22 たからもの
「調子はどうだい?」
「んー……」
ある日の午後。いつの間にか定位置となったベッドの脇で、イズミはミルカに問いかけた。ミルカの体調は順調に回復してきており、すでに自力でベッドボードにもたれかけ続けることができるようになっている。さすがにまだ一人で起き上がるのには難儀するようだが、それだって時間をかければ問題ないくらいにはなっていた。
「むー……」
「まだちょっとぎこちないなァ」
そして、腕。未だ包帯だらけの手をぐーぱーと動かし、ミルカはうっすらと眉間にしわを寄せた。そんな姿でさえ絵になるというのだから、美人というのは恐ろしいとイズミは改めて思う。
──何がおかしいのか、イズミに抱っこされているテオはミルカのそんな様子を見てけらけらと笑っていた。
「動くと言えば動きますが……まだちょっと、スプーンとかは自信ないですね……」
「みたいだな。テオの抱っこはどうだ?」
「……出来るか出来ないかで言えば、出来ると思います。ただ、今はまだちょっと……」
「自信がない、か。そりゃあ、落っことしたら大変だもんな」
細かい動きはできないし、重いものや大事なものを持つことはできないが、軽いものなら普通に持てそうだ……というくらいにまで、ミルカの腕は回復していた。手でこの調子ならば、きっと遠くないうちに足も元通りになって歩くことが叶うだろう。今だって、歩く力が無いというよりかは、単純に裂けた足の皮が治りきっていなくて歩けないというだけなのだから。
「よかったなぁ。あともうちょっと頑張れば立ち歩けるようになるぞ!」
「ええ、本当になんと感謝すればいいのか……何度お礼を言っても足りないくらい……」
「いやァ、気持ちだけで十分だよ。どうせ俺ヒマだし、他にやることだってないからさ」
「なぁ?」とイズミは腕の中にいるテオに笑いかける。テオはただ、にこーって笑ってイズミの頬をぺちぺちと叩いた。
「しかし、暇ですか……失礼ながら、イズミさんは今までどうやって過ごされていたのですか?」
「どうやって、か……」
改めて聞かれて、イズミは頭の中でここ三か月と少しの記憶を探る。
「寝て、起きて、飯食って、本とか読んだりして……化け物がやってきたら駆除して、また飯食って酒飲んで風呂入って寝てた」
「…………」
「……我ながら、自堕落な生活だとは思っている」
「いえ……それが可能だなんて、羨ましいですよ。ある意味では、理想の生き方ではありませんか」
働かなくても温かいご飯と寝床の心配をしなくていい。何もしなくても誰にも文句を言われない。森の中で娯楽も出会いも何もないというその点に目をつむることができれば、確かにこれ以上に無いくらいに理想的な生活であった。
「俺も最初はそう思ってたんだけどなァ……」
「ふむ?」
「いや、テオとミルカさんが来て改めて思ったんだが……まーったく人と関わりがないって言うのも、それはそれで気が滅入ってたんじゃないかな、と」
おそらく、もしまた一人になってしまったら、イズミは耐えられないかもしれない。心配することは何もないこの空間だが、文字通りネットも電話も手紙でさえも使えない閉じられた空間なのだ。顔見知り(と思われる)獣こそ数匹ほどいるが、奴らは会話ができない以上、慰めにはならないだろう。
「そんなものなのですか。ちょっと想像できませんが……」
「そういうものなんだよ……と」
「ま! ま!」
テオが口をぱくぱくとさせてイズミの肩を叩いている。どうやらおなかが空いたらしい。
「今はこうして、楽しく過ごさせてもらっているから……俺はそれで問題ない」
ちょっとよろしく、とイズミはテオをベッドに寝転がせる。そのまますぐに台所に行って、十倍粥の準備を始めた。すでにこの程度なら慣れたもので、最初はバカ正直にレシピ通り作っていたものの、今や電子レンジを駆使してオリジナルの時短レシピさえ編み出していた。
「うー!」
「よーしよしよし……」
急かすテオに慌てることなく、イズミはふうふうとしっかり十倍粥を冷ます。自分のくちびるで熱くないことをしっかり確認してから、そいつをテオの下くちびるにスプーンでちょんちょんとあてがう。それだけでもう、テオは幸せそうにぱくっとそれに食らいついてくれるのだ。
「……と、あんまりテオばかりにかまけているとミルカさんが退屈だよなァ」
「いえいえ、そんなことありませんとも」
ふいに漏れた独り言に、ミルカはくすくすと笑いながら答えた。
「この子がこんなにもうれしそうにご飯を食べているだなんて……一生見ていても、飽きませんわ」
「……なんか、わかる」
油断するとすぐにだばーっとお口の端からおよだが出てきてしまうが、それにしたって赤ん坊が笑顔でご飯を食べる姿は可愛いものである。自分に子供がいれば、同じ感情を抱くのか……いや、もっと大きな暖かな気持ちになれるのかなと、イズミはそんなことを思った。
「少し前まではもっと小さくて、離乳食だって食べられなかったのに……きっと、あと数か月もしないうちにはこの離乳食でさえ食べなくなると思うと……」
「感慨深い、ってやつかな?」
「それもありますが……ちょっぴりだけ、今この瞬間のテオを独り占めしているイズミさんに妬けちゃいますね」
「はは、そりゃ勘弁してほしいな」
「んま!」
にこーっとテオが笑い、お口の周りが大変なことになった。しょうがねえなぁと苦笑いしつつ、イズミはタオルでその口を優しく拭いていく。
「……そうだ」
「どうしました?」
「いや……ちょうどいいヒマつぶしがあると思ってな」
もはや無用の長物と化したそれ。しかし、長年の習慣で、イズミはいつだってそれをポケットに入れていた。
「これ。スマホって言うんだけど」
「すまほ……?」
スマートフォン。電話にメール、インターネットに電卓、さらにはゲームや音楽まで楽しめるという、イズミの住む世界を象徴するかのような逸品だ。これさえあればだいたいのことはできるし、逆に言うとこれが無いと今の世の中はひどく生きづらい。
もちろん、このスマホもパソコンと同じく、インターネットにアクセスはできるのに書き込みはできないという謎現象が生じてしまっている。ニュースサイトも一切更新がされないし、電話やメールも使えない。スマホとしてはその機能の大半が封印されてしまったと言っていいくらいである。
が、そこは腐ってもスマホ。この明らかに電気も通っていない世界にはない大きな力がある。
「そうだなァ……見せたほうが早いか。……ミルカさん、こう、ちょっと笑ってみて」
「え……こうですか?」
ぎこちなく、ミルカが笑う。さっきみたいに笑ってくれるのが一番なんだけど……と思いつつ、イズミはミルカに向かってスマホを向けた。
──カシャッ!
「きゃっ!?」
シャッター音。聞きなれぬ音に驚いたのだろう。はっきりわかるほどにミルカはびくっと体を震わせた。
「い、今のは……?」
「これ、カメラって言って……ようは、風景を写し取る機能だよ」
イズミが見せたスマホの画面。その中には、やっぱりぎこちなく笑っているミルカの姿があった。
「こ、これ……私……?」
「なかなかよく写ってるだろう? これで写真を撮れば、今のテオのことをこうやって思い出として取っておくことができるんだ。このスマホなら今のミルカさんの手でも扱えるし、こいつは動画だって撮れる。操作は簡単だけど、良いものを撮ろうと究めるのは結構難しい。これなら暇つぶしにもなんにでも……って」
「…………!」
「おーい? ミルカさーん?」
ミルカの目がイズミのスマホにくぎ付けになっている。ちょい、とそのまま向けたスマホを水平移動させてみれば、それにつられるようにミルカの視線も動いた。
「ど、どうした? 写真を撮るのっていけないことだったり……」
「イズミさん」
「あっ、はい」
今までに感じたことのない程の、静かな迫力。す、と差し出された手に感じたのは、有無を言わせない確固たる意志。そうしないと何か大変なことが起きると本能で感じたイズミは、ほとんどノータイムでスマホをその手のひらに置いた。
「ああ……! ああ、やっぱり……!」
両手でスマホを持ち、画面にくぎ付けになったミルカが呻くようにつぶやく。
「ここと、ここにも……! うそ、私の顔ってこんなに……!?」
「み、ミルカさん?」
「うそでしょ……でも、これこんなに鮮明……。じゃあ、やっぱりこれは間違いない……! すごく、すごく目立ってる……!」
「目立ってる? ……いや、いつも通りのミルカさんだと思うけど……何か変なのでも映ってるか?」
イズミが漏らした何気ない一言。ミルカにとっては触れられたくないことだったのだろうか。一瞬でかあっと赤くなって、若干潤んだ瞳でイズミをにらんできた。
「い、言わせないでくださいっ! 私、これでも結構気にしてるんですからっ!」
「え……?」
「だから──ホクロです!」
そう言ってミルカは、恨めしそうに画面をにらみつけた。
「私、昔からホクロが多くて……! ほら、やっぱり目の下とくちびるの端に……! 耳たぶにもあるし……!」
「あー」
確かに、ミルカには右目に泣きほくろ、左のくちびるの端のところにもホクロがある。綺麗な顔立ちの中でそれはそこそこ目立っていて、ミルカの顔の印象として結構頭に残るものでもある。
だけど、別にそれだけ……特別気にするようなものでもない。それどころか、むしろ色っぽくていいんじゃないかとさえイズミには思える。
「別にいいんじゃないか?」
「よくないですっ! なんか、シミみたいじゃないですか! それに、人様には言えないですが体のあちこちにも……!」
「ああ……そう言われてみれば、首の後ろの根元というか、うなじというか……そこにもあるな」
「ええ!? そんなところにも!? ま、まさか他にも……!」
「ああ、看病していた時に……」
「看病していた時に?」
「…………いや、なんでもない」
「……あっ」
左胸のところと、足の甲と、背中の肩甲骨のあたりと、太ももの内側の方。イズミがはっきり覚えているのはこれくらいだ。
もちろん、口に出さない程度の良識はある。
「……忘れてください。……ぜったいに、いいですね?」
「お、おう……なんかごめん」
「だから、もうその話はしないでくださいっ!」
珍しく声を荒らげたミルカは、この話はこれで終わりだと言わんばかりにスマホを構えた。画面を見て、ぐーっと大きく腕を伸ばして、そしてくるっとスマホをひっくり返して……。
「……イズミさん、これの使い方を教えてくださいまし」
「元からそのつもりだけど……なんで、そんなに腕を伸ばしてるんだ? テオを撮るんじゃなかったのか?」
「その前に、もっとちゃんとしたのを撮りなおしますっ! こう、逆側から上手く角度を調整すればほくろが目立たないやつが撮れるはずですっ! さっきのは絶対、たまたま映りがわるかっただけですからっ!」
「お、おう……」
げにおそろしきは女のサガであった。スマホも写真もろくに知らないだろうというのに、すでに一端の女子高生のようにミルカは写真写りを気にしている。やはり、たとえ異世界であろうとも女心というものは変わらないらしい。
「ああでも、それならせっかくだし……」
「イズミさん?」
──これくらいは役得ってことでいいよな?
テオを抱っこしたまま、イズミはミルカの隣に腰掛ける。そして、スマホのカメラをインカメに切り替えた。
「わ……こっち側のも写るんですね……」
「うん。だから……」
「お願いです、もっと腕を伸ばして……そう! あと、もっと近づいて……ああ、テオは私に寄せて、テオの顔でこっちの目元のを隠すように……イズミさん? 聞いてますか?」
「お、おう」
意外なほどに、ミルカはぐいぐいとイズミの方へと体を寄せてきた。一応気を使ってそれなりに距離を取っていたというのに、いまやすっかりほぼ密着状態だ。
よほどほくろを気にしているのだろう。画面の中央には満面の笑みのテオがいて、そのサイドにイズミとミルカがいるような構図になっている。
スマホを持つイズミの腕はああでもない、こうでもないとミルカによってぐいぐいと動かされ……最終的には、テオを抱きあうような構図を斜めからのアングルで見下ろすような形となった。
「これです! これで……はい、テオ笑顔! イズミさんも、負けないくらいに!」
「ミルカさんは?」
「私はいつでもばっちりです! イズミさんのタイミングでお願いします!」
──こりゃ、敵わねえなァ。
ぱしゃり、と機械的な音。さっと取り上げられるスマホ。うららかな午後の一室に響く、喜びの声。
「これですよ、これこれ! 私もテオも──良く撮れています! ほくろも全然見えないですし!」
「ああ、ホントに」
──最高の一枚だな。
──その日から、イズミのスマホの待ち受け画面が新しくなった。




