21 うららかな午後
ミルカの目が覚めてから、イズミの生活は少しだけ変わった。
テオとミルカが起きる前にイズミは起きる。そのままそうっと顔を洗って意識を引き締めた後に、朝ご飯の支度をする。テオに作るのは専らミルク粥で、デザート代わりにリンゴの擦りおろしを少々。ミルカには卵粥や中華風の鳥粥、あるいは野菜スープといった栄養があって消化にやさしいものをその時の気分で作り、デザートに桃缶か切り分けたリンゴを用意する。
リンゴよりも桃缶が出たときのほうが明らかにミルカの顔がぱあっと輝くのだが、テオが桃缶を食べたがる関係から、桃缶を出せる機会はそう多くない。
二人の朝餉が済んだところで、イズミはようやっと自分の朝ご飯の支度に入る。とはいえ、テオから目を離すわけにはいかないので、自分の分は余った米や焼いたパンで軽くささっと済ませることがほとんどだ。どうせいつも朝はたいして時間をかけていないし、これは特に変わりはない。
朝ご飯が済んだら、ミルカの包帯を取り換える。上手い具合にミルカを起こして、ベッドに腰掛けるような体勢になってもらい、一枚一枚丁寧に取り換えていくのだ。
やはり最後の一枚が剥がれる時にそれなりに痛みを伴うらしく、ミルカはいつもイズミの腕を握って堪えている。シチュエーションを考えるならなかなかうれしいと思えなくもないが、実際は肉が抉れるんじゃないかと思えるくらいに指が食い込んでくるので、イズミとしても虚勢を張るので精いっぱいだ。
もちろん、痛みを感じている側のミルカの方はもっと酷いありさまである。『女の人も、こんな顔するんだなァ』とイズミが一つ賢くなってしまったほどだ。
最初のころは赤や黄色の染みが酷かった包帯も、ここ最近はずいぶんとマシになってきている。取り替える時もあまり汚れていないし、包帯を取り換える際のミルカの呻き声も小さくなってきていた。
最初の時ほどの癒着したそれが剥がれることによる激痛というよりかは、治りかけのそれに擦れて痛む、といったところだろう。それでなおイズミの腕を掴むのは、安心感を求めているのか、はたまた癖になってしまっているのか。
包帯を取り換え終わった後は、テオの面倒を見つつ諸々の家事を行う。具体的には、皿洗いと洗濯だ。どうせ時間だけはたっぷりあるので、テオを抱っこしながらでもそれなりにこなすことができる。
テオを視界に入れつつ洗濯ものを干し終わるころには、もうお昼の時間だ。ここでもまた、朝と同じようにお粥などを作って済ませることが多い。テオの場合、朝の段階である程度作り置きをすることがある……というかおやつ代わりとしてちょくちょくご飯をあげるため、朝のアレンジメニューとなることがほとんどだった。
そして、午後。
運が悪いと、大体このくらいの時間に魔獣とやらの襲撃がある。魔獣が近くに寄ってくると、なんというか森の雰囲気が変わるのですぐわかるのだ。なにより、暴れに暴れて石垣や門扉、謎バリアにガンガン攻撃してくるので、物音で嫌でも気づく。
イズミもこの世界で暮らしているうちにずいぶん図太くなったもので、一人で暮らしていた時は面倒くさがって向こうが飽きるまで放っておくこともあった。もちろん、大半はきっちり駆除していたとはいえ、【見逃す】という選択肢が全くなかったわけでもない。
が、今は違う。
運が良いのか悪いのか、大体その時間はテオのお昼寝タイムだ。そして、近くを魔獣がうろついているとミルカが酷く怯える。
よってイズミは魔獣が寄ってきたのを察知した瞬間に、プロテクター一式に鉈とクマよけスプレー、場合によっては電動草刈り機かチェーンソーを装備して駆逐にかかる。
では、魔獣が訪れない場合はどうなるのか。
答えはもちろん──ヒマであった。
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「幸せそうに寝てるよなァ」
「……ふふ、それだけ安心できるのでしょう」
イズミの自室、ミルカのベッドの脇。声を潜めながら、二人はテオの寝顔を見てそんな話をしていた。
テオはイズミに抱かれ、その胸板にほおずりするようにしてスヤスヤと小さな寝息を立てている。今日は抱っこの気分だったらしく、いつもの万年床だと全然寝てくれなかったのに、イズミが抱っこしてゆらゆらすると、あっという間に寝てしまったのだ。
「……このまま布団に持っていけるといいんだが」
「うーん……」
残念なことに、布団に寝かせようとするとテオは起きてしまった。そのままギャン泣きされてしまい、ほとほと困り果てたイズミがまた抱っこすると、今度は嘘のようにおとなしくなってストンと眠る……というのを、先ほどから何度か繰り返している。
上手く眠ってくれるのはイズミとしても嬉しい限りだったが、しかしこの状態ではあまり動けないのが難点だった。
「まぁ、やることなんて何もないし、別にいいんだけどさ」
「えぇ……こう言っては何ですが、俗世間から離れてゆったり時間が流れているというか……魔獣さえ気にしなければ、療養にはもってこいの環境かもしれませんね」
「あぁ、わかる」
午後のうららかなひと時。柔らかい日差しが窓から注いでいて、心地よい風が吹いている。テオでなくても、お昼寝にはぴったりの気候だった。
「ミルカさんも昼寝するか?」
「いえ……私は眼が冴えているので。こう、日がな一日ベッドにいるのが申し訳なくなってくるくらい……」
「体の調子はだいぶ戻ってきたってことなんだろうな。あとはもう、外傷さえ治れば立ち歩くくらいはできる……と思う」
「ええ、本当にありがとうございます。ここまで面倒を見てくださって、なんと感謝すればいいのか……」
「何度も言うけど、そんな気にしなくていいから」
それこそ、暇つぶしみたいなところもあったし──という言葉を、イズミは心の中に閉まっておく。
「でもそうなると、日中は結構暇じゃないか? 一日ずっとこの部屋のベッドの上となると、気だって滅入ってくるだろう? ……立てたなら、この家を見回るだけで結構な暇つぶしになったと思うんだけど」
「んー……安心して落ち着けますし、今は別に退屈とは思いませんが……」
「パソコンがきちんと使えればよかったんだけどなァ」
「ああ、あれ」
ちら、とイズミは部屋の片隅のパソコンを見た。
どこにでもある、デスクトップのパソコンだ。普通のものよりモニターがちょっぴり大きめで、しかも二つもある。性能もそこそこよく、動画を見るのにも不自由しない。やったことはないが、オンラインゲームも特に問題なく遊ぶことができるだろう。
普通にネットサーフィンをする分には明らかにオーバースペックだが、これはイズミが在宅業務をするゆえの性能である。
「不思議な道具ですよね。板の中で演劇が行われているなんて。……何を言っているのか、さっぱりわからなかったですけど」
「だよなァ」
一日中ずっと部屋に引きこもっているのでは退屈だろうと思ったイズミは、ミルカの暇つぶしとして、パソコンで適当な動画を探して見せたのだ。
ところが、ミルカにはパソコンの音声を上手く聞き取ることができなかったらしい。より正確に言えば、音自体は正常に聞こえているものの、言っている意味が全く分からないとのことだった。
「俺には普通に聞こえるし……こうして、今も普通に会話が成立しているんだから行けると思ったんだけど」
「そういうものなんでしょうか……あ、でも、音楽はとても素敵だと思いました。あんなにたくさんの……それも色んな楽器を使った音楽を聴けるなんて、本当にすごい板ですよね」
言語でなければ全く問題ない……音そのものである音楽ならば、ミルカも普通に楽しむことができたので、一応暇つぶしにはなっている。ミルカが好むのは専らクラシック──というより、この世界にエレキやメタルなんてジャンルがあるはずもないので選曲は偏ってしまうが、それでも十分であった。
ただ。
「でも、テオが寝てると使えないんだよな……」
「ですねぇ……」
赤子が寝ているところで音楽を流せるわけがない。ついでに言えば、ミルカ自身はパソコンを扱えないので、いちいちイズミが操作する必要がある。
「悪いなあ、話し相手にしかなってやれなくて」
「いえいえ、そのお気遣いだけで十分すぎるほどありがたいです」
静かな沈黙。のどかなのんびりとした時間。窓の外からは小鳥の鳴き声が聞こえて、部屋の中には赤ん坊の小さな寝息しか聞こえない。
「そうだ、夕飯のリクエストとかある? 食べたいものがあったら、何でも言ってくれ」
「いえ……用意して頂けるだけでもありがたいですし、大丈夫です。ただ……」
「ただ?」
ミルカは恥ずかしそうに目を伏せ、頬を赤らめて言った。
「その、もしも、もしも叶うのであれば……おやつにあの桃をいただきたいなあって……!」
今ならテオも寝ていますし、とミルカは言い訳するようにつづけた。
夕飯のリクエストを聞いたと思ったら、おやつのリクエストをされていた。大人っぽい雰囲気なのに、時たまこうして子供のような一面を見せるから油断ならないと、イズミはミルカの認識を改める。
「しょうがねえなァ……俺もちょっと久しぶりに食べたくなってきたから、二人で食べるか」
「うぅ……何でも言ってくれって言ったじゃないですかぁ……!」
「おう、言ったとも……ちゃんと夕飯を食える程度には抑えてくれよ?」
「そ、そんなに食べないもん……!」
恥ずかしそうに睨んでくるミルカに背を向け、イズミは自室を後にする。
「……んま?」
「あ」
──準備している間にテオが起きてしまったのは、二人にとって大きな誤算であった。




