3 帰ると婚約者がいました
猫の精霊が魔法陣に吸い込まれるように姿を消した。
先生が顔を輝かせる。
「二階級昇格なんてそうありませんよ。しかもネルさんは長い間上手くいっていませんでしたから。先生はとても嬉しいです!」
手放しで褒めてくれたので、うきうきしながら家路についた。
よかった。退学を免れた。それどころかCクラスに上がれたのだ。憧れの精霊使いに一歩近づけた。
笑顔で玄関扉を開けて、
「ただ今戻りました」
いつもより大きな声が出た。
いつものようにメイドが優しく出迎えてくれると思ったら――。
びっくりして足が止まってしまった。小さなシャンデリアが垂れ下がる玄関ホールにいたのは、なんとリアムだった。隊服を着ているから仕事の途中だろう。
どうしてここにいるんだろう? 呆けた顔の私を、リアムが一瞥して嫌そうに顔をしかめた。
ホールの奥にある食堂から母の声が聞こえた。
「リアム様、少しお待ちくださいね。今、焼き立てのアップルパイを包ませていますからねー!」
確かに玄関ホールにまで甘い香りが充満している。
そうか。リアムが何かの用事でうちに来て、母がお土産用にと急いでメイドにアップルパイを焼かせたんだな。
そしてさっきのリアムの嫌そうなしかめ顔。私と顔を合わせたくないから、私が帰ってくるまでにここを出ようと考えていたのだ。だけど母のお節介により出られなくなってしまい、残念なことに私に会ってしまったのだろう。
……いつもどおりだなあ。無表情で顔をそらし続けるリアムを見ていたら生温い気持ちになった。
「お待たせしました――あら、ネル。帰ってたのね。ちょうどよかったわ。リアム様にアップルパイをお持たせしようと思ったのだけど、ちょうどいいから応接間で一緒に食べなさいよ」
途端にリアムの眉間に皺が寄った。
だけどそんなことに気がつく母ではない。笑顔で、
「ねえ、リアム様?」
「――わかりました」
渋々といった感じで、でも素直に頷いた。
前から思っていたけどリアムはうちの親に弱いような気がする。母にも、そして父にも。
そういえばリアムには家族がいないんだっけ。幼い頃に両親を亡くして、町で一人で暮らしていたところを剣術の腕と特異な能力を買われて縁戚の騎士に引き取られた……と聞いたような気がする。
だから私に対しては冷たい態度をとっても、「親」というものに対しては言うことを聞くのかもしれない。
苦労してきたのかな。しみじみとリアムを見上げた途端、冷え冷えとした視線を返された。……そうだね。わかってるよ。
「ネルも応接間に来るのよー!」
頼み込むような母の声に、「はーい」と素直に返して玄関ホールを抜けようとした。
「嫌がらないのか?」
見上げると、リアムの眉間にさっきと同じように皺が寄っていた。
「いつもなら、絶対に嫌だとものすごく嫌がるのに」
確かにそうだ。だけど前世を思い出した今は、特にそんな感情はない。
「嫌じゃありませんよ」
素直に答えると、眉間の皺がさらに深くなった。
でも待って。帰り道に考えていたことを思い出す。そういえばやりたいことがあるんだった。
「先に応接間へ行っていてください。後から行きますから」
そう言うと、リアムは皺を寄せたまま冷めた顔をした。
リアムと別れてから来たのは奥庭だ。低い木立の向こうにある池は、見るとまだ心臓がざわっとするので視界に入らないようにする。
目当ては物置小屋の脇に生えるアクロジの木。十メートルほどある大きな木で、わさわさ茂った葉の間に黄色い実がついている。
うん、いい感じに熟している。地面に落ちた実を二十個ほど拾い、小屋の中にあった古いブリキのバケツに入れて応接間へ向かった。
中庭に面した応接間は、アーチ形の掃き出し窓から柔らかい午後の日差しが降り注ぐ。
中央にある大きなテーブルにはすでにアップルパイのお皿が並んでいて、ソファーに座ったリアムが一人お茶を飲んでいた。
「お待たせしました」
向かい合ったソファーの足元にバケツを置いて、腰を下ろした。
たっぷりのクリームが添えられたアップルパイは表面が美味しそうに艶めいている。嬉しくなってさっそくフォークを手にすると、
「――たんだね」
「はい?」
リアムがいぶかしげな顔で私を見ていた。
「本当に来たんだね」
「私、後から行きますと言いましたよね?」
「確かに言ったけど、いつも言葉だけで実際は来ないだろ」
そうだった。両親が、特に母が何かと私たちを一緒にいさせようとするので、口だけ「はいはい」と答えて実際は避けていたんだっけ。
そうか、先へ行っていてと私が言った途端にリアムが冷めた顔をしたのは、いつも通り私が嘘をついたと思ったからなんだ。
なるほど。納得したけど嘘をついてきたのは本当のことなので、今さら何をどう言いつくろえばいいのかわからない。考えたけど思いつかない。仕方ないのでパイを食べ終えると、足元のバケツを膝の上に置いた。
途端にリアムが怪しそうな顔つきになった。
「それは何?」
「バケツです」
「それはわかるよ」
「ああ、中身ですか? 奥庭に生えているアクロジの実です」
「……そうじゃなくて」
ため息が聞こえたけど、やりたいことがあるのだ。
同じく物置小屋から持ってきた古い布をテーブルの隅に敷く。その上に、バケツに入っているアクロジの実をざらざらと出した。
「その実をどうするんだ?」
「数珠を作ろうと思いまして」
「じゅず?」
実の中には黒くて丸い種が入っている。親指の先ほどの大きさの種は、とても固い。その中心に穴を開けて細い紐を通せば数珠のようになるなと思ったのだ。
実は、前世の私はイタコマニアだった。死者の魂を自身に憑依させて口寄せを行うイタコ。お金を貯めて夏の恐山に行くのが夢だった。
イタコはイラタカの数珠を両手で打ち鳴らして死者の魂を呼ぶ。だったらそれを真似して、精霊を召喚してみようと思ったのだ。そうすればもっと上手く召喚できる気がする。
わくわくしながら指で実を割った。皮が薄いので簡単に割れる。中から黒光りする丸い種が出てきた。うん、いい感じ。
次々と種を取り出していると、
「自分で作るのか? 使用人にさせるんじゃなく?」
「そうですよ」
「……池で溺れて死にかけて頭の中の配置でも変わったの?」
この人、口が悪いよね。ぼやきたくなったけど、今までの私だったらそうだっただろうなと思い直して立ち上がった。
「実の数が足りないので、もう一度取ってきますね」
奥庭でアクロジの木を見上げる。さて、どうやって取ろうかな。十メートルはある木なので一番下の枝にさえ手が届かない。さっきは落ちている実を拾ったけど、もう落ちていないし。
物置小屋に入り、壁に立てかけてある梯子を抱えようとしたら、
「それをどうする気?」
と、背後から声がした。
リアムだ。なぜかわからないけどついてきたのだ。
「これに上って実を取ろうと思います」
木登りはできないけど梯子なら上れる。
リアムが呆気に取られたように小さく目を見張り、つぶやいた。
「実は変わった女だったのか。知らなかった……」
聞こえてるから。やっぱりこの人、口が悪いよね。ちょっとムッとしたのでその勢いで梯子を持ち上げようとすると動かない。重いのではなく、リアムが片手で梯子を押さえつけているからだ。
「放してくださ――」
「これは必要ないよ。ついてきて」
「えっ?」
「もっと実を取れればいいんだろ?」
「そうですけど……」
リアムは手ぶらでさっさと小屋を出ていく。何? リアムが木登りをしてくれるの?
追いかけると、リアムは太い幹に右手を添えて、高いアクロジの木を見上げていた。
「離れていて」
よくわからないけど言われた通り距離を取る。
リアムはおもむろに一歩下がり、反動をつけて勢いよく右足を振り上げた。流れるような動きとはこのことかもしれない。
だけどそんな優雅さとは裏腹に、足裏が幹を蹴った時はものすごい音がした。太いどっしりとした幹が左右になびく。縦横にもさもさと茂った枝葉が、壊れた振り子のように揺れた。
びっくりして悲鳴を必死に呑み込んだ瞬間、黄色く熟した実が大量に落ちてきた。
すごい、すごい。雨のように降ってくる実に心が躍る。
かき集めて両手に抱えた。
「ありがとうございます!」
心のままに笑うと、リアムが目を見開いた。
あざやかな青い目が戸惑うように揺れる。
そしてゆっくりとまばたきをして、小さく頷いた。