿を消した。


 ◇


【境界の彼方、日常の残骸】


 肺腑を焼くような強烈な吐き気と、硬質な床の冷たさ。

 意識の浮上と同時に響を襲ったのは、これまで経験したことのない身体の「軽さ」と、それを補って余りある圧倒的な無力感だった。


「……ッ、が……っ、げほっ……!」


 咳き込みながら吐き出した呼気は、驚くほど甲高く、細い。

 反射的に受け身を取ろうと床を突いた両腕は、かつて重厚な鋼の長剣を軽々と振るっていた剛腕とは程遠く、骨と薄い筋肉が頼りなく軋むばかりだった。


 視界を覆っていた白光が引き、焦点が定まる。

 目に飛び込んできたのは、異世界の神殿の石畳ではない。冷たい泥水が跳ね、アスファルトの硬質な感触が頬を打った。

 鼻腔を突くのは、大儀式殿を満たしていた冷え切った鉱石の匂いや澄んだ空気ではなく、湿った塵芥と微かな油、排気ガスの混じり合う淀んだ大気の臭い。顔を伏せたまま意識を凝らせば、ビルの隙間を吹き抜ける夜風の湿った音と、樋を伝って滴り落ちる雨垂れの音だけが、ひっそりと周囲を包み込んでいた。


 現代の都市。雨上がりの深夜、雑居ビルが挟み込む狭隘な路地裏。


「……っ、げほっ、……」


 濡れた地面に手をつき、咳き込みながら吐き出した呼気は、己の耳を疑うほどに甲高く、細かった。

 異世界へ旅立つ前の、あるいは数多の魔獣を屠ってきた青年の喉からは、決して出ることのない音色。異変を確かめるべく身体を起こそうとした響は、腕にかかる自重の異様な軽さに、喉を詰まらせた。


 両の掌は、ひと回りもふた回りも小さく縮んでいる。長剣の柄を握り潰すほどに硬く発達していた掌の肉刺は消え去り、白く湿った指先はひどく頼りない。


 身にまとっていた旅装――青年戦士の骨格に合わせて誂えられた、硬質な鞣し革と幾重もの厚手布からなる外套は、今の体躯に対して余りにも過大だった。

 肩の位置は大きく落ち、袖口は指先を完全に呑み込んで冷たい水たまりに浸かっている。首元は留め具の役を果たさずに前へとだらしなく崩れ、濡れそぼったアスファルトの上へ、革の裾が重たく垂れ下がっていた。骨盤の位置も幅も変わり果て、腰を固定していたはずの頑丈なベルトは、留め穴をすべて通り越して足元へ滑り落ちそうになっている。


 胸元に生じた不自然な起伏と重心の狂い、そして全身の骨格が小柄な女性のものへと作り替えられた現実を、冷水に濡れた皮膚越しに冷徹に知覚した。


 体内の魔力回路へ意識を向ける。

 異世界全土を震撼させた絶大な出力は、幾重もの固い結節となって内奥に閉じ込められ、最低限の導通を残すのみに制限されている。空間を切り取るアイテムボックスの残滓を探っても、返ってくる反応はごくわずかな初期枠――指先で数えられる程度の空間しか認識できない。


 怒りも、取り乱しもない。

 転移の直前、空間の座標固定と引き換えに生体保護が損なわれる危険性は、術式の構築段階で承知していた。セリスティアも、現場の術者たちも、全力を尽くして自分を送り出してくれたのだ。この身体の縮小も、能力の著しい低下も、すべては強引な空間跳躍を成立させるための物理的な代償に過ぎない。


 響はだらしなく垂れ下がった両袖を濡れた手で引き上げ、腰からずり落ちそうになっていたベルトの位置を直しながら、立ち上がって身体の重心を計った。頭上を仰げば、雑居ビルの錆びた非常階段の隙間から、薄汚れた都市の夜空が、湿った雲を低く垂れ込めているのが見えた。


 遠くでパトカーのサイレンが微かに鳴り響き、濡れたビルの谷間を反響していく。

 現代社会へ帰還を果たしたという確証。それと同時に、この異様な服装と身元不明の若い女という外見が、この世界において即座に排除や拘束の対象となり得るリスクを、戦士の冷徹な直感が弾き出していた。


 響は乱れる呼吸を完全に殺し、濡れた革靴を引きずりながら、路地裏の最も深い闇――ビルの室外機が唸りを上げる狭い物陰へと身を滑り込ませた。


 ◇


 響は室外機の奥、配管が張り巡らされた最も深い影の中に屈み込んだ。


 遠くで響くパトカーのサイレンは、ビルの谷間に反響しながら遠ざかっていく。

 現代社会へ戻ったという安堵よりも先に、この異様な姿のまま公道へ出れば数分と持たずに通報され、拘束されるという現実的な計算が思考を支配していた。


 まずは現在の保有戦力を確かめるべく、胸の内に意識を沈める。

 空間を切り取る「アイテムボックス」の残滓を探るものの、返ってきたのは冷え切った拒絶の感覚だけだった。術式の回路は固く閉ざされ、指先ひとつ入る隙間もない。保管していた現代の衣服も、補助物資も、何ひとつ引き出すことは敵わなかった。


「……出ないか」


 小さく吐き出した声は、低く落ち着いてはいるものの、明らかに青年期のものとは異なる女性の響きとなって路地裏の湿気に溶けていく。

 使えない道具に執着する無駄は切り捨てる。響は即座に思考を切り替え、今の身体に対してわずかに余剰が生じている旅装へ視線を落とした。


 筋骨隆々だった青年戦士の骨格に合わせて作られた上質な革鎧。

 だらしなく地面を擦る裾、指先を完全に呑み込んだ袖口、そして留め穴をすべて通り越して骨盤から滑り落ちようとしている腰ベルト。このままでは走ることも、満足に身を隠すこともできない。

 頼れるものは、腰に帯びた短刀と、肩から胸元にかけて吊り下げられている装飾金具のみ。


 響は躊躇なく短刀を引き抜くと、泥水を吸って足元に絡みつく外套の裾を一息に切り裂いた。


 だぶつく布地をブーツの履き口へ乱暴に押し込み、はだけた上衣の胸元を深く引き寄せて金具のピンで留め留める。緩くなった革ベルトには刃先をひと捻りして新たな穴を穿ち、上衣のたるみごと腹部を力強く締め上げた。


 余分な布を削ぎ落としたシルエットは、軽装の野戦装束へと一変する。


 短刀を鞘へ滑り込ませ、響は静かに立ち上がった。腰の大小が身じろぎひとつブレない感触を確かめ、室外機の唸りの向こう――薄暗い路地裏の出口へと視線を走らせる。


 ◇


 響は薄暗い室外機の影に身を潜めたまま、冷え切ったコンクリートの壁に背を預けた。

 先ほど遠ざかったパトカーのサイレンの残響は、濡れた夜の空気に完全に溶けて消えている。焦燥に駆られて闇雲に動く愚を犯すつもりはない。戦場で生き残るための鉄則は、まず己の戦力と置かれた戦局を冷徹に数値化し、把握することだった。


 乱れかけた呼吸を整え、まずは自身の身体へ意識を向ける。

 腕を軽く曲げ伸ばし、足首の関節を小さく回す。手足の長さはかつての青年期に比べて約2割ほど短い。大剣を片手で軽々と振るい、巨大な魔獣の眉間を穿ったあの剛腕の筋力は完全に失われていた。骨格は細く、重心の位置も腰のやや高い位置へと移っている。力任せの制圧や大跳躍はもはや望めない。この身体で立ち回るなら、小柄さを活かした死角への潜伏と、必要最小限の力で急所を断つ隠密機動へ完全に戦術を切り替える必要があった。


 内なる魔力の残滓を探る。

 胸の奥に眠る魔力回路は、強固な結節となって幾重にも硬直していた。術式の構築はおろか、初歩的な身体強化すら即座に引き出すことはできない。完全に沈黙した「アイテムボックス」の存在を思えば、手元にある資源は、加工を終えたこの革鎧と、腰に帯びた刀、そして先ほど布を断ち切った短刀の3点のみ。身分証も、現行の通貨も、通信手段すら持ち合わせていない、完全なゼロからのスタートだった。


 次に、視線を周囲の暗がりへと巡らせる。

 路地裏を挟む雑居ビルの壁面、張り巡らされた配管、一定のリズムで唸りを上げる巨大な室外機。そして足元を濡らすアスファルトの黒い光沢。耳を澄ませば、遠くの幹線道路からごく微かに届く大型車両の走行音。自分が落着した空間が、異世界ではなく「現代日本の都市部」である確証は揺るがない。

 だが、その現代社会において、切り詰めたとはいえ異様な革装束をまとい、腰に本物の刃物を下げた若い女が夜更けの路上を歩くことの危険性は明白だった。目撃された瞬間、不審者として通報され、数分で警察官に包囲される。社会的な拘束と隔離は、即座に身動きを奪う最悪の詰み筋だ。


 最後に、頭上の狭い夜空を見上げる。

 ビルの合間に覗く空は、厚い雲に覆われながらも、まだ深い夜の帳を降ろしたままだ。

 だが、猶予は決して長くない。夜明けを迎え、街が活動を再開すれば、この薄暗い路地裏にも清掃員やビルの関係者が足を踏み入れる。周囲が暗闇に包まれ、人通りが途絶えている今この数時間だけが、誰にも見咎められずに動ける唯一の潜伏・情報収集の時間帯だった。


 日が昇るまでに、この街の正確な地名と日時を特定すること。そして、人目に紛れるための現代の衣服を確保すること。

 優先すべき標的を定め終えると、響は短刀を鞘へと納めて静かに立ち上がった。

 腰の刀の柄にそっと手を添え、足元の重心を確かめながら、室外機の唸りの向こう――薄暗い路地裏の出口へと足音を完全に殺して歩を進めようとした。


 そこへ向けて迷わず一歩を踏み出そうとした瞬間、全身に鉛を流し込まれたような激しい重鈍感が足を止めた。

 かつて戦場を駆けていた時の軽やかな疾走感とは程遠く、地面に吸い付くように重い。筋力そのものが消え去ったわけではないが、身体の芯と手足の連動が著しく鈍っている。

 この感覚的なズレを放置したまま公道へ出るのは自滅に等しい。響は出口へ向けた視線を足元へ落とし、自身の現状を客観的な数値で把握すべく、短く息を吐いた。


「ステータス」


 呟きと同時に、暗闇の空間へ半透明のウィンドウがクリアに浮かび上がる。明滅もノイズも一切なく、均質で澄んだ光の板の上に、整理された数値と文字だけが並んだ。


 名前 :アンドウ ヒビキ

 レベル :1

 体力 :115 / 115

 力 :78

 敏捷性 :85

 持久力 :80

 精神力 :92

 魔力 :12 / 600

 知力 :58


 アイテムボックス:制限中

 スキル :

 [身体強化] (未開放)

 [剣術] (未開放)

 [気配遮断] (未開放)

【絶対防御】 (未開放)

【状態異常完全無効】(未開放)

【精神干渉完全耐性】(未開放)

【不老】 (未開放)

【鑑定】 (未開放)

【看破】 (未開放)


 視界に飛び込んできた最初の行を目にした瞬間、響は息を呑んだ。


(……レベルが、1だと……!?)


 思わず内心で絶句する。

 数多の死線を越え、大戦を終結させるに至るまで積み上げてきたレベルが、文字通り初期値へとリセットされていた。


 脳裏をよぎったのは、転移の光に呑み込まれる直前に響いたセリスティアの悲痛な叫び声だった。

『響……っ!? 術式が、生体情報を保てていませ――』


 あのとき生じた空間圧の歪みにより、座標の固定と引き換えに跳躍者の生体情報を保護する術式が崩壊した。

 生体情報を維持できなくなった術式が、肉体と魂の完全な自壊を防ぐため、最低限の基本生体構成へと強制的な再編をかけたのだ。その結果として性別の反転エラーを引き起こし、魂の蓄積データごとレベル1へと初期化されたのだと合点がいく。


 視線を下へと滑らせるにつれ、事態の異常さはさらに輪郭を濃くしていく。

【絶対防御】や【状態異常完全無効】、【不老】、そして【鑑定】や【看破】といった文字は、項目として消滅してはいなかった。

 だが、泥臭く身体に叩き込んだ[身体強化]や[剣術]などの基礎技能とともに、すべてが暗い灰色に沈み、無機質に「(未開放)」という文字列が添えられている。


 生体情報の再編に伴い、魔力回路が固く硬直して最低限の導通しか保てていない。

 本来の出力を受け止める器そのものが急造された子供の身体に縮んでいる以上、自壊を防ぐ安全装置として、すべてのスキルにロックがかかっている状態だった。


 さらに、その上には最重要インフラであるアイテムボックスの項目が並び、冷酷にも「制限中」とだけ示されている。

 術式の保護パラメーターが欠落した余波で空間接続が弾かれており、異世界で蓄えた予備の物資は何一つとして引き出すことは叶わない。


(すべてにおいて制限がかかり、初期化されている。……だが)


 並ぶ基礎数値を順に精査した響は、小さく口元を緩めた。


 かつて万単位を誇った全盛期のステータスから見れば、100分の1以下にまで削ぎ落とされた数値だ。

 だが、一般人の基準値が「10」前後である世界において、この小柄な身体に宿る基礎値は、力78、敏捷性85、持久力80。

 魂に刻まれた経験値が、再編された肉体にも強引な基礎出力として焼き付いている証拠だった。


「……なるほどな。全盛期と比べれば見る影もないが、それでも異世界のCランク冒険者並みには動けるじゃないか。一般の男どもよりは遥かに上だ」


 魔力回路の不全と肉体の変容により重鈍さを覚えたものの、素の肉体スペックは現代の一般成人男性を明確に凌駕する水準を保っていた。

 これだけの基礎体力と瞬発力があれば、加護やアイテムボックスがなくとも、万が一の接触や不測の事態に自分の手足だけで十分に立ち回れる。


 響は意識を切り、半透明の光を闇の中へ溶かすように消した。

 重さの正体を把握したことで足裏の感覚を素早くアジャストし、今度こそ静かな足取りで、薄暗い路地の出口へと歩を進めた。


 ◇


 街中の薄暗い裏通り。ネオンの届かない路地の出口付近で、コンビニの制服の上に薄手のコートを羽織った女性が、足早に家路を急いでいた。


 レジ袋を提げた彼女が不意に足を止めたのは、前方の路地から漂う異様な腐敗臭と、低く唸るような気配に気づいたからだった。


 闇の奥から、関節を不自然に軋ませた影が飛び出してくる。皮膚がただれ、黒濁した液体を垂れ流す異形の怪物が、逃げ場を失った女性へと跳躍した。女性の口から短い悲鳴がこぼれ、手にしたレジ袋がアスファルトへ落ちる。


 その刹那、背後の闇から滑り出た響が一瞬で間合いを詰めた。


 一般人の約8倍に相当する敏捷性を活かした踏み込みで怪物の懐へ潜り込み、引き絞った拳を側頭部へ叩きつける。大人の男以上の質量を持つ異形が地面へ叩きつけられ、追撃の正確な一撃が頸椎を粉砕して完全に沈黙させた。


「……っ!?」


 へたり込んだ女性の前に、すらりとした長身に異様な装束をまとった響が立つ。怪物の死体を物陰のゴミ箱の裏へと足で蹴り込み、響は短刀の柄から手を離さずに女性を見下ろした。


「怪我はないか」


「あ、は、はい……助けて、いただいて……」


 恐怖と混乱で震える女性の視線を受け止めながら、響は足元の怪物を指差し、低く問いかけた。


「今のは一体何だ。この街で何が起きている」


「わ、私にもよくわかりません……! こんなもの、今まで見たこともなくて……」


 女性は激しく首を横に振った。深夜勤務を終えて帰宅する途中の一般人にとって、目の前の化け物は完全に理解の範疇を超えているようだった。


 響は周囲の闇へ冷徹な視線を走らせる。夜気の中に混じる異様な臭気と、いつ誰が通りかかってもおかしくない立地。長居は無用だった。何より、今の自身には人目に紛れる場所と、身を隠す手立てが必要不可欠だった。


 響は自身のだぶついた外套と擦り切れた革鎧を見下ろし、小さく息を吐いた。


「……すまないが、見ての通り服がこれでな。この格好で外を歩き回るわけにもいかない。お前の家についていってもいいか。朝まで身を寄せさせてほしい」


 突然の申し出ではあったが、化け物を一撃でねじ伏せた圧倒的な膂力と、暗い夜道への恐怖を前に、女性は震える声で小さく頷いた。


「……わかりました。すぐ、そこなので……ついてきてください」


 女性は足元に落ちていたレジ袋を拾い上げると、おぼつかない足取りながらも路地の先へと歩き出した。響はそのすぐ斜め後ろに付き、足音を殺して並んで歩を進めた。


 ◇


 佐伯葵のアパートは、駅から少し離れた住宅街に佇む、築年数の経った木造2階建てだった。


 階段を上がった角部屋、キーを回して開けられた扉の先には、玄関から一直線に視線が通る6畳一間の空間が広がっている。

 壁際に寄せられたシングルベッドと小さなローテーブル、一人暮らし用の冷蔵庫。こじんまりとしながらも整頓された、生活感の漂う典型的な一人暮らしの部屋だった。


 葵は玄関で靴を脱ぐと、胸をなで下ろすように小さく息を吐いた。


「どうぞ、上がってください。狭いところですけど……適当にその辺に座ってくださいね。今、温かいお茶を淹れますから」


 まだ手元をおぼつかなく震わせながらも、客人を気遣う言葉を残し、葵は玄関脇の小さなキッチンスペースへと立ち去った。

 カチャリと電気ケトルをセットする音と、湯が沸き始める微かな水音が狭い部屋に響き始める。


 響は無言のまま部屋央へと進み、周囲の状況を鋭く観察した。

 窓の位置、非常時の脱出口、壁の薄さ、そして室内の物品。腰の刀を床へ下ろし、いつでも即座に動けるよう壁を背にしてローテーブルの前に腰を下ろす。


 やがて、湯気を立てるマグカップが2つ、テーブルの上にコトリと置かれた。


「どうぞ。緑茶しかなくてすみません」


「……助かる」


 短く礼を言い、温かいカップを両手で包み込む。冷え切っていた指先に、じんわりと熱が戻ってくるのを感じた。


 葵は向かい側に正座すると、響の身なり――擦り切れた革鎧と、裾を引きずるほどだぶついた異世界の外套――へ改めて視線を落とし、戸惑い混じりに口を開いた。


「あの……服のことですけど。私の着ていたものでよかったら、何か着替えを出しますね。さすがにその格好のままじゃ、落ち着かないでしょうし」


 葵は立ち上がり、部屋の隅にある小さなクローゼットや衣装ケースを開けて、手持ちの服を何着か取り出して畳の上に並べ始めた。

 部屋着用のスウェット、ゆったりめのTシャツ、シンプルなパーカー。


「これとか、部屋着なんですけど……どうかな」


 差し出されたグレーのパーカーを広げ、響は自分の身体と見比べた。

 身長は約170cmあり、一般的な女性よりも頭一つ分高い。大人の女性である葵の服は身幅こそ入るものの、丈や肩幅がやや窮屈そうだった。


「……あー、やっぱりダメか。私、身長が160cmくらいだから、あなたには全体的に丈が足りないかも……結構、背が高いですもんね」


 葵は並べた服を見比べながら、困ったように苦笑いを浮かべた。


「でも、メンズサイズで買っておいたこのゆったりめの黒いパーカーと、少し大きめのスウェットなら、丈も合うと思います。これなら大丈夫そうかな」


「構わない。あの異様な革鎧を着ているよりは遥かに人目をごまかせる。……借りるぞ」


 響はそう答えると、手渡された黒いジップアップパーカーを手に取り、まずは外套を脱ぐべく静かに立ち上がった。


「じゃあ、そこの脱衣所使ってください。お風呂場、電気点いてますから」


 葵が指差したユニットバスのドアへ向かい、響は手渡された衣服と腰の短刀を抱えて足を踏み入れた。

 内側から簡易な鍵を掛け、狭い脱衣スペースの鏡の前に立つ。


 曇りひとつない鏡面に映し出されたのは、かつて泥にまみれ、刃傷を刻みながら戦場を駆け抜けていた精悍な青年の面影ではなかった。

 10代後半の引き締まった長身。すっきりと通った鼻筋に、切り詰めた短髪の下で冷たく光る鋭い瞳。異世界の理を強引に突破した代償として定着した、端正で凛々しい女性の姿がそこにあった。


「……っ、嘘だろ……」


 思わず漏れ出た声のあまりの透明感と高さに、響は自らの喉元へ手をやった。喉仏の出っ張りが綺麗さっぱり消えている。


 戦乱の世を制した勇者としての冷静さを保とうと試みるものの、心臓が耳元で激しく鐘を打つ。

 男として生まれ育ち、異世界で修羅場をくぐり抜けてきた自意識と、目の前の鏡が突きつける現実の落差は、いかに強靭な精神力であっても一朝一夕に受け流せるものではなかった。カッと顔面へ急速に熱が集まり、耳の先まで赤く染まっていくのを自覚する。


 響はおそるおそる、切り詰めた革鎧の留め具を外し、泥水の染みた上衣の前を押し広げた。


「おいおい……マジかよ……」


 素肌を晒した瞬間、再び言葉を失う。

 無数にあったはずの刀傷や魔獣の爪痕は跡形もなく消え去り、滑らかで白い肌が頼りなく空気に触れていた。

 そして何より、胸元には男の身体には決して存在し得ない、確かな丸みと質量を伴った双丘が鎮座している。


 恐る恐る伸ばした右手の指先が、自分のものとは思えない柔らかい胸のふくらみに触れる。

 指先に伝わる弾力と、皮膚を通じて胸の奥へダイレクトに響く鋭敏な神経の感触に、全身へ電撃のような悪寒と羞恥が駆け抜けた。


「っ……あ……!」


 反射的に手を引っ込め、響は口元を手で覆った。

 自分の手で自分の身体を触っただけだというのに、首筋から胸元までが一気に紅潮する。

 異世界で第一王女のセリスティアと恋仲だったとはいえ、異性の身体の造形など戦場の雑多な知識や僅かな触れ合いでしか知らない。それが今、完全に「自分自身の肉体」としてそこに存在している。


 荒くなる息を抑え込みながら、響は震える指先でスウェットパンツのウエストを少しだけ押し下げ、下腹部へと視線を落とした。


「…………」


 確認するまでもなく、あるべきものが消え失せ、完全に女性の生体構造へと作り変えられていた。

 呆然と天井を見上げ、深く、重い息を吐き出す。


(転移術式の生体保護エラー……なるほど、そういうことかよ……。命が助かっただけでも奇跡だが、まさか中身は男のままで、器ごと女に作り替えられるなんて聞いてねえぞ……)


 セリスティアの必死な祈りと術式の暴走を思い返せば、文句を言える筋合いではない。生きて元の世界に戻れただけで儲けものだ。

 しかし、この引き締まった腹筋も、しなやかに伸びる長い脚も、約170cmという長身ながら紛れもなく「10代後半の若い女」のそれだった。


「……落ち着け。冷静になれ。生き延びるのが最優先だ……」


 自分に言い聞かせるように呟き、両手で火照った頬をパチンと強く叩いた。

 赤みを帯びた頬の痛みが、わずかに意識を引き戻す。


 今は恥じらっている場合ではない。外には命を救った一般人の女性が待っており、外の路上には異形の化け物が徘徊しているのだ。

 響は羞恥を力任せに心の底へねじ込むと、借り受けた黒いジップアップパーカーを素早く被るようにして身にまとった。


 メンズ用のパーカーは、約170cmの響の肩幅と丈にほぼ過不足なく収まった。

 下は灰色のスウェットパンツを穿き、ウエストの紐を引き絞って結ぶと、裾もちょうどくるぶしの上で綺麗に落ち、足さばきに何の支障もない。


 異世界の革鎧と上衣は小さく丸め、持参した短刀をパーカーの内側、腹の前のポケットへと滑り込ませる。外側からは膨らみひとつ目立たない。


「……十分だな」


 鏡の中の姿を一瞥し、ユニットバスの扉を開けて部屋へと戻る。


 ローテーブルの前に座って待っていた葵は、戻ってきた響の姿を見るなり、わずかに目を丸くした。


「あ……すごくぴったりですね。背が高いから、メンズの服がすごく自然に似合ってます。あ、濡れた服は洗濯機のカゴに入れておいてくれれば、明日洗っておきますけど……」


「いや、これは自分で管理する。気にするな」


 響は丸めた革鎧の束を部屋の隅、床に置いた刀の脇へと静かに置いた。

 テーブルを挟んで再び腰を下ろすと、少し冷めかけた緑茶に口をつける。温かい液体が喉を通り、胃腑へと落ちていく感覚が、再編された身体の奥にある緊張をわずかに緩めた。


「さて、単刀直入に聞く」


 カップを置き、響は低く落ち着いた声で切り出した。低音の澄んだ女性の声であっても、戦場で培われた冷徹な威圧感は損なわれていない。


「まず、ここは日本のどこだ。そして……今日の日付は何年何月何日だ」


 唐突な質問に、葵は怪訝そうに眉を寄せた。


「えっ……? ここですか? ここは東京都内の板橋区ですけど……日付は、2026年の9月28日ですよ。深夜だから、もう29日になっちゃうのかな」


 2026年9月28日。

 響の胸中で、冷たい計算が走る。

 自分が突如として現代から異世界へ召喚されたのは、2023年の春だった。

 異世界で過ごした過酷な戦乱の日々は、体感にして約3年半。


(時間のズレはない。俺が異世界で費やした時間と、こちらの世界の経過時間はほぼ一致している……)


 浦島太郎のように数十年が経過していたり、あるいは過去へ戻ったりといった空間跳躍の致命的な時間歪曲は起きていない。その事実だけでも、セリスティアが組み上げた術式の精度がいかに高かったかが証明されていた。


「そうか。……もう一つだ。さっき路上で俺たちを襲ったあの化け物は何だ。お前は見たことがないと言ったが、あの手の異常が街で頻発しているのか」


 葵は表情を曇らせ、抱え込むように自分の腕をさすった。


「本当に、あんなもの見たの初めてなんです……。ただ、ここ1、2ヶ月くらい、ニュースでおかしな事件が増えてて。『原因不明の通り魔』とか、『夜間の集団失踪事件』とか……警察も暴力団の抗争だとか錯乱した薬物中毒者の犯行だって発表してますけど、ネットの掲示板やSNSでは別の噂が流れてて」


「噂?」


「はい。『夜の裏路地に人じゃない怪物がいる』とか、『人が喰われてるのを見た』っていう書き込みが、写真付きで何度も上がってるんです。でも、そういう投稿って数分で全部消されちゃうんですよね。だから、みんなただの都市伝説だと思ってて……まさか、本当にあんな化け物がいるなんて……」


 響は顎に手を当て、視線を虚空へ漂わせた。

 ネット上の投稿が即座に消去されているという点。国家権力、あるいは情報統制を敷く何者かが事態を把握し、隠蔽に動いている証拠だ。


 現代社会は、自分が去った3年前と完全に同じ平穏を保っているわけではない。

 異形の怪物の出現。そして、自分をこの世界へ送還した際に生じた大規模な空間圧の歪みと次元の裂け目。


(まさか……あの転移術式の暴走が原因か? いや、それにしては1、2ヶ月前から兆候が出ているという話と辻褄が合わない。空間の接続以前から、この世界そのものに歪みが生じ始めているのか……)


 現状の情報量では因果関係の断定は不可能だった。

 だが、確実な事実が2つある。

 1つは、この街にはすでに異世界の魔獣に酷似した怪異が潜み始めているということ。

 もう1つは、かつて世界を救った自らの肉体はレベル1に退行し、スキルも魔力も封印された極めて不安定な状態にあるということだ。


「……事情は呑み込めた。助かった」


「あの……」


 葵がおずおずと手を挙げ、響の顔を正面から見つめてきた。


「あなたは……一体何者なんですか? あの怪物を一撃で倒した力も、さっきの服や刀も……普通じゃありませんよね」


 響は静かに葵を見据えた。

 異世界で勇者として戦っていたこと、転移のエラーで身体が女性へと反転したこと――その荒唐無稽な事実をそのまま語ったところで、混乱を深めるだけだ。


「かつて、お前たちの言う『あちら側』の化け物と戦う組織にいた。それだけだ。今はただの身元不明の厄介者だがな」


 それ以上の追及を拒む響の眼光に気圧され、葵はそれ以上問い詰めるのを諦めたように息を呑んだ。


「……そうですか。でも、命を助けてもらったのは本当ですから。警察に通報したりはしません。今夜はここでゆっくり休んでください。布団、1組しかないので狭いですけど、敷きますね」


「いや、ベッドを使え。俺は壁際で座って寝る。戦場で慣れている」


「えっ、でもそんな――」


「気にするな。それが一番落ち着く」


 響は立ち上がると、刀をすぐ手の届く位置に置き、部屋の隅の壁に背を預けてあぐらをかいた。

 パーカーのポケットに入れた短刀の重みと、壁の冷たさが背中を通じて伝わってくる。


 頭の芯に残る疲労と、変容した肉体が発する微かな重鈍感。

 夜明けまであと数時間。

 街が動き出す前に、レベル1に落ちたこの身体をどう動かし、どう生き延びるか。響は目を閉じ、静かに呼吸を整え始めた。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!


思いつきの見切り発車で書き始めた作品のため、今後の更新は完全に作者の気分と気まぐれ次第になるかと思います。亀更新になったらすみません。


「次はこういう展開が見たい」「ここをもっとこうしてほしい」といったご意見やご要望があれば、感想欄などに気軽に残していただけると嬉しいです。気が向いたらふらっと取り入れるかもしれません。


ゆるく気長にお付き合いいただければ幸いです!


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