83 引き裂かれた家族 【Hearth Rip】
「──歯ァ食いしばれや」
その言葉とともに放たれた拳は、寸分の狂いなくカルサスの甘いマスクのど真ん中ににめり込んだ。一瞬スローになった世界でカルサスの顔はぐにゃりと歪み、そして次の瞬間には体ごと大きく吹っ飛んでいく。
「きゃーっ!?」
「や、やっちまったぞあの賢者!? 領主さまを殴っちまった!」
「え、衛兵! とりあえず衛兵呼んでこい!」
往来のど真ん中で、一切の遠慮なく人をブン殴る。それが如何に非常識な行いであるのか、異世界であってもその認識は変わらない。ましてや殴られたのがとてもとても偉い人ともなれば、周りが騒ぎ出すのも至極尤もな話である。
加えて言えば、先に手を出したのはイズミの方で、そして情状酌量の余地もない。文字通り、何の予兆も前兆も無くいきなり殴りかかったのだから。
「いったた……もう、何で殴るのさ」
「……ッ!!」
だというのにカルサスの方はひどくあっけらかんとしていて、うっすらと笑みを浮かべてさえいる。痛そうに鼻の頭をこすってはいるものの、結局はそれだけ。人に殴られたというよりかはむしろ、自分の不注意で樹に顔をぶつけてしまったかのような様子だ。
「なんで、だと……!? てめえ……!」
後ろの方で呆然としている奥様を一瞥してから、イズミは吠えるようにして叫んだ。
「それがわかってねえからだろうが! 奥様の前だから一発にしておいてやったんだぞこの野郎ッ!!」
できることならもう一発、いや、五、六発は殴っておきたいというのがイズミの本音だ。カルサスはそれだけのことをしているとイズミは思っているし、何より、現在進行形でやらかし続けている。故に、綺麗な顔に拳をブチ込むことに一切の痛痒を覚えないし、悪いとも思わない。
ただし、本来はそれは自分に許される行いではないとも思っている。それが許されるのはあくまで奥様のみだからこそ、イズミは「友達」のよしみで一発で我慢しているのだ。
「ふむ……やっぱり、理由なく人を殴るような人間ではないんだね、キミは」
いつのまにやら、カルサスの顔から傷が消えている。おそらく癒しの魔法を使ったのだろう。それがわかる程度にはイズミもこの世界に順応しており、そして魔法という特殊な力を持ってなお、一切の反撃をせずにただそこで穏やかな笑みを浮かべるカルサスに、イズミはさらにブチ切れそうになった。
「いや、わかる。わかるよ、イズミが僕のことを殴りたくなる気持ちも。それだけのことを僕はやっているし、心当たりはあるんだ」
「……」
「──策略を事前に防げず、ルフィアを危険に晒してしまったのは紛れもなく僕のミスだ。僕がもっとしっかりしていればこんなことにはならなかった。だから……この拳は、甘んじて受け入れるよ」
「……ッ!!」
イズミはマジで、心の底からブチ切れそうになった。さっきまでは平常心だったんじゃないかと思えてしまうほどに頭の中がグツグツと煮立って、そして口の中がカラカラに乾いている。言葉を紡ごうにも変な息がひゅーひゅーと漏れるばかりな上に、熱射病にでもかかったかのように目がチカチカとしていた。
そんなイズミの怒りが爆発しなかったのは……単純に、その燃え滾る感情の発散の仕方がわからなかったというだけである。あるいは、頭の処理能力が限界を迎えてショートしてしまったと言ったほうが正しいかもしれない。
「おまけに現状、何が起きたのか──起きてしまったのかを未だにつかめていない。いったい何がどうなっているのか、真実は何なのか……知りたいことが多すぎる。けじめや責任を取るためにも、そこらへんはしっかり確認しないといけないんだけど……」
カルサスは奥様をちらりと見て、そして再びイズミに向き直った。
「……どうも、話を聞ける空気じゃないらしい。タイミングが悪いというのかな。自分でも唐突過ぎると思ってはいる」
イズミは頭に血が上っており、とても話ができる状態ではない。奥様は突然のことに衝撃を受けすぎていて、やっぱり話ができる状態じゃない。
加えて言えば、住民たちからの知らせを受けた騎士団たちが大慌てでこちらにやってくる気配も遠くから感じられる。おそらくそう遠くないうちには騎士団がこの広場に流れ込んできて、色々諸々面倒くさいことになるだろう。
故に。
「だから」
「えっ?」
カルサスが、ごくごく自然な動作でミルカの腕を取った。
「だから、ミルカを連れて行こう。この中で一番話ができるのは、今はミルカだけみたいだからね」
カルサスのその行為は、理屈だけで言えば非常に合理的なものだった。
「《旅人の湧水》」
「なっ──!?」
カルサスの足元から、凄まじい勢いで水が噴き出した。ともすれば地下に埋められた水道管が盛大に破裂したのではないかと思えるほどだが、この異世界に水道管は存在しない。
さらに不思議なことに、その湧き出でた水はカルサスとミルカを中心に渦を巻いている。二人の足元がちょうど渦巻の中心になっているのだ。それでなお、二人ともの衣服にまるで濡れた形跡が見られないのは、これがあくまで魔法の水であるためだろう。
そして、魔法の水がただの水であるはずがない。
「きゃっ!?」
「ミルカさんっ!?」
「動くと危ないよ、ミルカ。遠慮せず僕に掴まって」
カルサスとミルカの体が地面に沈んで──いいや、渦巻に飲み込まれていく。少しずつ少しずつ、しかし確実に。さっきまでは間違いなく石畳の上だったはずなのに、もうすでに膝小僧の上ほどまでに二人の体は沈み込んでいた。
「イズミさんっ!」
「待ってろミルカさん、今助け──」
「《聖浄なる水壁》」
「がぼっ──!?」
走り出したイズミの目の前に水の壁が現れた。明るい水色の、透き通っている宝石のようなきれいな水だ。その水は文字通りキラキラと淡い光を発していて、そしてミルカの下へと走り出そうとしたイズミの行く手をこれ以上に無い程に阻んでいる。
「がば、ごぼがば──!」
「その水はね、邪気や怨念を払うことのできる聖なる水なんだ。だから普通の人間にはただの水と変わらない……と言われているけれど、鎮静作用もあったりする。興奮状態や怒りの感情も、結局はこの水が清め祓う対象になるってことなんだろうね」
「ぐば、ごべえ──!」
「賢者に魔法は効かない、って聞いたけれど。魔法としては効かなくても、ただの水としてはちゃんと効果があるようだ。……落ち着いて、イズミ。無理に突破しようとするから苦しいだけで、身を引けばそれだけで逃れられる」
「やってる本人がいけしゃあしゃあと何言ってるんですか!?」
「おっと……だからミルカ、動かないでくれよ」
ミルカのビンタを、カルサスはサッと身を引くことで躱した。もちろん、その程度で魔法の集中が途切れることなんてないし、ミルカの腕を離すようなこともない。
「がぶがば──カル、サスぅ……ッ!!」
「──これは驚いた」
厚い厚い水の壁に、体をめり込ませるようにして。気合と根性でその水壁を突破しつつあるイズミは、必死の形相になりながら腕を伸ばす。
「この水壁を、ほんの少しとはいえ破るなんて──本当にキミには魔法が効かないのか? それとも何か、別の魔法を?」
「そんな、こと、どうでもいいだろうが……ッ! てめえ、ミルカさんを……!」
「別に危害を加えるつもりはないよ。単純に、話をしたいだけださ」
「じゃ、あ、その水は……!」
もうすでに、渦巻はカルサスとミルカの首元にまで達している。二人の体が沈んでいるというよりかは、渦巻そのものが二人の体を包み込むように大きくなってきているのだ。おそらく、あともうほんのちょっとの時間もあればこの渦巻は二人を飲み込んでしまうことだろう。
「《旅人の湧水》は、移動のための水さ。酷く限定的で扱いづらいが、一瞬で別の場所へ移動ができるんだ」
「イズミさん……っ!」
「ミルカ、さん……っ!」
渦に飲み込まれつつあるミルカが、必死にイズミに向かって腕を伸ばす。
イズミもまた、水壁に抑え込まれながらもミルカの腕を取ろうと手を伸ばした。
「落ち着いて冷静になったら、ゆっくり話をしよう。僕は逃げも隠れもしない。本当に、話がしたいだけなんだ」
そして、カルサスは奥様を見てにっこりと笑った。
「行先は僕たちの家──領主の館だ。僕はそこで待っている」
「イズミ、さ……!」
ミルカの指先が、イズミの指先に触れて。
「じゃあ、またあとで。──愛してるよ、ルフィア」
「あ──」
大きく膨れ上がった渦巻がミルカとカルサスを飲み込み、指先に確かに感じたはずの感触が消えてなくなった。
「え、あ……」
やや遅れて、イズミの体を抑え込んでいた水の壁も消えてなくなる。
「うそ、だろ……?」
水の壁どころか、あれほどまでに滾滾と湧き出でていたはずの水も、今はもうどこにも見受けられない。石畳が湿った形跡も無ければ、ただの一滴のそれも残ってはいない。
文字通り、一切が消えてなくなっている。
ミルカの姿も、なくなっていた。
「ああああああッッ!!」
──そこに残ったのは、慟哭し拳を石畳を叩きつけるイズミの姿だけだった。




